場地圭介は、好きな人がいる。
好きだった。きっとこの先も、ずっとずっと好きだ。そんな自覚を持っている人がいる。
けれどそれが、何より叶わない思いだということを、知っていた。
夏の茹だるような暑さの日。家に帰ってランドセルを放り投げて「マイキーの家行ってくる!」と叫ぶ場地に苦笑した母は気をつけていくのよと声をかけた。それに頷いて意気揚々と荷物を背負い走り出す。いつもはこんなに急がないのに、今日ははやくはやくと気が急いで仕方ない。
だって今日は、佐野家にあの人がやってくる日だから。
「こんにちはー」
勝手知ったる佐野家の前で声を張り上げる。そうすればあの人はいつも苦笑しながら迎えてくれるから。けれどドアを開けたのは、望んだ人ではなかった。
「あれ、場地じゃん。早くね?」
「げっ、マイキー・・・・・・」
「げって、ここ俺んちなんだけど」
頬を膨らませていうのは幼馴染のマイキーこと、佐野万次郎。たしかに仲はいいが先程まで学校で会っていた人間に会いたかったわけではない。会いたかったのは、もっと。そう思って目を逸らすと、万次郎ははぁと重いため息をついた。
「黎さんに会いにきたわけね、でもだめー」
「はっ?なんで」
「だって俺も黎さんと話したいもん。黎さんに会いたかったのはお前だけじゃないんだからな!」
ビシッと人差し指を突きつけられ、頬が引き攣る。こいつ、全部わかってて出てきやがった。そんな感情が出ているのがわかるのかふふんと鼻を鳴らす。
「お前が先に来ると、いつも黎さん取っちまうし。今日は俺が先に出迎えたので俺の日でーす!」
「はぁ⁉︎なにふざけたこと言ってんだマイキー!」
「ふざけてないもん」
「もん、じゃねぇわ!」
犬の威嚇のように吠えながらじゃれあいのような言い合いをしていると、華々しいわけではないが押し殺した光沢のある笑い声が聞こえた。ふわりとバニラの匂いもする。場地の顔がパッと輝いて、万次郎の顔が少し膨れる。
「黎さん!」
「よ、圭介。元気そうで何より」
そう言ってひらひら手を振ったその人が、場地が求めていた人だった。群青色の長髪を高く括り、黒猫の瞳より少し色素の薄いレモンイエローの瞳が綺麗な人だった。今日はトレードマークのサングラスをしていないらしい。肌は陶器のように白い。少しだけくつろげた胸元には、黒い鳥のような刺青が入っていた。日本女性より一回り高いすらりと伸びた長身に無駄のない筋肉がついていて、野生の獣のような風格がある。一見氷のように冷たく見えるその美貌が春のように緩む瞬間がいっとう愛らしい魅力につながる人。場地の、スパンコールのように輝く一等星。それが、薬王寺黎という人だった。
「もー黎さん!出てきちゃダメって言ったのに!」
「あはは。ごめんな万次郎、言い合いが聞こえたからつい。たい焼き買ってやったから許せ」
「え、ほんと⁉︎やった、食べる!」
ばたばたと足音を立てて居間に向かったんだろう万次郎は騒がしい。まるで嵐のようだと嘆息する場地に、黎はその光を編んだような光沢を持つ髪をさらりと揺らしながら声をかけてくる。
「走ってきたのか?髪が乱れてるよ」
「あ、」
「全く、やんちゃだな。じっとしてて」
ハスキーな声音が春の昼下がりのように耳に届いた。乱れた髪をその冷たい色をした手が撫でて、元の状態に戻す手つきが優しい。微笑ましいものを見るような顔が少しむず痒くなって唇を尖らせた。
「ガキ扱い、すんなよ」
「ふは、生意気だなぁ。子供であれる時くらい大人しく子供でいな。いつか否が応でも大人になるんだからさ」
だから大人しく、子供扱いされてればいーの。そうやって紅を引いたわけでもないのに仄赤い唇をきゅっと笑みの形にする黎が、こんなことを言うのは本当に心を許した人だけなのだと言うことを知っている。喧嘩の時や気を許していない周囲の前では彼女のチーム【奈落】でキングと呼ばれるのに相応しい強く気高い王様のようなのに、身内認定すればどうしようもなく面倒見が良くなる。もっとも、彼女と同年代の真一郎やその仲間たち、白銀という気に食わない色男にはもっとそっけないと言うか、口が悪いと言うか。それは信頼されてないわけではなく自分たちが子供だからと言うのもあるのだろうが。ともかくこうやって信用してるという証を見せられるのはなんともいえずくすぐったい。
「うし、できた」
