その姿を見た時から、きっと彼の虜だった。
彼と会ったのは、なんの変哲もない日常の真ん中。代わり映えのない六本木の街を理由もなくふらついていた時だった。いつもの喧騒とは異質の騒がしさに顔を歪めて、舌打ちして。ちらちらとあらぬ方向を見る通行人に、野次馬根性半分苛立ち半分でそちらに顔を向けた時だった。
「は、」
息を呑む。とんでもない美人だった。しなやかに伸びた無駄のない体。精巧に作られた人形に命を吹き込んだかのような計算され尽くした美貌。神が作ったと言われても納得してしまうだろう人を越えた生き物。はるか昔に読んだ記憶のある絵本に出てきたお姫様をそのまま写しとったような端麗さだった。しかし容姿は楚々であるのに左右の珍しい色をした瞳は伏せられ、思い詰めるように唇を噛む姿は不安定な艶やかさがある。息を呑むほど可憐な顔に憂鬱そうな表情が、これでもかと甘美なる背徳を抱くような美人。思わずはぁと漏らした感嘆のため息は自分でも驚くほど熱く、背筋にゾクゾクとした痺れが走る。その間も視線は、逸らせなかった。
しかし、と回りにくくなっている頭を意地でフル回転させる。六本木にこんな超常の美貌を持つ女など、自分が知る限りいなかったはずだ。そうでもなくても、情報くらいは入ってくるはず。あれだけの美しさだ、誰に目をつけられていてもおかしくはない。それなのに自分や弟のネットワークなら簡単に手に入る情報に、彼女のものはなかった。どうして。惚けたようにマジマジと見つめて、そして気がついた。
彼女は学ランを着ている。つまり、男だった。こんな、魔性の美貌を有しているのに、男。どこか信じられない気持ちが生まれたが、同時に納得もした。この傾城傾国を易々と成し遂げるだろう容姿と同居する性別を超越したような神秘的な雰囲気は、ここから来るのかと。いつもなら考えもつかないだろうことをぼんやりした思考で思ってしまうくらいには、彼に見惚れていた。
ふと、名も知らぬ美人の唇から血が出ていることに気づく。噛みすぎているのだろう。それに気がつくこともなく考え込んでいる姿に、近づく影がある。あれは確か、最近調子に乗ってるヤツだな。荒い息を吐き出しながら欲望丸出しの目で彼の新雪の肌をねっとり舐めつけた男に言いようもない嫌悪が走る。いつもであれば面白がって放っておくはずなのに、太い腕を彼に伸ばす男に気がつけば体が動いていた。
「どーも」
びくりと震えた黒絹の髪がふありと跳ねる。驚いたような赤と灰色の輝く瞳が一瞬で警戒するような色を帯びた。否、普通であればわからないだろう。彼の美しさに吸い寄せられて、自分がこれをモノにするのだと躍起になるのだろうから。実際、そんな輩がここにもいたわけだし。ついと視線をあらぬ方向に向けると、彼も同時に視線を向けて、そして固まる。そこには彼に手を伸ばしかけている男が下品な表情を固まらせて立っていた。ひっと短い悲鳴が後ろから聞こえて思わず彼を庇うように立つ。何故そんなことをしたかはわからない。早くこの生き物から男を遠ざけなければ。
そんな謎の焦燥に駆られて口を開く。
「見てわかんない?今、俺がこの子と話してぇの。部外者は立ち去ってくんねぇかなぁ」
煽るような言い方に反発しようとした男が、自分の顔を見て石のようになる。笑いかけてやれば真っ青になり、一夜の夢から醒めたような心持ちであろう。そんなこと知ったことではない。
「早く、どっか行ってくれると蘭ちゃん嬉しーなー?」
