元治元年水無月 池田屋事件



暗闇の中を走れば、初めて京の地に足を踏み入れた日と同じ月が浮かんでいた。あの時は寒さに気を取られて気付かなかったが、京の夜というものは中々風情がある。激動の時代における都でありながら、その美しさを失うことなく健在しているところが特に。その美しい都を、現在荒い呼吸で走り抜ける私は不釣り合いにも程があるだろう。

「(体力低下が…っ酷過ぎる…!)」

朝から晩まで部屋で寝そべっていれば当然こうなる。予想はしていた。しかし現実は非情だった。誰もここまで酷くなるとは考えないだろう。否、考えたくなかった。

「(やっぱ、っ…年には、勝てない、ってか、…ッ!)」

どうしようもない人間の運命を呪いながらひたすら足に意識を集中させる。これまで知らぬ存ぜぬを通してきたが、人間の意欲というものは不思議で気になったら最後。追求する他に成す術を知らないのだ。秘密の共有が組織内の結束を固くすると知って、常時孤独を感じる自分から目を逸らせなくなったのか。たかが数ヵ月寝食を共にしただけで情が湧いたのか・・・どちらにせよ、有難迷惑な感情であることは間違いなかった。

「(自分の居場所なんて、もうどこにもないのに)」

思わず漏れそうになった嘲笑をなんとか飲みこむと、目線の先に目的の建物が見えてきた。どうやら土方さんはまだ着いていないようだ。これで鉢合わせたりでもしたら大目玉を食らうのは必須だろう。というか目に見えている。


「池田屋」と掲げられた看板を認めた瞬間、愛刀を引き抜き迷わず中に飛び込んだ。外の静寂と一転し、建物内は怒号と刀身がぶつかる音で騒然としていた。夥しい血がそこかしこに付着している。血液特有の鉄臭さに眉を顰めていると、突然闇の中で白刃が煌めいた。反射的に受け止めて相手をじっと見つめれば、見知った顔が驚きに染まっていく。

「流石永倉さん、味方に斬りかかるとは大した御人だ」
『っな、何でお前が!?っつーか隊服で見分けてんだから仕方ねぇだろ!?』
「あーはいはい、そりゃあ悪うござんしたね」
『で、何でこんなとこにいるんだよ?』
「これにはちょっとしたわけがあって、」

競り合ってた刀身を離した瞬間、二階から凄まじい破壊音が聞こえた。一階にも藻屑が降ってくる程の衝撃だ。相当激しい戦いが繰り広げられていることだろう。するとその時、長州浪士と見られる一人の男がこちら目掛けて刀を振りおろしてきた。寸でのところでかわせば背後にいた永倉さんが驚いたように受け止める。いい加減にしろと言わんばかりに睨まれたが、今は二階の援護が優先事項だろう。

「もうすぐ土方さんが来る筈ですから、永倉さんは引き続き隊士への指示と近藤さんの援護をお願いします」
『っあ、おい名字!』

言い終える前に階段を駆け上れば、上から刀を手にした男たちがわんさか溢れ出てきた。苛立ちを滲ませながら一人二人と切り崩していく。何とか二階まで到達すると、所々破壊された部屋が目に飛び込んできた。

「どう暴れたらこうなるんだよ…」

すると破られた障子に埋もれた隊服が血に濡れているのが見えた。 慌てて駆け寄れば血だらけになっているものの見知った顔で、咄嗟に首元に手を当てた。…脈はある。どうやら意識を失っているようだ。

その時、背後に人が立っている事に気付いた。平助を庇うように刀を構えれば、堂々たる体躯の男はスッと右手を前に出した。

『よしなさい。私には君と戦う理由がない』
「理由がない、ね。だがこの場にいるってことは、当然長州側の者なんだろう?」
『決めつけは感心しませんな』
「…決めつけ?」

言いながら、刀を握る手に自然と力が入る。平助は腐っても組長だ。簡単にやられるはずはない。その平助がこの男の拳一発で意識を失ったとしたならば。

「(私は、この男には勝てない―――)」

対刀であれば望みはあったのかもしれないが、力で押し切られてしまえばあっさり殺されてしまうだろう。首でも折られたら溜まったもんじゃない。

「その言葉を信じて、今回は引く事にするよ。生憎、俺も無益な争いは好まない主義でね」
『―――引いてくれたことに感謝を』

殺気を解くと男は恭しく頭を下げて闇の中に消えていった。

「…」

力が入った肩を竦めると、何時の間にやら騒音が聞こえなくなっている事に気付く。 ということは、自分は土方さんたちの到着まで無事持ち堪える事ができたというわけだ。

「さて、これで役目も終わ…」

その時、静寂に混じって複数人の声が聞こえてきた。それもすぐ隣の部屋から。

『―――お前達が踏み込んできた時点で俺の務めも終わっている』
『待て!』
「(ったく面倒臭い…)」

勢いに任せて襖を蹴破れば、それは部屋の奥まで吹き飛んだ。 第三者によって開かれたそれに驚き振り返った千鶴ちゃんと、彼女の傍らで膝をつく沖田さんを横目に駆け抜ける。ここで何があったかは大方想像できるが、沖田さんがやられるという筋書きは正直なかった。驚きはあるが、今はそれよりも逃亡した奴の捕縛が最優先だ。

