落花流水
平助は膳の上に置いた猪口のゆっくりと広がる波紋を見つめながら、今頃見事な芸妓姿になっているであろう少女に思いを馳せた。
『千鶴たち…大丈夫かな』
ポツリと漏れた言葉に原田が笑う。
『大丈夫だって。千鶴には名前がついてるんだぜ?』
『そ、そうだけど…』
『そうだぞ平助!名前ちゃんの剣の腕といったら総司に並ぶくらいなんだから』
『それを新八つぁんに言われると現実味が薄れるんだけど』
『どういうことだよ!?』
『まあまあ』
騒ぎ始めた二人を止めにかかる原田。それを笑って眺める沖田。静かに目を伏せる斎藤。青筋を浮かべる土方を宥める近藤―――場所は島原の一角、角屋。
小さな座敷には山南を除く幹部全員が揃っていた。
何故今このような状況にあるのか。それは千鶴の芸妓姿を拝む為…ではなく"千鶴を護る為"であった。
時は遡り数日前―――
『浪士たちが?』
『ああ、どうやら島原で密会があるらしい』
新選組は長州の動向を探る為島原に潜入する必要に迫られていた。
「でも私たちがいると分かれば浪士が逃げるのは目に見えてますよ。京に新選組の名は広がっていますしね』
良い意味でも悪い意味でも、と付け加える彼女に何か言いたそうにしながらも小さく頷く土方。
『名前の言うとおりだぜ土方さん。どーすんだ?』
彼女に続き平助も疑問を投げ掛ける。暫く沈黙が続く中、手を上げたのは意外にも新選組預かりとなっている鬼の少女、雪村千鶴だった。
『私が変装して角屋に潜入すれば…』
その提案に名前はおろか他の一同も驚きを露にする。
『変装か…確かにそれならバレることはないだろうな』
土方の賛成に平助が制止をかけた。
『ちょっと待ってくれよ土方さん!いくらなんでもそれは危険じゃ…』
『ああ、俺も平助と同じ意見だ』
土方は不安そうな面持ちの平助と原田を見つめ、折れたように深く息を吐くと名前に目をやる。
『…名前、お前が千鶴の護衛につけ』
「わかりました」
『で、でも…!』
尚も渋る平助に名前がそんなに心配なら、と提案する。
「角屋の一室で張ってればいいんじゃない?危険な時には平助が参上ってことで」
ということで今回の作戦が決定したのだった。が、
『…何でみんなここにいるんだよ』
不服そうに再び徳利を手にする平助。
『そこには触れてやるな。きっと全員心の中は同じだ』
『は?』
眉を顰める平助の頭を原田が撫でていると
『失礼します』
ゆっくりと閉ざされていた襖が開き、美しい芸妓へと姿を変えた千鶴が姿を現した。
『ち、づる…?』
『へえ、』
初めて見る千鶴の芸妓姿に見惚れる者、顔を赤く染める者と様々だ。彼女の顔はそこらの町娘なんかより断然可愛いのだが普段男装をしている、という事実によって持ち前の魅力が半減しているのだ。まあ、男装をしていても女性特有の愛嬌は隠し切れていないのだが。
益々自分達はまだ年端も行かぬ娘に酷な事をしていると自己嫌悪に陥る一部の幹部らはしかし次の瞬間、時が止まったように静まり返った。
「それで?何で全員揃っちゃってるんですか」
『…は…』
千鶴の後ろに隠れていたもう一人の芸妓が呆れたように、どこか不満そうに口を開く。聞きなれた声に新八がまさかと目を見開いた。
『名前ちゃん…か…?』
声に反応した女はクスリと優美に微笑む。
「よければお酌しまひょか旦那はん」
男であれば誰もが卒倒するような微笑を浮かべた口元を袖で隠し、さらに廓言葉で話す女は姿を変えた名前であった。花魁でさえも裸足で逃げ出すような美しさに彼らは目を奪われる。
『名前さん、とてもお似合いですよね』
『(いや、お似合いってもんじゃ…)』
屈託なく笑う千鶴も目に入らないくらい花魁に扮した名前をまじまじと見つめる一同に首を傾げた。
「もしかして、もうお酒回ってます?」
顔を上げた反動で結い上げられた漆黒の髪がさらりと露になった首筋に落ちる。白雪のような肌に思わずごくりと息を飲んだのは一人や二人ではない。
薄っすらと目端に引かれた紅色。長いまつげは静かに伏せられて影をつくる。さらに真っ赤に熟れた果物のような唇。彼らが口を開くのは暫くしてからだった。次々に驚きを口にする幹部。