わざと伸びた声で言えば慌てたように逃げていく。ついでにぼんやりと此方を凝視する周囲にも笑みを効かせれば、自分が誰なのか気がついた奴らが慌てて逃げていく。そうだ、もっと怖がればいい。ざわめいているのは変わらないが、幾分か視線がマシになった。それを確認して振り向くと、顔面蒼白で鞄のショルダーストラップを痛そうなくらい握りしめる彼がいた。その顔があまりに青白くて思わず手を伸ばそうとすると、びくりと肩が跳ねてさらに縮こまる。人が、あまり得意ではないのかもしれない。ここまで美しいのだから、そのせいで様々な苦労をしてきたのだろう。本質的に人間不信なのかもしれない。それに気がついてつきりと胸が痛んだ。
普段であれば、声をかけて慰め、刹那的な快楽を得るために甘く微笑みかけるだろう。だが、彼にはそれをしたくないと思った。ゆっくり腰を折り、震えるオッドアイと目を合わせる。ポケットからたまたま持っていたハンカチを取り出して差し出した。今にも逃げてしまいそうな姿に努めて優しい声を出す。
「はい、どうぞ」
「・・・・・・?」
「血。出てるからさぁ、痛そう。これで拭いて」
喧嘩慣れしてる自分からすれば唇から血が出ることなど日常茶飯事だが、こんなに可愛い顔をしたまっさらな子は違うだろう。戸惑ったような顔をした彼にいいからと半ば無理やり押し付けると、美しい顔が困ったように歪む。しまった、焦り過ぎたかといつもならば思わないようなことを思った。誤解されたくなくて慌てて言葉を取り繕う。
「それ、別に変なのに使ってないよ。俺もあんま使わないし、たまたま。ほんとに。神に誓ってもいい」
何を言っているんだ俺は。そもそも神なんざ信じたこともないくせによく言う。らしくない自分に内心舌打ちしながらも様子を伺うと、困り顔が戸惑いに変わっていた。ちらちらとハンカチと自分の顔を見て、恐る恐る白く細い指先が手の中からそれを抜き去っていく。ぺこりと小さく頭を下げた彼は、少しだけ顔色が戻っていた。そのことにどうしようもなく安堵して、そのことに戸惑った。ああくそ、調子が狂う。
その次の瞬間、桜の唇が動いた。
「あ、」
「ん?」
「・・・・・・ありがとう、ございます」
甘く優しいソプラノが大切なことを言うかのように綻ぶ。彼が口元に笑みを浮かばせるだけで、まるで光が解けたようだった。たとえそれが、怯えと不安が入り混じった表情だとしても。もっと、笑ったらいいのに。そう思った時点で悟った。
『恋をやさしいものだとはねえ?恋はつらい、あまりに残酷だ、暴君だ、茨のように人を刺す』
いつかどこかで見た、歌劇の主人公の言葉が頭に浮かんだ。あの時は鼻で笑ったその言葉が、今はなんとなくわかる気がした。なるほどなるほど、確かにこれは。甘くもなく面白くもない。突き刺すような衝撃と暴れ狂うような熱情がごちゃごちゃになって息が苦しいくらいだ。
その小さな体をすぐにでも掻き抱いて、大丈夫だと囁いて、懇ろに丸め込んでしまいたい衝動に駆られたけれど、ぐっと我慢する。そんなことをすればきっと彼は自分には心を開いてはくれなくなるだろう。それは嫌だった。その代わりに、自分のものとは思えないような緊張した声が出た。これからなんて考えられなくて、知りたいのはただ一つだけ。
「俺、灰谷蘭っていうの。名前教えて?」
美しい人、どうか名前を。まずは、それから始めよう。
「兄ちゃん、遅かったな。・・・・・・って、顔真っ赤!どうしたんだなそんな顔で!」
「あー、くそ。竜胆」
「な、なんだよ」
「男に一目惚れしたわ」
「は?」
「ホモ扱いしてくれて構わねぇから、蘭ちゃんの恋路に付き合えー?」
「はぁ⁉︎」