元治元年神無月



それまで立ち入りを禁じられていた前川邸に呼び出されたのは、すっかり秋も深まった頃だった。

辺りが深い闇に包まれる中、月明りだけを頼りに指示された通りの道を進んでいく。
庭の木戸を開けて慎重に進めば、時々木を引っ掻く不気味な音や獣のような息遣いが風に運ばれてきた。

「(…何かがいる)」

その正体はわからないが、少なくとも正常な人間の呼吸ではないことは確かだ。
例えるなら、血に飢えた獣が今か今かと餌を待っているかのような…そんな呼吸の音。
それも、建物の奥に進むほどその気配が強くなってくる。

「(ここには、一体何がある?)」

建物全体から漂う不気味さに脈が速まるのを感じながら薄暗い廊下を進めば、開け放たれた部屋からぼんやりとした明かりが漏れているのが見えた。
こちらに背を向ける部屋の主に声をかけようとすると、彼はそれよりも早く、背後の気配を悟って振り返った。

『急に呼び出してすみませんね』

返事をするよりも先に、山南さんが手に持つ液体に目を奪われた。
西洋風の硝子瓶に収められた、まるで鮮血のような赤。
私の視線に気付いた彼は薄っすらと笑みを浮かべながら小瓶を畳の上に置いた。

『どうぞ、お入りください』
「失礼します」

静かに体を滑らせて襖を閉めれば、小さな部屋の中には耳鳴りがするような静けさが広がった。


「この屋敷、初めて入りましたけど…犬でも飼ってるんですか?さっきから気味の悪い息遣いが聞こえてくるんですけど」
『貴方が土方くんの言い付けを律儀に守っているとは、珍しいこともあるものですね』
「…命が惜しいので」

不気味な呼吸音の正体を尋ねるもそれとなくはぐらかされ、小さく肩を竦める。

『ふふ、冗談ですよ。貴方は随分と耳がいいようだ』
「でも、犬じゃないですよね」

木を引っ掻く音と、乱れた呼吸音。けど、聞こえてくるのはそれだけじゃない。

「これと、何か関係があるんですか」

一体どんな薬草を混ぜたらこんな色になるのか、不気味な存在感を放つ小瓶に視線を落とす。

『あなたが見た化け物は、この薬が作り上げたものです』

何の前置きもなく呟かれた言葉が、静寂を切り裂いた。
思わず顔を上げれば、彼はどこか影の落ちた表情を浮かべながらも、口元には穏やかな笑みを湛えていた。

「化け物…?」
『覚えているでしょう?』
「それは…鬼、ではなく?」

私の問いかけにも、彼は表情を崩さなかった。
自らを鬼と名乗った風間千景。しかし彼は人と同じ姿形で、同じ言葉を話していた。理性があり、思想を持つ彼は化け物とは言い難い。

「(…いや、違う)」

山南さんが言っているのは、あの鬼のことじゃない。
私は確かにあの日、”化け物”の姿を見ている。

「俺にこれを見せて、一体何を?」
『貴方は、この薬について知る権利があります』

彼らはこの件について首を突っ込むなと警告していたはず。
ではなぜ、今私にこの薬の存在を明かしたのか。

「山南さん、俺はこの件に関して踏み込まないつもりでいます。」
『私は、決して貴方を陥れようとしているわけではありません』
「だったら」
『言い方を変えましょう。貴方はこの薬について、知る必要があるのです』
「…どういうことですか」

ますます彼の意図が読めない。
思わず膝の上で拳を握れば、衣擦れの音がやけに大きく響いた。

『これは、蘭方医の雪村綱道氏が幕府の密旨を受けて作ったものです』
「雪村…それって」

いつしか千鶴ちゃんに聞いた父親の名前。彼女は確かに、自らの父を”綱道”と呼んでいた。そして、彼が蘭方医であるとも。

『この薬――”変若水”がもたらすのは、筋力と自己治癒力の増強』
「ということは」
『ええ。貴方もさぞかし驚いたことでしょう』

あの化け物は、人間によって…それも幕府からの命とはいえ、千鶴ちゃんの父親によって、意図的に創られたものであった。
屈強な肉体に、人間離れした跳躍力。
あの夜私が相手にしていたのは、そんな化け物だったのか。

