元治元年長月



『変だと思わない?』

総司と肩を並べて朝餉の支度をしていれば、何の前置きもなく突然告げられた言葉。持ち回りの食事当番で何かと問題を起こすこの男と組むのは慣れたものだが、それにしても今のはあまりにも突然すぎた。この場合は流れからして、その「変」である対象は一体何なのかと聞くのが正解なのだろうか。しかし生憎とそれが物なのか人なのかすら見当がつかない。鍋を掻き回しながら視線を送れば、ここ数ヶ月で幾らか見れるようになった包丁捌きが視界に映る。

『主語がなければ会話は成立しないが』
『まあ、鈍感なはじめ君は気付かないだろうけどさ』
『だから何がだ』

馬鹿にしているのか?と眉を寄せれば、奴はどこか楽しそうな表情を浮かべてこちらに振り返った。

『土方さんと名前の距離感』

紡がれた言葉に一瞬、動揺が走る。続いて浮かぶのは勝ち気な笑みと、傲岸不遜とはいかないものの自他へ悪影響を及ぼすのはまず間違いないと思わせる態度。たった今話題に上がったのは、そんな類を見ない人間であった。
鋭い総司のこと、僅かに乱れた軌道にも気付いただろう。

『どういう意味だ』
『んー、何て言うかなぁ。あの二人、ちょっと前から雰囲気が変わったって言うか』

動揺を悟られないように調理の手をそのままに尋ねれば、何かを考えている様子の総司は閃いたといった様子で顔を上げた。

『以前に比べて距離が近くなった気がするんだよね』
『距離?』
『うん。はじめ君もそう思わない?』首を傾げる。

言われてここ数日を思い出す。確かに、以前はあの二人が一緒にいる場面など数える程度しか見なかったが、最近は屯所内でもよく一緒にいるのを目にする。その理由は定かではないが、恐らく正式に一隊士としての地位を確立したとはいえ、特殊な立ち位置にいる名前に副長が逐一指示を与えているのだろう。ここ最近は与えられた――この場合「奪取した」と言った方がある意味しっくりくる――立場相応に山崎や島田と行動を共にしていることが多いようだが、数日前までは山南さんの雑務を手伝っていたと聞く。
距離感、という点で言えば確かに総司の言うことは間違ってはいないだろう。しかし、ただそれだけのこと。その間に何か特別な感情があるわけでもない、はず。ふと、そうであってほしいと考える自分がいることに気付き、動揺を隠した手が止まる。その様子を見ていた男が同様に手を休めた。

『特に土方さんはあの子のこと人一倍疑ってたから、今回の変化が余計目についたのかも』
『…身元も証明できないような人間を易々と信じるわけにはいかないと思うが』

答えになっていない返答を返せば、それはそうなんだけどさ、と苦笑を返される。
出会ってから半年ほど経つも、名前がどこぞの密偵ではないという確信は未だ得られていない。が、少なくともこれまでの生活の中でそのような意図は感じられなかった。最初の頃は脱走しようと試みる場面にも何度か出くわしたが、それも今では見られない。となればあの迷惑極まりない言動は純粋な探求心であったと見るのが妥当か。

『はじめ君は残念でしょ?』
『何がだ』またもや脈絡のない言葉に、今度こそ溜息をつく。
『あの子が小姓でいた時と違って、何かと接する機会も減っちゃったみたいだし』
『元より名前とはそこまで関わっちゃいない』正論を返す。
『名前、か』

口の中で興味が繰り返されるのを聞きながら作業を再開すれば、総司がぽつりと呟く。

『結局、あの子って何者なんだろうね』

数年前に家族をなくしたこと、各地を放浪していたこと、自分より年上なこと。
知っているのはそれだけだ。生まれも身分も、その他のことは何もわからない。
気にならないと言えば、嘘になる。だが本人が与える情報以上に踏み込めないでいるのも事実。
しかしこの場における最大の問題は、それが組織的な物差しで捉えた損得ではなく、あくまで個人の抽象的な感情であるという点であった。謹厳実直を地で行く一の根本を揺さぶっているのは否めない。

