泡沫の海は苦い


「ファリーナさまー!」

 遠くからわたくしを呼ぶ声がする。言いつけを破っていることを思い出し、隣にある手をきゅっと握る。
 私と同じ小さな手は頼もしく握り返してくれた。そっと、顔をのぞき見れば、目が合ってぎこちないけれども笑い返した。

 そんな彼の姿に、胸が暖かくなる。気恥ずかしくて、目を伏せる。

 わたくしを呼ぶ声が遠ざかった。

「…行ったみたいですね」

 小さな声で隣にいる彼…ルードハーネが呟いた。
 そして、頷き合う。
 隠れ潜んでいた木のウロから這い出る。その拍子に着物が擦れて裂けてしまった。思わず声を漏らしそうになるのを手で押さえる。

 こんなことで声を出してしまったら、ここまで来た苦労が水の泡になってしまう。
 大人たちに見つかって連れ戻される前に……、行こう。

 目を閉じて、行きたい場所を思い浮かべる。絵本に描かれた真っ青な海。どこまでも広がる水平線。不思議な味がするというしおかぜ。
 わたくしたちはその場にいる……。

 握る手を強める。

 海を、見たい。

 空気が変わった。
 今まで嗅いだこともない不思議な空気にとじていた目を開ける。
 そこには……、青。

 足元の砂が、体重に従って崩れる。砂の上を歩くという初めての体験に歓声を上げる。
 大成功だ。

「わあっ…!ルード、うみよ!みてみて!」

「………ええ。これが、うみ…」

 その、どこまでも広がる青に目を奪われる。
 ふたりで、はじめて絵本に出てくるうみをみて、行ってみたいと思うようになった。けれど、里から出る機会はそうそうない。
 本当にふたりっきりになるのもない。いつも、お目付け役が随行していた。だから、大人たちが宴の準備でせわしなくしている時を狙って、お目付け役を騙して撒いたてふたりっきりで手を取り合って、逃げ出した。
 途中で見つかりそうになって森で息を潜めて隠れるという予定外のことは起きたけれど、ファリーナの空間移動で海に行くことは成功した。

 けれど、もう、ふたりがいないことは知れ渡ってしまっているだろう。じきに空間移動に長けた里の大人がやってくるだろう。
 だから……。

「ルードっ、遊ぼう!」

「はい!」

 まずはなにして遊ぼう。泥遊びは着物が汚れるから禁止されていたけれど、砂遊びは禁止されていない。それは、里に砂地がほとんどないからというのもあるけれど。
 ふたりともこんなにたくさんの砂を目にするのは初めてだった。砂遊びもとても魅力的だ。けれど、何よりも目を引くのは…この目の前に広がる海だった。

 波打ち際には本当に小さなカニがいることに目を瞬かせ、草履を投げ捨てる。泡立つ波が素足をくすぐるのにふたりして目を細める。

 しょっぱい風が守られた里ではないことを証明していた。
 里を抜け出して悪いことをしている愉快さと非日常に気分が浮き立つ。晴れ渡る空と、吸い込まれるように青くどこまでも広がる海は、幼い子供の冒険心をくすぐらせた。

 けれど、予想していた通り、楽しい時間は直ぐに終わりを告げてしまった。


***


 叱られて、座敷牢に閉じ込められるお仕置きを受けることになってしまった。
 座敷牢にまつわる怖い話を周りの大人たちから吹き込まれてからというものの、座敷牢はふたりにとって恐ろしいところだ。

 真っ暗な中で転ばれて怪我でもされたら困るということで、ロウソクがともされている。けれど、ロウソクの作り出す影は幼い子供にとっては残酷なほどに深い。
 影がゆらゆらと揺れるたびにふたりとも体を揺らす。

「うっ……、グスッ」

 怖い。

 どこかから軋む音が聴こえてくる。それに身を縮こまらせる。
 怖くて仕方がない。けれど、泣き言は言えない。
 こうなることを予想してもなお、海を見たいと思った。

 里の子供たちのお仕置きの定番が座敷牢でひと晩過ごすことだったから、こうなることを予想するのは難しくなかった。
 閉じ込められた子供たちの体験談を聞いて、身を震わせたのは記憶に新しかった。

