かつて、あれほど愛おしい人はあったろうか。
多分、運命なんかじゃなかった。だが最期まで絡み合う比翼連理の鳥でいられないのに出会ってしまう運命というのは、きっとこの世に用意されているのだ。それと同時に、物語のようにたった一つの運命が導き出す答えが幸福であるとは限らないとも、最近思うようになった。だってそうじゃなきゃ、何年もの歳月を経てさえこんなに書き換え難い存在などいるはずもないのだから。別れた相手に対する思いのわりに未練がましくて見てられないこと限りないし、頭から振り払ってしまいたいのに、未だに頭から離れない記憶。ああ、鬱陶しい。振り払えればいいのに。
けれどそうくさくさした気持ちを抱えたところで、このマグマが全身に迸ったような感覚は誤魔化せるものでもなかった。何が言いたいのかといえば、数年ほど前に別れた元恋人との再会である。しかも、同窓会なぞという逃げようにも逃げられない場所での、再会だった。
ああ、本当。来なければよかった。私を見つけてその低い声をかけてきた相手は、良いとも言っていないのにナチュラルに距離を詰めて隣に座ってきた。こういう手慣れたところが腹が重たくなって、そして裏切られたような気持ちになってしまって、自分自身に嘆息する。ああ来なきゃよかった。否、同窓会と知らされていたならば絶対に首を振らなかったろう。ごめんね! なんて笑っていた友人の顔を思い出す。スミレを煮詰めたような紫の瞳が薄く細まるのを見たくなくて、重石を飲み込むように目を伏せた。もう二度と味わいたくない重苦しい沈黙を破って、息を吸った。
「今牛ってこういうの、くるんだ」
意識したような空々しい声が虚しく空を切った。意識しなければ声もかけられないのだという事実が少しだけ歯痒かったなんて、図々しいにも程がある。これなら声なんてかけなければよかったというような、無様なそれ。後悔のような恥ずかしさが込み上げて、唇の端を噛んだ。相手が、特になんでもないように空気のあわいを食んだように笑うのにもまた、言いようもない恥ずかしさが溜まっていく。
「そりゃ、たまにはな」
「意外」
「お前は俺をなんだと思ってんの? ……それに、酒飲めるような年齢になったあいつら、ちょっと気になるだろ」
「そ、っか」
どこか輪郭のシャープになった、やけに静かな横顔が、私たちの間にある年月の証のようだった。脱色した髪はそもそも染めているのか、紫と黄色のカラーになっていて、後ろで一つに括れるほどに随分と伸びていた。元々好きでもないのに煽った酒が不味い。柄でもないことをしてしまったと、すぐに唇を離した。今牛は見ているだけだった。
それもそうか、と思う。この男との記憶など、高校を卒業するその日に途切れていて。それからというもの音を収録し終えたカセットテープのように続きがない。ただただ大人になっても続けていける自信がなかったという日和った気持ちだけで、私は運命だと信じていた男のことを振ったのだ。彼が有名な不良だったから、という理由ではない。そんなことが理由であるならばとっくの昔に思いは途切れている。何度も何度も年月を重ねて、私たちの関係がセピア調のモノクロ写真になってしまった時。彼の目に私は映っていなくて私だけが好きである、なんてことになったら耐えられないと、思ったから。そんな、身勝手な理由で手放したものを、どうして無理やり捨て去ることもできず今まで抱き締めているのか。誤魔化していたくても、勝手に心拍数を数え始めた心臓の音には、正確な答えが出ていた。
「……今牛は彼女いるの」
今なにしてるの、とか。お酒どれくらい飲めるの、とか。もっと聞くべきことはあったはずなのに、それだけしか出てこない。もっとサラサラと流れる砂のように、こぼれ落ちるようなあっさりとした言葉で聞ければよかったのに、喉に張り付いた重たい未練が邪魔をする。聞くべきではないタブーを聞いた。ぐるぐる渦巻く思考を抑えて、愛想笑いを貼り付けた。
「ごめん、無神経だっ、」
「いないけど」
「……あ、そ、」
さらりと返された声に、肩透かしと少しの痛みはもう誤魔化せない。さらりと答えられてしまったことがショックなのか、その言葉が嘘か本当かもわからなくなってしまったことがショックなのか、よくわからない。自分から口を開いたくせに女々しくも黙り込んでしまった私に彼は何を思ったのだろうか。そんなことすらわからないから、また下を向いた。涙が出そうだった。
「今のってさ、」
「……うん」
「どういう意味でいった?」
「、あ、ごめ、無神経で」
「じゃあお前はいるの、彼氏」
「、ぅん」
「嘘くさいな」
「っ」
ああ、嘘だとも。未だにお前を運命だと認識したままだとも! そんなこと言えたならよかったのだが、こんながやがやとした酒の席。誰に聞かれるかもわからないところで言えない。それでもそうして鼻で笑われて、机の上で蜘蛛のような大きな手を遊ばせるのを見るのが、囚われているのは私だけのようで、落ち着かない。
「そりゃ、ぃ、ない、けど。今牛に関係あんの」
「へぇ、そっか。いねぇんだ」
「なに、独り身なのがおかしいってこと」
「なんでそうなんだよ、オレを嫌なやつみたいにいうな」
間髪入れずに返してきた言葉は、暴言というには甘い痺れがつきまとう。じゃあ、なに。自分を捨てた女が未練がましくお前を思っていてほしいタイプ? なんて、いう勇気もないのに苛立ちと悲しみだけが募っていき、なんでもないはずなのに泣きそうになった。じわじわと視界を覆う透明な膜が、思考を鈍らせていくのがわかる。
けれど、今牛は顔を怖いくらいに歪めて、やがてため息をついた。
「彼氏がいたら、可哀想だろ。その彼氏」
「え、」
「俺に略奪されるんだから、その彼氏が可哀想」
独り言のように吐いたその言葉が、胸に大きく波紋を作った。弾かれたように顔を上げた私の頬を片手で挟んで引き寄せた今牛の、私が映っているアメジストが爆ぜた。ビックバンの前兆のような輝きだった。些か乱暴にすぎるやり方で視線を合わせた今牛は、瞳に映る愚かにも耳まで赤くなった私を見て、機嫌良さそうに笑う。気がつけばその体に囚われるような形で抱き込まれていて、もう逃げることすら出来やしない。
「ああ、悪い。一個嘘ついたワ」
「な、なに」
「今日俺がここにきたの、お前に会うためなんだけど」
まあそれはいいから、俺にここまでさせた責任とって逃げるなよ。
押さえつけたような熱と、反対に体を抱き込んだ力強さに、息すらできない。ふるふると震えながら見上げれば、吐息だけで笑った今牛が、食らいつくように唇を食んだ。落としてきた運命が、再び回り出す音がした。