『彼らに理性はありません。本能のままに刀を振り、人を殺し――そして食らう。理性をなくした人間は、化け物同然の存在になったのです』
「でも、わざわざ理性まで奪う必要はなかったのでは?」
『精神の崩壊は、綱道氏も予想していなかった変若水の副作用です。ですから彼らは、いわば”失敗作”なのです』
「それは…中には成功例もあると?」

小さく首を振る山南さんに思わず目を見開く。

「いや、それ確実にやばい薬じゃないですか…」

ということは、現状この薬は「筋力と治癒力が増強して超人になる代わりに、もれなく理性が無くなるよ!」という失うものがあまりにも大きすぎる代物だ。そんなの絶対嫌だ。
副作用以前の問題で、現時点では化け物を生み出す危険な薬でしかない。

『綱道氏が姿を消してから一時この研究は頓挫していましたが…ここにあるものは、綱道さんの資料を引き継いで、私が独自に研究を進めたものです』
「この薬には、成功の兆しがあると?」
『そう信じたいですがね』
「…失礼ながら山南さん、蘭学の心得は…?」

恐る恐る聞けば、にっこりと微笑まれてしまった。
いや、正直に言って危険な香りしかしない。絶対にやばい。
確かに、幕府からの密命とあっては研究をやめるわけにはいかないが、蘭方医でさえ持て余した薬に素人が手を加えるなんて、それこそ危険極まりない。
精神崩壊以上の副作用が出たらどうするんだ。

だが、ここまで聞いてもやはり疑問は残っている。

「山南さん、もう一度問います。…なぜ、今この話を俺に?」
『ここで本題です』

きた。

「先に言っておきますけど、実験台になるのだけは嫌ですからね」
『理論的には、これで副作用が抑えられるはずです。でも、結果はまだわかりません。生きるか、死ぬか――狂うか』

鋭さを含んだ視線を真っ直ぐ見つめる。
自ら人間を辞めるなんて、いくらなんでも御免だ。

『ですから、もし自我を失い化け物になったときは…貴方が、私を殺してください』
「…え?」

この人は、今、何て?
恐らく間抜け面を浮かべているであろう私を見て、彼は言葉を続けた。

『言ったでしょう?この薬の効果は、筋力と自己治癒力の増強。…私に残された道は、もはやこれしかないのです』

そっと左腕を撫でる山南さんから視線を逸らす。
…この人は、ここまで追い詰められていたのか。
私に雑務を押し付けるという八つ当たりで解消されていたと思ったのだが、とんだ勘違いだったようだ。
彼はもう、肉体的にも精神的にも、限界を迎えていたのだ。
そして私は、嫌というほどこの人の性格を実感している。

彼はもう、誰が何を言っても聞く耳を持たないのだろう。

「それは、新選組の任務ですか」
『いいえ。あくまで私的な頼みです。ですが、貴方なら暴れる化け物を一人斬り殺すくらいお手の物でしょう?』
「それは…随分な過大評価ですね」
『あまり沖田くんを苛めると、後で痛い目を見ますよ』

くすくすと笑う彼に思わずため息をつく。

「あの人が私のこと嫌ってるのは十分わかってるつもりでしたけど…だったら、それこそ沖田さん辺りが名乗り出て」

言いかけて、口を閉ざす。
斬る殺すなどと物騒な言葉を吐く割に、彼は情に厚い。
山南さんはそれすらも見越した上で、布石を打った。
躊躇することなく一思いにやってくれる部外者はまさに適任だろう。

『彼とは長い付き合いですからね。気持ちだけ、有難くいただきましたよ』
「…俺、そんな冷酷な人間に見えてます?」

ここでの暮らしも、もうすぐで一年だ。それにこの人には随分とお世話になっている。
血も涙もない冷たい人間として見られていたのは心外だ。

『いえ、そういうわけではないですよ。ただ貴方は、彼にはない強さを持っていますから』
「それは」
『もっとも、女人にこのようなお願いをするのは少々気が引けますが』

思わず閉口する私を見て、それまで影を落としていた表情から一転し、山南さんは穏やかに笑った。

『ご安心なさい、誰にも言いませんよ』
「…いつからそれを」
『おや、やはり正解でしたか』
「…」

し ま っ た。
動揺している中で、あっさりと白状してしまった。
実に山南さんらしい巧妙なやり方だ。それに比べて私はなんて馬鹿なのか。

『いくら賢い貴方でも、さすがに気が回りませんでしたね』
「もうこの際だから隠しませんよ…。遅かれ早かれバレるだろうとは思ってましたから。それを知って、山南さんはどうするおつもりで?」
『貴方には我々も随分助けられていますからね。今更貴方をどうこうしようだなんて思いませんよ』
「…そうしていただけると、助かります」