『俺が知るはずもないだろう』
『はじめ君、あの子に随分と懐かれてるみたいだし何か知ってるかなーって思ったんだけど』

曖昧に笑う総司の意図がわからず、眉間にしわが寄る。

『アンタはさっきから何が言いたい』

さっきから聞いていれば要領を得ない話ばかり。結局何が言いたいのかが理解できない。そんな視線に気付いたのか、困惑をもたらす元凶は苦笑いを浮かべた。

『別に、そんな深い意味はないんだよ』
『だったら』
『ただ、少し気になっただけ』

あの山吹色が。

小さく聞こえた言葉に、開きかけた口を閉ざす。水を打ったような静けさの中、続くはずだった催促の言葉を飲み込めばこちらの言いたいことを悟ったのか総司はあっけらかんと笑った。その様子を見て、何故か安堵している自分がいることに気付く。

『さっきもやけに大きな荷物持ったあの子とすれ違ったけど、今日は何するんだろうね』
『さあな、大方裏で動きがあったのだろう。…そろそろ新八辺りが騒ぎ始めるぞ』
『うわ、ほんとだ』

言いながら完成した味噌汁に蓋を落として襷を解けば、今度こそ総司は包丁を握った。




*****




前回の潜入であまり情報が得られなかったこともあり、今日は復興中の市中を歩き残党の行方を捜しながら情報収集に励んでいた、のだが。

「…やっぱり慣れない」

着物なんてしばらく着ていなかったし、普段が袴なこともあって正直今は動きづらい。久々に結い上げた潰し島田が影響しているのは明白だが、それ以上に体が気怠く感じるのはここ数日部屋に籠って行っていた雑務――という名の勉強――のせいだと思う。彼を知り己を知れば百戦危うからず、を掲げとにかく情報を叩き込めと笑顔で言い放った山南さんに逆らうことも出来ず、言われるがまま文字に目を通す日々が続いた。しかしそのお陰であちらさんの起源、歴史、現在の情勢その他諸々にはかなり詳しくなったと思う。

顔を上げ、辺りを見渡す様に首を動かせば耳元でちりん、と涼やかな音を立てる簪に肩を竦める。ちなみに断っておくが、私が今このような姿で往来を歩いているのは決して自分の意志では無い。池田屋や御所の件で”新選組の名字名前”としての顔は割れている為、仕方なく、だ。長州の奴らが散り散りになった今、果たしてここまでする意味はあるのか?とは思ったが、最近は巡察に同行することも度々あったし一人で情報収集する際の男装は逆に目立つのかもしれない。
それに何の情報も得られなかった前回とは異なり収穫はそれなりにあった。

「(藩政が逆転した、か)」

どうやら藩都の萩では椋梨ら保守派が勢力を盛り返したようだ。となれば改革派を弾圧し幕府に恭順の意を示すことも大いに考えられる。このままいけば御所の件で挙兵を促したらしい三家老辺りの首でも差し出してくるだろう。

一月前に天子様から朝敵追討の勅命が下った矢先、例の四か国が連合艦隊を率い下関を攻撃した。先の戦では大敗を喫するだけでなく多くの逸材を失い、現在も外国からの襲撃と西国諸藩から成る征伐軍という内憂外患を抱える長州勢力だが、こんなところでくたばるとは考えられない。今回の出兵に対し、あちらが戦わずして敗北するのは目に見えているが、桂や高杉辺りが再起を図りそう遠くない内に何かを仕掛けてくるのはまず間違いないだろう。
その時こちらは一体どう動くのか。気になるところではあるが、今後の対応は会津の末端が決めることじゃない。大人しく上の命令に従うだけだ。

「…」

そんなことを考えながら歩いていたのがいけなかったのか、突然目の前に何かが立ち塞がる気配を感じ、仕方なく立ち止まる。面倒事だけは舞い込んでくれるなよと恐る恐る顔を上げれば、目の前には見知らぬ二人の男が見るからに下品な笑みを浮かべて立っていた。どうやら祈りは届かなかったようで心の中で小さく溜息をつく。全く、疫病神もいいところだ。