「千鶴ちゃん、その怪我人頼んだよ」
『えっ、名前さん!?』
『何で君が…っ、』

ぼんやりと見えた影同様、欄干を蹴って宙を舞えば先に着地した男がいち早く気付き刀身同士が激しくぶつかった。

「っ!」

と思ったのも一瞬の事で、次の瞬間目の前には鋭い銀が光っていた。直ぐ様飛び退くが男は間合いを取る暇さえも与えず斬撃を繰り返す。

「(!…こいつ、)」
『―――人間の女が、一体俺に何の用だ』
「っ!!」

一瞬の油断が判断力を鈍らせたのか、頬に鋭い痛みが走った。掌で拭えば鮮血が滲んでいる。

『そこを退け』
「生憎それは無理な要望だな」
『邪魔立てするのであれば殺す』
「やれるもんなら、!」

再び刀身がぶつかり合い、じりじりと間合いを詰める。膝を曲げてそのまま反動で男の刀を弾けば不敵な笑みが浮かんだ。

『…面白い』
「ったく、大人しく首でも捧げろって。こっちは命が掛かってんだよ」

剥き出しの刀身を肩に乗せれば、闇に光る金無垢が妖しく細められた。

『俺は風間千景。西の鬼を統べる者だ。貴様、名は何という』
「鬼?」

聞き慣れない言葉に思わず眉を寄せれば、肯定するかのように人外染みた色素の薄い髪が夜風に舞った。

「へえ、鬼か。道理で敵わないわけだ」

言えば面食らったような表情を浮かべる鬼とやらに質問の答えを返す。半年前にこの地を訪れた時から既に人外とは遭遇している。今更驚く事はない。免疫とは恐ろしいものだ。

「私は名字名前。訳あって新選組に居候させて貰っている身だ」
『ほう?その訳というものに興味がある』
「生憎私の口からは何とも。自らの身を危険に晒すことになるのでね。それより、鬼って実在したんだな。私、食べられる?」
『ふん、人間の想像で生み出された紛い物などと一緒にするな』
「…これは失礼。それで、長州方は何を企んでるって?」
『俺は長州に与していない。薩摩の連中に借りを返しているだけだ』
「じゃあ質問を変えようか。何故、薩摩がここに?同じ志であったと記憶しているが」
『貴様ら人間と志を同じくした覚えはない。鬼は人間と違って情を尊ぶ。状況に応じて寝返るような低俗な輩と一緒にするな』
「鬼とは随分崇高な思想を持っているようだ。私の浅慮で気分を害したのであれば謝罪しよう」

月と同じ色をした瞳が僅かに揺れる。すると自らを鬼と称する彼は愉快そうに肩を震わせた。

『気に入った』
「じゃあ大人しく斬られろ」
『それは無理な願いだな』

鞘に刀を収める姿を確認してこちらも一歩後退する。が、ゆっくりと歩み寄って来た彼は握りつぶさんばかりの勢いで私の腕を掴んだ。途端に縮まる距離に、思わず目を見開く。

『名前よ、今度相見えた時は必ず貴様を手に入れる』

咄嗟に眉を寄せると愉しげに歪んだ金無垢の瞳と視線が交わった。

「目的は?」
『純粋に貴様が欲しくなった。言っただろう、鬼は損得で動く生き物では無いと』
「一時の興味だろう。それに自分で言うのも何だが、女としての魅力は何一つとして持ち合わせてない」
『貴様が気付かぬだけだ。精々幕府の犬に飼い慣らされぬよう気をつける事だな』
「そんなものはこっちから願い下げだ」
似たような状況ではあるけれど、飼い慣らされたとは思いたくない。
「それで、結局鬼さんたちの目的は何?長州に買収でもされた?案外そっちの方が飼い犬だったりして」
『口の減らぬ女だ。そのような真似、我ら鬼がするはずなかろう』
「…それ、低俗な人間とは違うとも解釈できるが」
『何処か間違いでもあるというのか?』
「…人間馬鹿にしてたらいつか痛い目みるぞ」
『先に我ら鬼を愚弄したのは奴らの方だ』

刹那、勢いよく吹いた夜風に目を瞑る。次開けた時にはもう、風間の姿は見えなくなった。嵐が去った後の如く静まり返った闇の奥を見つめ、浮上した新たな問題に頭の奥が微かに痛む。長州が何を考えているかはわからないが、厄介事は尽きないようだ。
激動の京。何が起こっても不思議ではないと思っていたが…まさか本物の鬼に出くわすとは、一体誰が考えようか?

「薩摩の鬼、か」

新選組という組織にとって、今後厄介な相手となることはまず間違いないだろう。山南さんには早々に報告しておくべきか。

「っと、そろそろ帰らない…と…」

言いながら刀を鞘に納めて方向転換した先で、恐ろしく整った顔が青筋を浮かべていた。思わずひくりと頬が引き攣る。その顔はさながら鬼のようで―――

「あはは…偶然ですね、こんな所で…」
『ああ…偶然にしては出来過ぎてると思うがな』

嗚呼、これは逃げられない。地を這うような低い声に思わず息を吐いた。

『色々聞きてぇことはあるが、まずは何でお前がここにいるのか説明してもらおうか…?』

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