元治元年水無月



障子の前を何度も往復する影もようやくなくなり、満月棚から夕陽が差し込む。
いい加減外の新鮮な空気が吸いたいところだが、生憎その願いは隊内の規律たる副長殿に一蹴されてしまった。今朝早くに『お前は今日一歩も部屋から出るな』と言われ凄まじい勢いで障子を閉められたのは記憶に新しい。

「あー静かすぎる…」

片方だけ立てた膝に顔を埋めながら息を吐けば、一人残された部屋に大きく反響する。先程までの騒がしさは何処へやら、現在屯所内は水を打ったように静まり返ってしまった。
どうやら身体の自由がきく隊士たちは全員広間に招集されたようだ。昼頃聞こえてきた声を元に推測すると、どうやら今日巡察に出向いていた沖田さんたちがこの騒ぎを引き起こしたらしい。

「(戦闘狂だとは思うけど、何も彼だって考え無しの行動ではないはず―――だとすれば)」

この部屋のもう一人の住民が、直接的な接触をしてしまったとみるのが妥当だ。現に今ここにいないというのが何よりの証拠である。
非難するわけではないが彼女は厄介事を引き起こす天才だ。これは間違いない。そして事の発端である自分が役に立つならばと真っ先に願い出たのも安易に想像できる。心配ではあるがここまでの騒ぎであれば恐らく幹部たちが全員揃っての出陣だろう。多少の危険はあろうとも命の危機に晒されることは無いはずだ。…多分。そうであることを願いたい。何だかんだ言って面倒見の良い沖田さん辺りが彼女を守ってくれるだろう。

「(変に無理しなければいいけど)」

父親一人を追って江戸から京まで来るような子だ。突発的に何かを成そうとするやもしれない。しかし生憎私は自由を奪われた身だ。あれこれ思案しようが介入する事が叶わない現時点では無駄骨というものである。

するとその時、耳が痛くなるほどの静けさの中に不意に雑音が混じった。ぱちりと目を開けて闇夜に紛れる気配を辿れば、足音が聞こえてくる。どうやら珍客のようだ。
淡い月の光に投影された影に思わず笑みを零しながら呼び掛ける。

「珍しいですね、山南さんがいらっしゃるなんて。てっきり嫌われたかと思ってたのに」
嫌味を含んで言い放つと、開かれた障子から思案顔の人物が現れた。

『随分とお久しぶりですね。お元気でしたか?』
「ええ、お陰さまで。ただまあ、多少不快な声は聞こえてきましたが、大方どこかの犬が威嚇でもしてるんでしょう」

どこか安心したように肩を竦めた彼がぴしゃりと障子を閉めた。ゆっくりとした歩みで私の前に来ると静かに音を紡ぎ始める。

『私が何を言いたいのか、貴方ならもうわかっているでしょう?』
「いえ、全く?生憎俺はこの部屋から一歩も外に出るなと副長殿に仰せつかっておりますので」
『時は一刻を争うのです』

珍しく焦りを顔に滲ませた彼に、素直に驚く。嫌味と皮肉が彼の定義だと思っていたが、今回は狼も相当慎重な賭けに出たということか。

「不要な問答は止めましょう。案件の詳細をお聞かせ願えますか」

ここ最近の出来事も考えれば、考えなくとも答えは自然と導き出される。変に首を突っ込めば何を言われるのかわからなかったので、あえて口にせず黙っていたがまさかこんな所で役に立つとは。やはり情報は多いに越したことがない。が、不必要なものまでも仕入れてしまう点は迷惑だとでも言うべきか。すると華奢な指先で眼鏡の縁を押し上げた彼は鋭い目を向けてきた。

『新選組は今、池田屋で御用改めの最中です』
「…」
『しかし確信が得られず隊を二分している今、池田屋側は局長を始めとした少数で編成されています。すぐに雪村君を土方君の元へ向かわせましたが、持ち堪えて貰うには少々厳しい状況です』
「つまり、貴方の賭けは外れたということですか」
『返す言葉もありません。…だからこそ、君の手を借りたい』
「…どこからか情報が漏れているようですね」
『沖田くんが悔しそうにしていましたよ。久しぶりに勝てなかった相手を見つけた、と』
「(だから嫌だって言ったのに)」

