05


今朝の列車事故の新聞をテーブルに置き、朝食の片付けをしようとキッチンに立てば、ふいに玄関の呼び鈴が鳴った。あまり訪問者を迎えることのないナマエは、不安に思いながらも扉に手をかけ、ドイツ語で名前を訪ねた。


「どちら様でしょうか。」

「突然すまない。結城だ。」


突然返ってきた日本語に驚きながらも、ナマエは慌てて扉を開けた。


「結城のおじ様!どうしてドイツに?」


結城というこの男は、ナマエの父親と懇意にしている軍人で、小さい頃から彼女自身も慕っていた。この留学の件も結城の紹介ということもあり、父親もすんなりと納得したようなものだった。


「仕事でこちらに来る機会があったのでね。父上も君のことを心配していたよ。」


「本当に驚きました。けれど、立ち寄って頂けて嬉しいです。」


結城は椅子に腰掛け、手元にあった新聞に目をやりながらナマエに尋ねた。


「こちらの生活には慣れたかい。困っていることはないかね。」

「はい、有意義に過ごせています。」


コーヒーを差し出しながらナマエは答えた。

「それなら良かった。父上にも伝えておこう。それはそうと、探していた楽譜が見つかったようで驚いたよ。」


結城はテーブルの側にあるピアノを指差してそう言った。日本にいる頃から楽譜の話を結城にしており、彼も探してくれていたようだったが見つからなかったのだ。こんな小娘の話をよく覚えていてくださるものだとナマエは驚きながらも嬉しく感じた。


「私の知人もそれを探していてね。よほど魅力のある楽譜らしいな。」

「そんな偶然もあるのですね。よろしければ、そのお知り合いに差し上げますわ。私はもう十分勉強させて頂いたので。」

楽譜の下にはあの青年に借りた小説が置いてあった。楽譜を手に取る瞬間、あの雨の日の指先の温度がふと蘇り、何故だか胸が苦しくなった。


「いいのかい?知人は大喜びするだろうが。」


結城はすまなそうに尋ねたが、ナマエは「その方が楽譜も喜びます」と、快く楽譜を手渡した。


「実は、ぜひ君に紹介したいピアニストがオーストリアにいるのだが、興味はあるだろうか。」



結城のこの申し出により、ナマエはドイツを離れることとなった。彼女の脳裏には一瞬、青年の存在がよぎったが、何故だか顔があまり思い出せなかった。


最後に受け取った小説は、彼が言っていた通りお互いの名前を知らない男女が惹かれあい、逢瀬を重ねるが女には名乗れない事情があり、最後まで結ばれることはない物語だった。それでも、それぞれ別々の道で幸せな生活を築いていると綴られていたのが唯一の救いだ。

あの青年への感情が恋慕だったのかはわからないが、それでもあの物語のように、どこかで幸せに暮らしてくれていればと願うのだった。


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