貴方の心臓を私にください


肺を蝕む音が、彼女の耳に木霊する。
刻一刻と迫りくる死期を知らせていた音は、今や残り僅かな命の灯を知らせる警鐘でしかない。彼らと共に在り創り上げてきた何もかもが、柔な刀身のように音を立てて崩れ始めた。彼はきっと全てを受け入れている。自らの運命と呼ばれる恐怖も、終焉を迎える絶望も、先が見えない苦しみさえも。潔しと評価するに十分値する生き様に、しかし彼女は惚れたのだ。否、”惚れてしまった”のだ。

「(こんなつもりじゃ、なかったのに)」

自由奔放、悪口雑言を信念として掲げ、その勝ち気な性格通りの生き様を世に知らしめてきた。万人が唯一の取り得と評する類稀な才知を幕府に買われ、極貧生活とは一転、幾らかマシな生活が出来るようになったかと思っていたその矢先、こちらも合わせて生まれ持ったなんとも厄介で性質の悪い彼女の"性格"が仇となり気付けば壬生狼と称される人斬り集団の参謀補佐として名を響かせていた。そのじゃじゃ馬がまさか愛別離苦の悲しみを体験する事になろうとは、一体誰が想像できようか。
そうこう考えている内にまた一つ、耳障りな音が辺りに響いた。それもご丁寧に、突き放しの言葉も添えて。

『必要なものは全部君に渡しておくから、後は君の好きにしていいよ』
「…要りません」
『どうして?』
「私は、何も要らない」

持ち主がいなくなった私物なんて、あっても虚しいだけ。空虚に浸る安い感傷は、彼女には似合わない。

「何も要らないから、貴方の命を下さい」

ただそれだけが、彼女の望みだった。

『…ごめんね、それは無理なんだ』
「じゃあ、私も連れていってください」
『僕の命は近藤さん以外誰にもあげられない。でも、君の命は僕のだから、どう使おうと僕の自由だ』
「…随分と勝手なんですね」
『今更でしょ?』
「だったら、死なないで下さい」

今度こそ、彼は困ったように笑った。この期に及んで生に強くこだわりを持つのは、恐らくこの先数十年と生き続ける事になるはずの贅沢な人間。過去に何度も馬鹿だ阿保だと口汚く罵ってきたが、残される側に身を置く今となっては実感せざるを得ない。

「(結局、馬鹿は私か)」

当然、この上なく支離滅裂な事を言っているのだと彼女自身もわかっている。しかし、そうでもしないとこの剣客は何の未練もなくこの世から消えてしまう。せめて少しでも生き長らえようと思ってほしい。その理由が彼女ではなく、彼が敬愛してやまない師であったとしても構わない。というのも彼には組織全体としての利益ではなく、常に隊士一同の総意である近藤局長の身を案じての言動が見てとれたからだった。
こうして嫌々ながらも彼らと共に過ごした日々は彼女の中で大きく膨れ上がり、いつしか他者との接触を快く感じていなかった人形紛いの彼女―むしろ彼女こそが自己疎外の究極、保身の塊とも言う―を容易く崩してしまった。

「少し、聞いてもいいですか?」

居住まいを正して向き直る。

「私は何か役に立てましたか?」

その言葉の真意を探る翡翠が、酷くもどかしい。

『さあ、どうだろうね。悪いけど、僕は土方さんや山南さんみたいに博識があるわけじゃないから、そこら辺は分かり兼ねるよ』

曖昧な言葉で濁して、真意を奥に隠す。彼の十八番が、この時ばかりは胸に刺さる不快な棘でしかなかった。

「沖田さん」
『ん?』
「結局、私は何もできませんでしたね」

この先日ノ本を担っていくのが今の今まで掌握していた(実際は此方が手の内で踊らされていたのかもしれないが)"彼ら"であるとわかっていても、かの人間の意思に従って頭を下げるのは、彼女の意に反する。よって、必然的に残された道はただ一つしかない。覚悟はしているつもりだった。しかしそれでも後悔ばかりが押し寄せるのは、彼女の中に存在する足枷とも言える感情のせいであった。頭が良いというのは実に難儀である。それも頑として自己主張を曲げない彼女のような性質であれば尚更だった。
笑って首を傾げれば、今度こそ翡翠が悲哀に揺れる。

『君は使い物にならなくなった僕の傍にいてくれた。自分の仕事だってあるはずなのに、合間を縫って毎日顔を見に来てくれたでしょ?沢山話もしてくれたし、君が持つ知を惜しみなく教えてくれた。嫌味…は多少聞いたけど…まあでも、それだけで十分じゃない?』
「そんなの、誰だって出来ます」
『じゃあ、この厄介な感情を与えたのは誰?』

まさか自分じゃないなんて言わないよね。
嫌味と共にそう付け加えた彼は、冷え切って震えを伴う掌に自分のそれを重ねた。

「…厄介、は酷いと思いますけど」

せめて"面倒"辺りで留めてほしかったというのが彼女の本心だ。

『本当の事を言ったまでだよ。じゃあ君は常に僕の事を考えていたいってわけ?会いたいし、隣にいたい?』
「少なくとも、一日一回は」

大きく見開かれる双眸に、漏れる笑みを噛み殺す。

『…驚いた。君っていつからそんなに素直になったの?』
「私は元々素直です。ひん曲がった沖田さんに、少々意地悪していただけで」

今度こそ嫌味ったらしく言い放てば至極不快そうに歪められる顔。それを認めた彼女は笑顔を浮かべながら言葉を続けた。

「沖田さんは、桃園結義を覚えていますか?」
『…君が前に話してくれたやつ?残念だけど、僕は君と義兄弟になるつもりなんてないから小難しい話はもうお仕舞にして――』
「同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん」
『…』
「義兄弟でなくとも叶える事は可能です。さらに言えば、これは私の意志でもあります」
『それは、参謀補佐として?…それとも』
「恐らく後者です。言い方は悪いかも知れませんが、道連れでも心中でも結構ですよ?」

この期に及んで組織だ何だと気にかける様子は、彼女からは微塵も感じ取れなかった。

『…ほんと…君ほど厄介で、頑固で、度胸があって、潔い娘はいないと思うよ。少なくともこの国には』
「褒め言葉として受け取っておきますね」
『別に褒めてるわけじゃないけど』

言いながら床に伏せた彼は、まるで貼り付けたような笑顔を浮かべた。

『じゃあ僕は少し眠るから。おやすみ名前ちゃん』
「おやすみなさい、沖田さん」

呆気なく離れた掌に寂しさを覚える事はない。今更泣き叫んでみたって、結末はどうせ変わらないのだから。毎回の事だが、彼女が得意とする”戦術”はこの時ばかりは役に立ちそうもなかった。そしてやはり彼女の悲願も達成される事はなく、残された血生臭い茨の道を再び目の当たりにすることになるのだ。

「(だったら、もう一層の事――)」
『嗚呼、言い忘れてたけど』

思わず、肩が跳ねる。引き留める声に動揺を悟られないよう振り返った。今度こそ、怒気を孕んだ翡翠が彼女を射抜く。

『君の命を僕の為に使うなんて、いくら君でも絶対に許さないから』

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