悪戯が成功した子供の様に憎たらしく笑う彼が脳裏に蘇り思わず舌打ちが漏れる。こういった非常事態を見越しての発言であったとすれば、沖田さんの嫌がらせは大成功と言えるだろう。もっとも、平穏を望む私にとっては迷惑でしかないが。

「それは、俺に招集の命が無かった事を踏まえての発言ですか?」
『ええ』
「お言葉ですが、俺は貴方の代わりを務める気はありません」
『当然予想はしていました。無理を承知で頼んでいます』
「勘違いしないで下さい。あくまで俺は一人の隊士として御用改めに向かう。新選組の頭脳”山南敬介”の代わりじゃなく、名字名前個人として」

そう言ってしまえば驚きに目を見開くという何とも貴重なお顔を拝見出来た。してやったりと心の中でほくそ笑んでいると、彼が剣客にしては華奢な指で目の代わりを押し上げる。呆れているのか、やられたと舌打ちしているのか、はたまた不満を持っているのか。いずれにせよこの機会を逃せば私はずっと幽閉されたままだ。ここいらが潮時だろう。確かに私は平穏を切望してはいるが、自由を奪われた幽閉生活を継続したいとは言っていない。

『君は賭け事の才に秀でているようだ。私としたことが、いとも簡単に出し抜かれるとは』
「御褒めにあずかり光栄です。じゃあ契約成立、ってことでいいですかね?」
『この際仕方ないですね。土方くんには私から進言しましょう』
「そうしてもらえると有難いです。彼には随分嫌われてしまったようなので」
『おや、そうなるよう仕向けたのは君でしょう?』
「さて、何の事やら。過去を詮索されて喜ぶ人間がいたら是非とも御目に掛かりたいものです」

曖昧に笑って立ち上がると凝り固まった筋肉を解していく。

「それにしても実戦なんて久しぶりだから、思うままに動けるかどうか…」
『以前にもこういった経験があると?』

耳聡く私の独り言を拾った彼が怪しく笑った。

「まあ、そんな感じですかね。でも今その話をすると、終わる頃には池田屋の方もカタがついてますよ」
『それは困りましたね。では戦の事後報告も兼ねて、明日辺りにでもどうです?』
「…気が向いたら、でお願いします」
『今回の謝恩もありますし、それで妥協しましょうか』

どこまで本気で言っているのかわからない彼から視線を外し、長い間その役目を全うすることなく鎮座していた得物を手に取る。ずしりと肩に圧し掛かる重量を感じながら腰に入れると、それは丁度良い塩梅に収まる。どうやら杞憂だったようだ。

『いけそうですか?』
「大丈夫みたいですね。自分でも驚くほどに」

言えば懐から四つ折りにされた案内図を差しだされる。瞬時に目を通し、場所を頭に叩きいれると再び彼に手渡した。

『あくまで隊士の護衛と援助が目的ですが、君の場合は身の安全が第一です。あまり無理はしないで下さいね』
「そんなヘマはしないと思いますけど、無事帰ってこれるよう願ってくれると嬉しいです」

意外そうに目を見開いた彼に背を向け、行儀悪く足で障子を開ければ涼やかな初夏の風がゆるりと頬を撫でた。まだ夏特有の蒸し暑さは感じないが、四半時も走ればじわりと汗が滲みそうだ。肩口の髪が風で揺れるのを煩わしく思いながら闇を見上げれば星が美しく瞬いていた。

「(足が縺れて転ばないことを祈るばかりだな)」

湿って柔らかくなった草の上に降り立てば、それだけで生きていることを実感できる。現在の自分は如何に不憫な生活を送っているのだろうか、と苦笑を漏らしながら振り返り、原因の一つでもある彼に嬉々とした笑みを浮かべた。


「じゃ、行ってきます」

この上ない程の笑顔で手を振れば、呆れたように肩を竦められる。まるで近場に御遣いにでも行くような軽い口調に、彼の胸中に不安が渦巻いたのは言うまでもない。

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