逃がした魚は大きい(前)
頭のおかしな奴と罵られることを覚悟で告白するが、私こと天雷花鹿は転生者だ。どう言った理由で死んだのかは覚えていない。物心ついたころにはとても古い日本家屋に住む見目の変わった少女になっていた。正直どうしてこんなことになったのか未だに見当もつかない。唐突すぎるその変化に混乱と恐怖で錯乱状態になって泣き喚く日々の中で、根気強く自分をあやしてくれた乳母に前世の記憶があるんだと打ち明けた時否定されなかったことだけが、当時幼かった我が身の、この世界で唯一の支えだったと言えよう。
乳母は左目の泣きぼくろと紅を引いているわけでもないのに艶やかな唇が特徴的な、俗的にいえばエロゲにいそうな人物だった。いつも厳しい顔でいることが多かったけれど花鹿には優しい人物で、突拍子もないことを言い出した主人の娘の話を笑いもせずに聞いてくれた。葛藤無稽な御伽噺と断ずることなく、「その記憶は花鹿様の役に立つから大切にとっておくべきです。でも、外では漏らしてはなりませんよ。乳母との約束です」といってくれた。だから、花鹿はこうやって生きることが出来ている。
父と母の顔は知らない。花鹿が存在していることを考えれば居ることは居るのだろう。一度だけ、父母らしき人物が乳母と言い争っているのを見たことがあるが、あれはダメだなと思った。年老いた獣のような父と深窓の姫君と言われても信じるような母がどうして結婚したのか不思議ではある。だが、それだけだ。まあ、それなりに歴史があるらしい我が家の主人とその妻であるのだから政略結婚という奴だろう。ただ、親になるのはてんで向いていない人種だと感じた。自分の気に入らないことをしたことに難癖をつけ、思考する脳みそを踏み躙り、自我を捻り潰そうとする。醜い笑みを顔に浮かべる自分を棚に上げて、それどころか自分が優等人種だと思っている。あれは、駄目だな。元々「自分の親は前世の親だけで、今世の親はいないもの」と認識していたので興味もなかったがそれを認識してからは尚更だった。
花鹿の生まれた天雷家はどうやら宗教的な一家であるらしい。大きくなるにつれ、屋敷を歩いているとジュレイがどうとかジュツシキがどうとか散々聞かれるようになったがよくわからなかった。家に集まっている大人たちは正直に答えるたび落胆した顔をするのだが、そんな顔をされても、わからないものはわからない。時折外に連れ出されて、何もない方向を指さされ何か見えないかと聞かれることも増えたが、目を凝らしても細めても、彼らのいうその何かは見えることはない。何もいないよと言うと苛立ったように怒鳴り散らし、花鹿を置いて帰ってしまうこともあった。あれは何がしたいんだろう。乳母に聞いても花鹿様は知らなくても良いことですよと誤魔化されてしまった。何も説明されないままだったので、学のない自分なりにうんうん唸って出した結論を現実にすることにした。もしかしたら、乳母以外のこの家の者は皆宗教に縋らないと生きていけない可哀想な人達なのかもしれぬ。完璧だ。
従兄弟に当たる血筋の家にサラブレッドが産まれたらしい。リクガン?とムカゲン?の抱き合わせだとか。よくわからないけど競走馬みたいなことを言う。そういえばそんなゲーム流行ってたな。産まれたのは人間じゃないんだろうかと首を捻ったが、お披露目会みたいなところで見たら人間の赤子だった。仔馬じゃなかった。でもべらぼうに美人。空色の瞳なんて外人みたいだ。白い髪はお揃いだけど。小さな赤子に見惚れていたら父親(仮)に頭を殴られて無理やり引き摺られた。痛い。これ以上馬鹿になったらどうするんだ。お前はジュジュツシとして役立たずのくせに俺たちがゴジョウの家に目をつけられたらどうしてくれるとかなんとか言っていたが、それでも殴ることないだろうと不満を覚えるのは仕方ないと思って欲しい。
養子に出されることになった。天雷家からヒジュツシを出したなんていう事実自体を消したいんだそう。ヒジュツシが何かはわからなかったが、きっと今更知ってもいいことはないだろうなと思った。これからは天雷でなくなるのだから。宗教に下手に関わっていいことなんてない。彼らが何かがいると信じているのだから、イマジナリー敵を倒すために頑張っているのだろう。そんなことに付き合ってやる必要もない。心配なのは、乳母のことだった。乳母は養子に出る私についてきてくれるそうだ。家の者から勘当されると脅しまでつけられているのに首を横に振ることはなかったという。本当にいいのかと聞いた時に花鹿様の居場所が私の居場所ですからと笑った乳母には感謝と申し訳なさが募った。これからもよろしくと頭を下げると逆に恐縮されてしまったことは残念だったけれど。
こうして、花鹿は「伏黒」姓を名乗ることになった。