幾月ぶりかに見る穏やかな笑みに、思わず視線を逸らす。

『差し支えなければ、性を偽る理由をお聞きしても?』
「女一人でいると、何かと危険な目に遭いますからね。千鶴ちゃんも同じような理由でしょう?」
『そうですか』

会話が一段落したところで、畳に置かれたままの小瓶に再び視線が集まる。

「…わかりました。その大役は、”私”が引き受けましょう」

すると、山南さんはほっとしたように息を吐いた。

「もっとも、こちらとしてはそんな状況にならないよう願うばかりですが」
『…ええ、そうですね』

そうは言いつつも、私は既に気付いている。
彼は間違いなく、この薬を飲むだろう。
立ち上がって襖に手にかけたところで、もう一度振り返る。

「ところで山南さん、綱道氏の行方は」
『残念ですが、それは私たちにもわかりません。ですが、彼が生きている可能性は高い』

この時代、蘭方医の価値は高い。それも幕府から密命を賜るような腕であれば尚更その値はつり上がる。どこかで野垂れ死んでいることはまずないと思うが、生かされる理由はあっても殺される理由はない。もっともそれは、彼がこの件を公にしていない場合に限るのだが。

「失礼します」

来た時と同じようにうす暗い廊下を進めば、背後からは木を引っ掻くような不気味な音と、獣のような息遣いが微かに聞こえてくる。
それに混じる人の言葉らしきものに、眉を顰める。果たしてあの薬は、どれほどの犠牲者を生み出していくのか。

ようやく不気味な屋敷の外に出られるというのに、その足取りは来る時よりもずっと重かった。




*****




千鶴ちゃんと共に朝餉の片付けを終えて屯所内をふらついていると、なぜか身を潜めて玄関の様子を窺う組長たちの姿が視界に飛び込んできた。

「何してるんですか、皆さんお揃いで」
『ん?ああいや、どうやら伊東さんが到着したみたいでな』
「伊東?…ああ、噂の」

近藤さんと対面する集団に目をやる。
聞けば、彼は参謀の地位に就くことになったらしい。
しかし伊東さんは水戸の流れを汲む尊皇派だと聞いたが、一体なぜそんな人材を招き入れることにしたのか。争いの火種にならないことを祈るばかりである。
もっとも、現時点で彼の存在が山南さんを苦しめていることに代わりはないのだが。

『ところでお前、最近山南さんと話してるか?』
「話、ですか」
『あの人、俺たちとは最近めっきり話さなくなっちまったからな。お前とは何か話してるんじゃねぇかと思ったんだが』

苦笑いを浮かべる原田さんから目を逸らす。

「いえ、俺も滅多なことがない限り山南さんとは話しませんよ。今だって仕事頼んでくるのは土方さんですし」

彼らに嘘をつく罪悪感はあるが、仕事の件は事実である。ゆえに現在の私の任務は「土方副長の命に従う」ことだ。

「まあでも、ここで伊東さんが加入するとなれば…」

先まで言わずとも、その答えは彼らの中で導き出されたらしい。
顔を見合わせた彼らは、揃って小さく息を吐いた。

「私は伊東さんと直接お話するつもりはないので、関係ないんですけどね」





そう言った。数刻前、確かに私はそう言ったはずだ。だったら、どうして。

『貴方も見ない顔ですわね。新しく入った方かしら?』

なぜ私は、伊東さんと対面しているのか。

「ご挨拶が遅れて、大変申し訳ございません」

咄嗟に頭を下げたが、視線が痛いくらいに突き刺さる。
沈黙の中で、突然伊東さんが何かに気付いたように口を開いた。

『もしかして、貴方が名字さんかしら?』
「え?ああ、はい…確かに名字と申しますが…なぜそれを?」
『つい先程沖田さんに教えていただきましたの。何でも、あの山南さんや土方さんが頼りにしていらっしゃるとか』
「御冗談を…私なんて雑用が関の山ですよ」
『そんなにご謙遜なさることないわ。土方さんにも意見するだなんて、随分肝が据わっていらっしゃいますのね。頭をあげてくださらない?』

