仕事部屋を後にして長い通路を歩いていた翠は微かに感じた気配にぴたりと足を止めた。

かと思えば突然後ろに振り返り、元来た道を全速力で駆け抜ける。右手を後ろに回し得物を引き抜きながら長く続く通路を曲がり、その先に向けてすぐさま番傘を構えた。――が、そこには何もない。用心深く上下左右に鋭い視線を飛ばすが、あるのは無機質な壁と床だけ。先程感じた僅かな気配も今は全く感じられない。

「…」

番傘を腰に引っ掛けながら眉を潜める。少し前までは毎日のように戦場に立っていたというのに、ここに来てからというもののそのような現場に立ち会うことが随分と減ってしまった。母艦で待機している間に若干感覚が鈍ってしまったのかもしれない。



――――



『末端の連中が?』


所変わって談話室。眉を顰めた興覇の視線の先で、儁乂がお菓子を机に広げながら頷いた。


『聞いた話だと”侍”って連中の仕業らしくて』
『ああ、攘夷戦争の時に刀一本で国を守ろうとしたって言う…って美味ェなこれ。売店の限定品か?』
『あ、問題ないっスか?』
『普通に美味ェぞ』
『じゃあ俺も』
『…あれ、もしかして俺毒味させられた?』


“期間限定ブラックペッパー梅しそチーズ”と書かれた袋に儁乂が手をのばす。


『まあ何にしても国の中枢機関が春雨と手組んでるんスよ。この件が表に出たからには奴らが滅びるのも時間の問題でしょうね』


するとその時、談話室の扉が開いて聞き慣れた足音が近づいてきた。二人の隣にできた影に顔を上げれば予想通り翠が腰に手を当てて立っている。


「お前たちは朝から元気だな」
『あ、おはようございます!』
『よお翠ちゃん、ここ座れよ』
『おっ翠ちゃんじゃねェか!おはよ』
『おはよーさん』
「ああ、おはよう」


暇を見つけては頻繁に談話室に訪れる翠に、最初の頃は騒いでいた団員たちも今ではすっかり慣れた様子で挨拶を交わしている。翠は興覇の隣に腰掛けると話の続きを促した。


「で、何の話だ?」
『いや、どうも転生郷取引で地球に行ってた末端組織がやられたみたいなんスよ。取引先の禽夜とかいったガマも政界から追放されたらしくて。ほら、あの陀絡って奴が率いてた』
「陀絡?」
『この前来てただろ?眼鏡かけた潔癖症のオッサン』
「……ああ、あれか」


その特徴を頼りに記憶を探れば思い当たる節があったのか、翠は期間限定ポテチをつまみながら呟いた。


『何とか帰還したはいいものの、上に見放されたみたいっス』
『まあここにはアレの代わりなんていくらでもいるからな。それに厄介事は早々に切り捨てるってのがこの組織だ』


そう言いながら興覇が新しいお菓子の袋を開けた瞬間、向かいに座る儁乂が素早く手をのばして袋ごとそれを奪い取った。奇襲に驚く興覇の前で特に悪びれる様子もなく、三角形の小さなスナック菓子を咀嚼しながら翠に向き直る。


『翠さん、何か聞いてないっスか?』
『ちょ、それ俺のォォォ!せめて許可取ってから食べて!』
「さあ、私は何も聞いていないが」
『え、マジ?翠ちゃんまで?』


儁乂が差しだしてきたお菓子を迷いなく口に入れれば困惑したような声が聞こえてくる。


「だが転生郷と言えば全体収入の何割かを占めていたはず。第七師団傘下の組織も何かと力を入れていたはずだ。恐らく上もすぐに別の人材を派遣して……、!」
『どうしたんスか?』
「…いや、」


不意に感じた視線に勢いよく顔を上げるが、見渡してもそれらしき人物は見当たらない。
不快感に眉を寄せた翠は、全ての発言をスルーされ影を落とす興覇に礼を述べると立ち上がった。