「黎さん!場地も早くたい焼き食おうぜ!真一郎が帰ってくる前に!」
万次郎の呼ぶ声に反応して、黎は行こうかと優雅で心地いい足音を立てて歩き出す。場地は笑顔になって、その後を追った。けれど、内心は少しだけ曇っていた。
(真一郎くん、まだ帰ってこないでくれねぇかな)
尊敬する人にそんなことを思うなんて。自分の心の狭さが嫌になる。でも、これくらいは許してほしかった。
真一郎が黎のことを好きなように、そして黎も真一郎が好きなように。
場地も、黎のことが好きなのだから。
いつから好きだったかなんて覚えていない。
ただ、冷たい美貌を崩して夕暮れのように微笑むその人に、いつまでも笑っていてほしいと思った。その時からきっと好きだった。
でも、その時には黎は真一郎の女だった。
「真一郎と付き合ってるんだ。あんま周りには言わないでな」
そう言った彼女はいつもと変わらない表情に見えたけど、緩んだ口元と揺れる瞳だけは隠せていなかった。自分には見せないような女の人の顔。それだけ幸せそうな顔を見せられたら、自分はなにもいえなくなってしまう。自分の心を成就させるより、好きな女には幸せでいてほしかった。もとより尊敬する真一郎から彼女のことを奪おうなんて気も起きない。困らせることをわかっていたから思いを告げる気にもなれなかった。そして、彼女と彼が幻滅するような自分にはなりたくなかった。
万次郎の誕生祝いのバイクを盗みに行こうと一虎に言われた時、必死に引き止めてやめさせたのは「きっとそんなことをしてもマイキーは喜ばない」と言うのもあったが。少しだけ、ほんの少しだけ、「あの人たちに嫌われたくない」という下心があったからだった。好きな人に冷たい目で見られるのも、その好きな人が恋人の元に行ってしまって二度と会えなくなるのも、幼い場地にとっては耐えられないことだったのだ。
結果的に納得してくれた一虎と共に別の誕生日プレゼントを選び渡した時、万次郎は普通に喜んでくれたのだからよかったと思う。まあ一虎自身も、バイク屋に盗みに行こうとしたのがどこからかバレて黎に怒られたらしい。一虎は一虎で黎に懐いていたから、怒られたのはよほどショックだったのだろう。ごめんなと謝ってきた彼にぺたんと下げた犬耳が見えた気がしてその時は吹き出してしまったものだ。
こんなふうに、場地は黎の前ではまるで借りてきた猫のようになっていた。元々性格は優しい心根を持つ人間ではあるが。
「場地はさ、いいやつすぎるんだよ」
もっと欲を出してもいいんじゃね?それくらいで黎さんは嫌いになったりしねぇよ。
そうやって万次郎に言われたこともあるほどに、場地は黎に、自分の幼い情欲と深い恋慕を隠していた。
場地とて最初から、こうだったわけではない。けれど、あの日見てしまったのだ。
あの日。黎がこちらにきていると知って喜び勇んで会いに行った日。
声をあげてもインターホンを押しても、誰も出てこないことに首を傾げて。縁側から回って入ろうとして。
そこで見たのだ。
黎は眠っていた。いつかどこかで見た絵画の、オフェーリアのように眠っていた。寝ているだけなのに不安さとうつくしさを感じさせる、そんな寝姿を。そうして真一郎に寄りかかっている彼女の額に、真一郎が口付けていた。んんと寝言を言う黎に忍び笑う。けれどその黒々とした瞳には引き摺り込まれそうな激情が宿っていた。れい、と音もなく名前を呼んで、そして何かの赦しを乞うようにまた口付ける。
何も言わず、何も聞かず。欲でも献身でもなく、ただただ自分の暴力的な感情を隠してただただ相手を守るような。オオカミが番を愛するような求愛。教科書に載っている、聖域のような純粋な感情。二人だけで完結している世界。
それはまるで、祈りのような愛だった。
あれを見て仕舞えば、どこまでも部外者の場地はもう何もいえないのだ。
それでも、
(それでも、黎さん。あんたが好きだよ)
たとえこの想いが叶わなくても。
たとえ一生苦しめられても。
たとえ、この人以外を好きになれなくても。
いつの日かバイバイ、終わりは来るから
あの人はいう。
「どんな人生にも、必ず終わりは来るよ」
いつか終わりが来るのなら、ずっとこの思いを抱えて、俺は生きていきたい。
「場地!早く来いよ!」
「圭介、一緒に食べよう」
そうやって声をかけてくる万次郎と黎に、とびっきりの笑顔で答えた。
「おう、今いく!」