04
「今日は本を読んでいるんですね。どういった内容なんですか?」
例のごとく、いつものカフェで彼に会ったナマエは問いかける。彼が手にしているのは大抵新聞、あとは話すきっかけとなった楽譜だった。本を手にしているのが珍しく感じ、素直に尋ねてみたのだった。
「これは、よくある恋物語ですよ。以前知人に勧められまして。最後までヒロインの名前がわからずに終わるところに何故だか惹かれましてね。」
恋物語なんて、普段なら選ばないのですが、と付け加え、彼は答えてくれた。
「名前がわからないなんて、それで物語が成り立つのですね。」
一度は読み終わっているらしいその本を読み返すということは、よほどその本が気に入っているのだろうけれど、名前も知らない誰かとの恋物語というものがその厚さの本にまとまるものだろうかとナマエは疑問に思った。その言葉を聞いた彼はくすりと笑った。
「現に、僕もあなたの名前を知りませんよ。それでもほら、僕たちは会話を何度も重ねている。それを有意義な時間と感じるならば、立派な物語だ。」
「それは確かに、そうかもしれませんが。」
不思議なことに、ナマエと彼はお互いの名前を知らなかった。何故だか名前を尋ねるタイミングを逃してしまい、それでも不自由なく過ごしているのだった。
どれくらい彼と話していただろうか、気づけば外は少し暗くなり、雨が降り出していた。
「雨だなんて、家を出るときは晴れていたのに。」
もちろん晴れていたのだから、ナマエは傘など持ち合わせていなかった。雨が上がるまではカフェで待つしかないだろうかと考えていれば、用意の良い彼は自身の傘を手に取り、「送りますよ。」と声をかけてくれた。ナマエは申し訳なさから気が引けたが、折角の好意に甘えることにした。
いつもは向かい合わせで話す彼と、2人で1つの傘を使い、いつもより近い距離で並んでいることに違和感を感じながらも、ナマエは平静を装って歩いた。
「そういえば、お借りしていた楽譜をお返ししますね。あ、けれど雨の日にお返しするものではないですね。次にお会いするときに…」
「あの楽譜は差し上げますよ。もし、あなたが今後、自身のようにその楽譜を探している方に出会ったなら、そのときは同じようにその誰かに渡したら良い。」
「あんなに貴重なものを。」
「構いませんよ。本当に欲してくれる誰かの手に渡ったほうが楽譜も幸せでしょう。」
そう言って彼はナマエを見やり、柔らかく微笑んだ。そんな会話を続けていれば、ナマエの住むアパートメントにあっという間にたどり着いていた。
「本当に助かりました。ありがとうございました。」
「ああ、そうだ。これを。」
そう言って彼は鞄から取り出した小説を、ナマエの手に持たせた。その瞬間、彼の冷たい指先が触れ、ナマエの胸が高鳴る。指先が触れたまま、彼は言葉を続けた。
「良ければ読んでみてください。またお会いすることもあるでしょう。そのときに返して頂ければいいので。では。」
そう言って手を離し、彼は踵を返した。お礼を伝える間も無く去っていった彼の背中を、ナマエはただ見つめていた。
その日以来、ナマエが彼に会うことは二度となかった。
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