‐フロイドside‐
寒空の下で勉強していた小エビちゃんをモストロ・ラウンジへ誘うと、小エビちゃんは不信に思いながらも頷いてくれた。元からなのかイソギンチャクのことがあったからなのか、小エビちゃんはかなり警戒心が強いらしい。
オクタヴィネル寮へ続く鏡を抜けてモストロ・ラウンジに着くと、店内は今日もお客で賑わっている。
あまりうるさいと集中しづらいだろうということで、小エビちゃんはVIPルームに通してあげた。
『カウンター席でも良いですよ?』
「いーのいーの! 小エビちゃんはこっち」
客の中にはマナーの無い奴も多いし、何より学園内は男ばかりだ。女の子の小エビちゃんをそんなとこに置いておくわけにはいかない。
ジェイドは飲み物を淹れに厨房へと向かっていき、オレと小エビちゃんで先に勉強を始めることにした。
「んで〜、何がわかんないの?」
『えっと……、今はこのページのマーカーを引いてる文字の読み方と、このあたりの単語の意味全部です』
小エビちゃんの魔法史の教科書は、付箋とマーカーだらけだった。読めない単語に線を引き、オレの知らない形の文字で読み仮名を振っている。これは小エビちゃんの住んでいた世界の文字なのだろう。
入学して数ヶ月だというのに、もうたくさん使い込んでいてページの端はボロボロだ。オレの教科書の方が新品さながらな気がする……。
「小エビちゃんは真面目だなぁ」
『普通ですよ』
いやいや。これが普通だったらオレ含めて他の生徒はかなりのダメ男だけど?
……なんか自分で思ってて悲しくなってきた。
でも、この世界に馴染もうと努力している結果がこれなんだろうなと思う。
突然異世界に飛ばされて、帰る方法もわからなくて、魔法の知識なんてゼロの小エビちゃんたち。生きるだけでも精一杯だろうに、必死にみんなに追い付こうと頑張っている証だ。
息抜きになればと思って連れてきたけれど、これを見ては茶化す方が難しい。
「じゃ、このページから教えるね〜」
『はい。宜しくお願いします』
* * *
こんなに真面目に勉強教えるオレ、超レアじゃね?
と、自分で自分を誉めてしまうくらいに、今のオレは良い子ちゃんだと思う。
飲み物を持ってきたジェイドも加わって、早くも二時間が経過しようとしている小エビちゃんの特別勉強会。
オレって未だ嘗てこんなに人に勉強教えてあげたことなんてあったっけ?
絶対無い。
『……よし。今わからないのはこれくらいです。ありがとうございました』
「どういたしまして〜。頑張ったねぇ、小エビちゃん。偉い偉い」
「お疲れ様でした。なかなか飲み込みが早くて教え甲斐がありましたよ」
わからない文字以外にも、文法や他の教科も教えてあげると、小エビちゃんはノートを取りながらどんどん吸収していった。
自力で学習した期末テストでの順位は下から数えた方が早かったと聞いているけれど、それはアズールのノートで満点をとったイソギンチャクたちが多かったせいだ。ズル賢い奴らさえいなければ、小エビちゃんの方が順位も高かったはずだし、異世界人でなければ絶対に頭も良い。
ジェイドの言う通り、教えているオレたちも気持ちが良かった。
『お二人とも凄く丁寧でわかりやすかったです。助かりました』
「ふふ、それは良かった」
「そうだ! 頑張った小エビちゃんにぃ、良いものあげる」
本当はVIPルームに来てすぐに出そうかと思っていたけれど、真面目な小エビちゃんを見ていてすっかり忘れていた。
急いでVIPルームを出て厨房に向かい、冷蔵庫から目的のものを持って戻ると、小エビちゃんは何だろうと首を傾げた。
不思議そうにする小エビちゃんの前にそれを置くと、目を丸くしてオレを見てくる。
「へへ〜、小エビちゃんチョコレート好きって言ってたから作ってみたんだぁ」
ガトーショコラ。
小エビちゃんは生クリームが苦手だから、真っ白な粉砂糖と苦めのチョコレートソース、イチゴのコンポートでデコレーション。
『え……。これ、わざわざ?』
「そ! 小エビちゃん食べてみて」
『で、でもこんな……』
「良いから良いから!」
遠慮する小エビちゃんに、少し強引だけどお皿ごと手渡す。でないといつまでも押し問答が続くだろう。
小エビちゃんは本当に良いのかと問うような目を向けて、オレが大きく頷くとやっとフォークを手にとった。
小さく一口大に切り分けてソースを絡ませ、小さな口に運んでいく。
その様子を見て、オレは何故か少しだけ緊張した。
「どう? 小エビちゃん、美味しい?」
美味しいかと聞かれて、不味いとは答えにくいに決まっている。でも、やっぱり美味しいって言ってもらいたくて、意地悪だけど聞いてしまった。
小エビちゃんのことだから、きっといつものように無表情で「ありがとうございます」と言うに違いない。そう予想して待っているのだが、小エビちゃんはその一口を数回噛み締めると、瞬きもせずに固まった。
『…………』
「「…………?」」
……五秒…………十秒…………十五秒…………
…………動かねぇ。
「……小エビちゃん?」
「ユノさん?」
見守ってくれていたジェイドも不思議に思ったらしい。
まさか本当に不味かった?