あの野郎、またタレこみやがった。
山南さんだけでは飽き足らず、まさか伊東さんにも吹聴するとは。
例え千鶴ちゃんがこの厄介な論客に絡まれて、彼女から興味を逸らすため咄嗟に口から飛び出たのが私の名前だったとしても、こんな仕打ちはあんまりだ。
静かに怒りを燃やしながら顔を上げれば、どこか鋭さを含んだ視線が向けられる。

『今夜はもう遅いですし…また改めて、こちらからご挨拶させていただきますわね。名字さん?』
「はは…恐れ入ります…」

頬を引き攣らせながら笑みを浮かべれば、伊東さんは手元の椿を満足そうに撫でながら去っていった。ふふふ、と遠ざかっていく不気味な声に思わず体を震わせる。

「一体何だったの…」
『くくっ…、伊東さんに目を付けられたみたいだね』

頭を抱えていれば、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
…まさかこの男、ずっと隠れて聞いていたのか。なんつー性格の悪い男だ。信じられない。

「あの、沖田さんに何かしましたかね?」
『んー、別に?』
「じゃあ何で」
『君の大事な千鶴ちゃんの無事と引き換えになったんだから、それくらい我慢してよ』
「…あ、そう」

どうやら予想は当たってしまったらしい。

「いやでも、せめて見てたなら助けてくださいよ」
『君を助ける義理なんてないし。それに、君の嫌がる顔が面白くてね』
「…」

こいつは本当に。
大きく溜息をついて隣を通り抜けようとすると、突然腕を掴まれた。
思わず舌打ちが漏れたがこの際仕方ないだろう。

「今度は何ですか」
『聞いたんでしょ?』
「だから何を」
『昨日の夜、君は山南さんから聞いた』
「、っ」

手首を捻られた反動で、体ごと壁際に叩きつけられる。
痛みが熱となってじんわりと背中全体に広がっていくのを感じていれば、突然目の前に影ができた。

「沖田さ」
『そして、あの夜に見た化け物の正体を知った』

掴まれた腕は痺れるほど強い力で抑えられているのに、反対の手はまるで壊れ物を扱うような力加減で頬に触れてきた。背中がぞわりと震える。

『違う?』

指先がゆっくりと顎を滑る。

「さあ、何のことだか…、っ」

降下した指先が、喉にかかった。

『知ったからには、生かしておけないよね』

首にかけられた手に微かな力が加わった瞬間、私は反射的に懐に手を入れていた。
それに気付いた沖田さんがふっと笑みを浮かべる。

『ってのは冗談だけど』

ぱっと両手が離され、解放された勢いで若干足元がふらつく。動揺を悟られないように睨み付ければ、彼は憎たらしい笑みを浮かべた。

「何でこんなこと」
『何でって、君が嘘をつくからでしょ?』
「だから、俺は何も知ら」

続けたはずの言葉は、音になる前に、熱に溶かされた。
額に広がる見覚えのある栗毛に、目を見開く。

「(…なに?)」

両頬に触れる節のある手から伝わってくる熱に、頭が真っ白になる。

「(私は今、何をしてるの?)」

意識はあるのに、身体が言うことを聞かない。
その証拠に、抵抗するために振り上げた手は不自然に空中で固まったままだった。
唇を掠めた冷たい空気でハッと我に返ると、閉ざされていたはずの翡翠がこちらを鋭く睨み付けていた。

『もしものときは僕がやる。君の出番はないよ』

遠ざかる気配を感じながら、腰が抜けたように、壁に背中を預けたままずるずると座り込む。もう立つ気力は残っていなかった。
膝を曲げたまま、口元を指先で触れる。

「は、はは…」

両手で口元を押さえて吐き出した息すら、小さく震えていた。

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