『そこな娘、暫し我等に付き合え』

高圧的な態度にひくりと頬が引き攣る。思わず漏れそうになる舌打ちを飲み込んで一歩後ずされば、二人の男は笑みを深めながらすぐさま距離を縮めた。

「へえ、そうしたいのは山々ですけど、急いでおりますので」
『そのように怯えずとも、僅かばかりの時間じゃ』

あまりにもお決まりの流れに頭痛すら覚える。ならばと辺りを見渡すも期待に応えるような視線は返ってこない。あるのは後の動向を探る興味だけ。全く薄情なものだ。

「(さて、どうするか…)」

男たちに気付かれない程度に帯の上を撫で、この場で唯一の味方である匕首の存在を再確認する。しかしここで抜けば今後の動きに影響を及ぼすのはまず間違いない。この場において最も避けるべき手段というのは明白である。
すると返答に窮する態度を肯定と捉えたのか、突然一人の男に左手の自由を奪われた。その瞬間、ぞわぞわっと背中に冷たいものが走り全身が粟立つ。

「(この…ッ、諦めが悪いにも程があるだろーがぁぁぁ!)」

咄嗟に手を振り払えば、案の定機嫌を損ねてしまったのか盛大に顔が歪められる。そんな顔したいのはこっちだ。

『貴様、民草の為に攘夷を論ずる我等志士に逆らうというのか?』
「かように大層な志を持った志士様は嫌がる女を無理矢理手籠めにするおつもりどすか?武士…いえ、殿方の風上にも置けまへんなぁ」
『なにッ?』
「使い手がそのような乱暴狼藉を働く不逞の輩とは、腰の刀も宝の持ち腐れというもの」
『っ…黙っておれば…!』

怒りが最高潮に達したと見える男の一人が柄に手を掛けて怒りのままに引き抜く。そこでようやく辺りから制止する声が飛んでくるが、それも後の祭りというもの。否、この場合「時すでに遅し」と言った方が適切だろうか。どちらにせよ、一度抜いたからにはこちらも最大限の礼儀を持って返すしかない。尤も、女の戯言を真に受けて抜刀するなど男としての器も知れているが。
陽の光を浴びて煌めく白刃が振り上げられるのを見て、呆れながら懐に潜めた匕首に手を伸ばし身を屈めた、その瞬間。

『っが…!?』

突然目の前の浪士たちが痛みに顔を歪めた。驚いて男共の背後に視線を送れば、浅黒い肌を惜しみなく晒す長髪の男が浪士の背後で捻り上げた腕を持ち上げていた。見慣れない服装をじっと見つめていれば、一瞬男と視線が交わった。が、すぐに逸らされる。

『おいおい、女相手に何物騒なモン抜いてんだ』
『くっ、この男…!』
『なんて力だ…ッ』

カシャン、と刀が地面に落ちたのを見届けた男はぱっと手を離した。その反動でよろけて地面に尻餅をついた浪士二人は急いで刀を拾い上げ去っていく。その情けなくも少し笑える後ろ姿を見送り、異国風な男に向き直って頭を下げた。

「危ないとこをおおきに。何とお礼を申してええのやら…」
『あーいや、気にすんな』

事態が収拾したと見るや否や、早々に興味を失い視線を外す京の人間を横目で見やる。すると頭上から降って来たのは呆れた様な声だった。

『しっかしお前、気が強いのはいいが挑発するのはそこそこにしろよ?』一瞬、懐に注がれた視線。
「御忠告痛み入ります。お侍様のお陰で私も―――無駄な血を見んと済みました」

にこりと笑って懐の匕首をちらりと見せれば彼は面白そうに噴き出した。続いて逞しい肩が震える。

『はっ、こりゃ絡まれるわけだ』
「将は憤りを以て戦いを致すべからざる、と仰いますのにね。天子様も頭が痛い話だこと」

その一瞬、僅かに男の眉が動いたのを見逃さなかった。長い髪を穏やかな秋風に遊ばせる男ににこりと笑う。

「では急いでおりますので」

小さく頭を下げ、ゆったりとした歩みで男の横を通り抜ける。

『お前の名前、まだ聞いてねェけど』

背後から聞こえた声に数歩進んだ足を止め、口元に笑みを携えて振り返った。

「こら失礼しました。私、吉と申します」
『へぇ、吉…ねェ』

言いながら、どこか楽しそうに歪んだ口元に首を傾げる。あくまで自然な振る舞いを意識して。

「私のことを御存じで?」
『いや、知り合いから度々聞く女があんたとよく似てた気がしてな』
「はぁ、」
『けど違うな。俺の気のせいだ、気にすんな』

この時点で怪しいのはまず間違いないが、助けて貰った手前、目立ったことはできない。というか知り合いとは一体誰だろうか。嫌な予感しかしないが、どうやら彼は今ここで私をどうこうする気はないらしい。その証拠に、懐に仕舞われている物騒なモノを取り出す気配は一切ない。