材料間違えてねーよな?
そんな不安にかられながら、二人で小エビちゃんの様子を窺い見る。
「……え?」
なんだこれ……?
なんか小エビちゃんの目ぇキラッキラしてね?
小エビちゃんの周りだけぽわぽわした空気が見えんだけど……。オレの目の錯覚?
どゆこと?
「小エビちゃ〜ん?」
『…………あ』
顔の前でヒラヒラと手を振ってみると、やっと戻ってきてくれた。
「だいじょぶ?」
『はい。すみません。凄く美味しいです』
「ほんとに? めっちゃ意識飛んでたけど……」
『本当です。……こんなに美味しいケーキ食べたのも、ここまで誰かに構って貰えるのも初めてで、つい……』
そう言って、小エビちゃんはケーキから顔を上げると真っ直ぐにオレを見詰めてくる。
『嬉しいです。ありがとうございます、フロイド先輩』
「!!」
その瞬間、時が止まったような気がした。
(…………小エビちゃんが……笑った……)
今まであんなに上がらなかった口角が、ほんの少しだけど確実に上がった。
目元もゆるく弧を描いていて。初めて見るその表情に、オレの心臓は痛いほどに高鳴った。それと同時に、顔面に熱が集中して小エビちゃんを直視できなくなる。
「……っ!」
『どうかしました?』
「おやおや。フロイド、大丈夫ですか?」
「だ、だいじょぶっ! ちょっとトイレ!」
今度はオレが心配され、小エビちゃんに顔を覗き込まれる前に理由をつけて席を立った。
(嘘だろ……っ)
ただの興味本位で観察していただけだった。存在感が薄いくせに、いないとどこか物足りない不思議な子。カニちゃんたちにさえ自分のことを明かさない、表情も変えない、秘密に溢れた小エビちゃん。
いつからか、笑わせてみたいなんて野望も出てきたけれど、それがまさかあのケーキひとつで叶うとは。しかもあんな、ゆっくりと花が咲くような、幸せそうな表情を見せられるなんて……。
「まじかよ……。はは。オレ、ダッセ〜……」
廊下の壁に寄りかかり、火が出そうなほどに熱くなった顔を片手で隠す。落ち着かない鼓動と、脳に焼き付いたあの笑顔。この感情に気付かないほど、オレは鈍感じゃない。
(早く冷めろ。熱ぃんだよちくしょー)
今はまだ小エビちゃんに告げるべき時じゃない。部屋に戻ったらいつものオレにならないと。
いつものオレは小エビちゃんにどんな態度だっただろう。そんな思考を巡らせながら、長いようで短い時間をかけて、冷たい廊下で一向に冷めそうもない熱と格闘していた。
『大丈夫でしょうか、フロイド先輩』
「フフ……、心配せずとも、ちゃんと戻ってきますよ。……ふふふ……っ」
『……?』
「ふふ、何でもありません。ところで、そのガトーショコラはお気に召しましたか?」
『はい、凄く。甘さも好みですし、お金払ってでもまた食べたいです。生クリームも添えないでくれて……、配慮してくれたんだなって……。その気持ちが凄く嬉しいです』
「それはそれは。あとでフロイドにも伝えなければいけませんね」
『はい』
(オレが廊下にいるのわかってて聞いてるだろジェイドぉぉぉぉ!!)