 怖い。

 けれど、それを口にしてしまったら本当に怖くなってしまいそうで言えなかった。その代わり、隣にいるルードの手を握る。
 ほかほかと暖かい手が怖さを溶かしていくようだ。

 しん、とした座敷牢は静か過ぎて不安を煽る。それをなんとかしたくて無理やり口を開く。

「…うみ、きれいだったね」

「はい、きれいでした」

 わずかなろうそくの灯りがルードの目に反射してきらきらと光る。思い出してでもいるのだろうか、目を細めている。
 それに従い、わたしくしもつい先ほどまで目にしていた海の情景を思い返す。
 この座敷牢には空間移動を封じる特殊な結界がかかっているから、空間移動で外に出ることはかなわない。
 でも、もしかしたら……。

 海。
 寄せて返す波の規則的なようで不規則なさざなみ。波が濡らす湿った砂を裸足で踏む感触。手に持ってこねる感触。
 塩辛い、と表現する不思議なにおいの風。

 空は青く晴れ渡っていた。

 そう思うと同時に、日のささない座敷牢に真昼のような明るさが現れた。無風なはずなのに、頬を叩く湿った風。
 そう、こんな感じだった。

「ファリーナ…?」

 異変に不思議そうにするルード。

「ね、こんな感じだったよね」

「え、えぇ…、これは…――」

 正体を言い当てようとするルードの口を慌てて抑える。そんなこと言ってしまったら、わたしくしの幻覚の世界が効果を失ってしまう。

「これは、うみ、よ」

「はい。――……すごい」

 ほう、とため息をつくルードに得意げにしてみせる。

 この座敷牢では空間移動はできないと言われているけれど、幻覚ならどうだろう、と思いながら習ったとおりに想像してみた。

 そして、目の前に広がるのは真昼の海。

 さきほど見たばかりの海そっくりそのままだ。記憶があやふやになってしまっているところは、絵の具でぐちゃぐちゃにかき回したみたいに、まだらになってしまっているけれど、それを除けばれっきとした幻覚だ。

 恐る恐るルードが海に手を伸ばす。

「あっ、ダメ……」

 遅かった。

 水面を叩くはずの手は空を切る。
 そしてそれを皮切りに、幻覚があせて元の暗がりに戻っていってしまう。

「す、すみません」

「ううん、術をいじできないわたくしが悪いの」

 感触も再現できていない幻覚を生み出したことがバレれば、またお父様に叱られてしまう。

「……ファリーナは、すごいですね」

「まだまだだよ」

「そんなことありません!だって、だって…私は、幻覚どころか、空間移動すらできないんですから」

「大丈夫よ!ルードだってできるようになるわ!」

「できないんです!」

 甲高い、悲鳴のような声が暗闇を引っ掻く。声を荒らげたルードに思わず身をすくめる。
 それに気づいたルードはひどく後悔したような、傷ついたような顔をして、かかえた膝に顔をうずめてしまう。

 ファリーナは、そんなルードになにも言葉がかけられなかった。
 ルードはお館様の嫡子であるにも関わらず、鬼の能力が使えない。しかし、同年代の子供の中でファリーナほど自由自在に扱えるのはほとんどいない。
 それを考慮してもなお、ルードには能力の片鱗が見当たらなかった。

 それに大人たちは失望する。
 どんなにそれを上手く隠してみせたとて、子供は敏感だ。

 ファリーナはそれを感じてはいたけれど、能力を見せびらかすというような気でしたわけではない。
 ただ、沈んだ心をすこしでも浮上させたかった。海で見せたようにルードが笑顔になってくれさえすれば…、よかった。
 ところが、得られた結果は正反対。

「ご、ごめんなさい」

「あやまらないでください」

 謝られたら、もっとみじめになるじゃないですか。

 そう言われては、もう何も言えない。

 どうして、こうなってしまったのだろう。
 唇を噛んで、顔を伏せる。

 泣き出してしまいたかったけれど、それをしたらもっと気まずくなってしまう。だから、必死に涙をこらえて、声を上げないようこらえた。

 どうして、海を見たいと思ったのだろうか。

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