『あれ、翠ちゃんもう行くのか?』
「ああ。少し用事を思い出した」
『仕事っスか?』
「そんなところだ」


二人の送り出す声を背に受け、ひらりと手を振って談話室を後にする。辺りに気を配りながら分岐点に向かう翠は、その途中で感じた視線にぴたりと足を止めた。


「そこにいるんだろう」
『…』
「いい加減出てきたらどうだ」


その声で背後から姿を現した人物に翠は振り返った。立っていたのはこれまで何度か目にしたことがある第七師団の構成員。確か儁乂や興覇とも仲良くしていたはずだが、と肩を竦めれば鋭い視線が向けられた。


「私に何か用か?」
『…俺は許さねェからな、てめェが第一部隊の隊長なんて。常に前線で戦ってきた俺達第一部隊が女の下に就くなんざたまったもんじゃねェ』
「その不満はもっともだ。だが生憎、私も上司の決定には逆らえんからな。…それに」


口の端を上げて挑発的に笑う。


「少なくとも、お前よりは強い」
『ふざけやがって…っ!』


怒りに顔を歪ませ、体の横で拳が出来たのを認めた翠は笑みを深めた。

真っ直ぐ向かってきた拳をひらりと飛んで避ければすぐさま繰り出される反対側の拳。翠はチリッと頬を掠った熱にニヤリと笑った。その俊敏な動きは、さすが雷槍の異名をとる第七師団の主戦力といったところ。
しかし幾度も一人で死線を潜り抜けてきた翠の敵ではないというのも、また事実であった。


「…こうなることも予想済み、か」


次々に繰り出される攻撃をかわしながら、血気盛んな彼らを率いる憎たらしい笑顔を思い浮かべた翠はどこか楽しそうな笑みを浮かべた。






『…何か騒がしくねェか?』


不意にそう呟いて顔を上げた興覇を見て、儁乂が耳をすませる。構成員が談笑する声に混じって、どこからか聞こえる衝撃…いや、破壊音。


『どっかのアホ共が喧嘩でもしてるんじゃないスか?』
『ったく、血気盛んにも程があんだろ』
『いや、はしゃぎすぎてそんな髪型にした興覇にだけは言われたくないっスよ』
『お前実は俺の事嫌いだろ。…仕方ねェな』


言いながら立ち上がった興覇に続き、儁乂も廊下に出て音を頼りに足を進める。


『うおっ!?』


長い廊下を抜けた瞬間、興覇の足元に何かが勢いよく飛んできた。思わず立ち止まり足元の何かを見下ろした興覇は驚きに目を見張った。興覇の後ろから顔を覗かせた儁乂が『あ』と声を漏らす。


『公績じゃないスか』
『テメェ何暴れてんだよ』
『ッ…お気楽野郎は黙ってろ』
『あぁ?誰がお気楽だテメェ潰すぞ』
『ていうか公績が喧嘩なんて珍しいっスよね。一体誰と――』


青筋を浮かべた興覇に視線すら向けず、よろりと立ち上がった”公績”と呼ばれた男は真っ直ぐ前を見た。それにつられて二人も視線を向ければ、凛と立つ翠の姿。


『…え?』
『は?何で翠ちゃん?』


不思議そうに見つめてくる二人に視線を向け、苦笑を浮かべる。


「こっちにも色々事情があってな」
『は…っ、随分と余裕なこった』
「確かに、準備運動にもならんな」
『チッ…!』


張り詰めた空気に二人は思わず息をのむ。微笑を浮かべながら容赦なく攻撃を繰り出す翠の姿は、笑顔を最大限の作法として本能のままに血を求め一瞬で命を奪っていく、とある人物と重なる。


「遅いな」
『がはっ…ッ!』


血濡れになった公績が勢いよく壁に叩きつけられたところでようやく騒ぎに気付いたのか、何だ何だと集まってくる野次馬。最初こそ笑って集まってきた彼らだが、騒ぎの原因が新任の第一部隊隊長とその構成員であると知るや否や、揃って驚いた表情を浮かべた。


『おいおい、そこらへんでやめとけよ〜』


静まり返った空間の中、野次馬の中から聞こえる間延びした声。


『ったく、騒ぎを起こすのはあのバカだけで十分だっての』


開いた道から頭を掻いて出てきたのは、怠そうな表情を浮かべる阿伏兎だった。

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