『俺は不知火匡ってんだ。アンタ、これから気をつけろよ?』
「ええ。…ほんま、おおきに」

判然としない忠告か予言だかを残し、片手を上げて去っていく男の背中を見送る。
異常なまでの瞬発力と男を二人抑えるのに造作もないと見えるあの力。そこでふと、満ちた月の夜に見た錦糸が脳裏に蘇った。…纏う空気は、確かに似ていたかもしれない。だとすれば今の男も薩摩の人間だろうか。
まさか長州の人間がこんな場所にいるとは考えにくいし、その可能性に賭けてみるのもアリだろう。あのように目を引く装いであれば尚更。だが報告として挙げるにしろ、特定の被害があったわけでもこちらの情報が漏洩したわけでもなし。何より客観的に見ても満足のいく説明がつかない。となれば主観に基づく憶測での報告は控え、暫く様子を見るべきか。

自己完結して再び歩みを進めると、往来の向かい側から見慣れた水色の羽織りが近づいてくるのが見えた。
遠目でもわかる黒の着流しを認め、肩を竦める。彼と直接的な関わりのある某三人組から「三番組ほど自主的に巡察に出る隊はない」と力説され、実際に自分でも身を持って経験していたが、一体彼はどこまで真面目なのだろうか。意図せず漏れる苦笑を隠す様に袖を口元に当てる。

いくらなんでもこの姿で気付かれる事は無いだろうが、ここは変に関わらない方がいいだろう。というか変に接触しても怪しまれるのが関の山だ。ひとまず今朝と同じように着替え、それから屯所に戻れば時間的にも鉢会うことはないはず。
俯き気味に横を抜けようとした瞬間、軒を連ねる大店の一つから突如子供が飛び出してきたのが視界の端に映った。避けようと体を捻れば、当然というべきか不運と呼ぶべきか、慣れない着物に足を取られ思うように足が前に出ない。しまった、と思った次の瞬間、転倒し地面に接触するはずだった体は誰かに抱き留められていた。
すぐ横を無邪気に走り去っていく子供の声と足音を聞きながら、視界一面に広がる黒色の着流しに目を瞬かせる。

「(…こ、れって)」もしかして。

恐る恐る顔を上げれば予想通り、切れ長の蒼色とばっちり視線が交わった。

「(うっ、嘘ぉぉぉっ!?)」

間抜けな体勢はそのままに、事実を認めた途端早まる心拍数にただ只管困惑する。耳がじんわりと熱に侵されていくのを感じながら、質の良い生地が触れる指先に力を入れる。

「(か…顔が、直視できない…)」

初めて彼に触れたが、流石剣術を嗜むだけあって体付きも見た目以上に―――じゃなくて!

「(何これ何なのこの体勢!?いや全面的に私が悪いんだけど!ていうか近い!近すぎる!)」

と、一人頭の中で理性を崩壊させていればそっと体が離された。元の位置に戻された手を呆然と眺めていれば、見慣れた蒼色が不思議そうな色を映したのに気付き慌てて視線を逸らす。

『怪我はないか?』

何の動揺もない、いつも通りの彼。
それが少し、寂しい、なんて。

「へえ、お陰さまで」

苦笑いを浮かべる私とは対照的に、落ち着き払った様子の三番組組長こと斎藤一。

「私の不注意ですんまへん。おおきに、お侍様」
『ああ、次からは気をつけろ』

それだけ言って踵を返し、隊に戻っていく後姿を眺めながら未だ騒ぎ続ける胸に手を当てた。
目の前に突然あんな綺麗な顔が現れれば誰でもこうなる。そうだ、そうに決まってる。まったく心臓に悪い子だ。

―――それにしても。

「…全然気づかなかったな」

嬉しいのか、悲しいのか。早まる鼓動の奥で複雑な感情が渦巻くのを認めながら右手を目標へ導く。

指先で触れた肩が持つ熱は、一体誰のものであったのか。

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