『う、うそだろ…?』
『お、おい平助!酒零れてる!』
『っうお!?やべっ、』
我に返った平助が慌てて傾けていた徳利を元に戻した。
『これは予想以上だね。さすが僕の名前ちゃん』
『…総司』
『どうしたの一君?』
二人の間で静かに火花が飛び散るが興奮気味の幹部は気にも留めず。
『どうだい名前ちゃん、いっそのこと俺のもとに嫁ぐってぇのは!』
『なっ、抜け駆けなんてずりぃぞ新ぱっつぁん!お、俺だって!』
「てゆーか何で皆さん揃ってるんですか」
じゃあ私行ってきますから、と呆れながら踵を返す名前。しかし彼女よりも前に襖の一番近くに居た総司がおもむろに立ち上がった。名前と襖の間に立って行く手を阻む。
「沖田さん?」
『ねえ名前ちゃん』
言いながら彼女の顎を持ち上げた顔には微笑が刻まれていた。
反動でしゃらりと揺れるかんざしでさえも、彼女の色気を醸し出す引き立て役の一つへと変化を遂げる。
『お、おい総司っ!?』
「?」
慌てる平助とワケがわからないまま総司を見つめる名前。
「どうしたんですか沖田さん」
酔っ払うのも程々にしてください、と困ったように見上げてくる彼女に総司はふっと笑った。
『今の姿の名前ちゃんを他の座敷にやるなんて…勿体無いなあ』
「は?」
さらにワケがわからないと首を傾げると突然後ろから何者かに引っ張られ、体勢を崩した名前はその人物にもたれかかる形になった。
「ちょ、斎藤さん?」
『総司…ふざけるのも大概にしろ』
普段とは違い、鋭さを含んだ口調に周りが静まる。再び二人の間で火花が飛び散るが名前は持ち前の身軽さでスルリと二人の間から抜け出した。
「二人とも遊んでないで千鶴ちゃんのことお願いしますね。出番がきたら呼びに来ますから」
『遊んで…』
『あのね名前ちゃん、僕達は遊んでるわけじゃなくて』
「はいはい」
苦笑を漏らすと、呆然とする二人を一瞥し襖を閉めて出て行った。
暫く廊下を歩いていると急に手首をつかまれて名前は咄嗟に身構える。しかしそれが自分のよく知る人物だとわかった瞬間目を瞬かせた。
「…土方さん?」
驚く彼女に何も言わず空いている座敷に入り襖を閉める。衝動で畳に倒れた彼女を組み敷くとその人物は艶やかな唇を自らのそれで塞いだ。
「んんっ…ふ、」
突如進入してきた舌にただ驚く名前。白雪のような肌に赤みがさし、瞳は涙で徐々に濡れてくる。苦しくなって袖を掴むと漸く解放されるがそれだけでは収まらなかった。
「っは、んっ…土方さん…っあ」
首筋に感じる舌の感覚に身を震わせると次第にチクリとした痛みが広がっていく。力の抜ける名前に目を細め太腿をするりと撫で上げた。
「ぁっ…」
乱れる吐息。紅潮する肌。露になった肩や傷一つない艶やかな足。快感を感じ声を漏らすその姿は、どの花魁よりも美しく官能的だった。
『名前…綺麗だ』
熱に浮かされたように名を呼ぶ土方に若干不安そうに問いかける。
「ひ、じかたさん…もしかして酔ってます?」
『酔ってねえ』
そうですか、と笑う名前に土方は不機嫌を露にした。
『自分の女取られていい気がする奴はいねえだろ』
彼の行動が所謂"嫉妬"というものからきていると知った彼女が困ったように笑うと着物の隙間から手が進入し直に肌に触れる。反動で漏れる甘い吐息。その手は段々と上昇していき、膨らみに到達すると名前が慌てて身を捩った。
「ッ歳三さん…っこれ以上はだめです!」
突然変わった呼び名に土方は我に返る。
「まだ任務がありますから」
慌てて立ち上がった名前は急いで身なりを整える。座敷を出ようとするのを咄嗟に土方が引き止め、思わず振り返った彼女の額にキスを落とした。
『夜、覚悟しとけよ』
含み笑いをする土方に一瞬きょとんとする名前だったが、言葉の意味を理解した瞬間に顔を朱に染めた。
「…はい」
満足したように目を細めた彼に彼女はクスッと妖艶に笑った。
「見かけによらず土方さんは独占欲の強いお方で」
『うるせぇ。愛されてる証拠だと思え』
そう返した土方に名前は負けました、と肩を竦める。
『ったく――自分の女が綺麗すぎるってのも困りもんだな』
抑えがきかなくなる、と自嘲的な笑みを零す彼に名前は再び頬を染めて笑い返した。