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「世界の歌姫」と名高い、人から愛されるための愛嬌と教会に降り立った天使を思わせる荘厳な歌声を持つ少女は、微笑みを湛えて映像が映し出された壁面へ手を振った。歓喜の声を上げて老若男女の感謝を込めた挨拶を最後に、ぷっつりと途切れてしまったそれ。暗い中で仄暗く光る白き壁を青褪めた唇を震わせて昏い瞳を揺らしながら見つめる姿は、先ほどの無邪気でどこか高慢な美しいいきものとは全くかけ離れた姿だった。事実、恋の歌をあんなにも情熱的に歌い上げ、力強く鼓舞するような応援歌を叫び、失ってしまった悲劇の愛の歌をしとやかに囁く姿だけを見ている者が見れば卒倒し、歌姫はそんな顔しないと掌を返したように批判して、謂れもない噂を囁くであろうことは少女自身にもわかっていた。
息を浅く吐いた少女は、古ぼけたランプをつける。懐かしい光が闇の溢れる部屋に差し込んでいく。頼りなくも優しい火がゆらゆらと揺れているのを見て、ようやく少女は頬を緩めた。
暖かいオレンジの光に照らされる甘く輝くシンメトリーの赤と白に別れた、時折銀糸の風のような色や玲瓏な紫じみた色を帯びる髪は、奇抜でポップな髪型に結い上げられているとしてもそれが邪魔にならない程の不思議な魅力を持っている。アシンメトリーの前髪から覗く朝露を宿すように繊細な白の、けぶるような睫毛の下には、宵闇を切り取ったような紫の瞳。国によっては神に最も近い高貴とも呼ばれる色。平常であれば情熱的な苛烈さと無邪気な愛らしさの目立つアメジストの瞳は、今は陰鬱な艶やかさと泉の底に引き摺り込むような冷たさがあり、見た者の腹の奥を熱くさせるような絢爛と、これをなんとしても組み敷きたいというような不健康な欲望を抱かせずにはいられないような蠱惑が宿って、潤むように揺れていた。小さな顔を彩るのはそれだけではなく、筋の通った鼻梁や、硝子細工のように小さな唇。光が弾けるような甘さと清廉さの際立つ乳白色の肌は世界で一番の人形師であろうと素足で逃げ出すほどの滑らかで繊細。しかしきゅっと引き締まった顎も、細く白い首も、可哀想なほどに震えていた。
自然の加護を思わせる豊かな乳房もむっちりとした官能的な太腿も、男であればむしゃぶりつかずにはいられないほどの色香があった。それは、少女と見間違うほどの日々の愛嬌を感じさせない不安げな色気がある分、息を飲んで宥めすかして腕に抱き込んでしまいたくなる。組み敷いて名前を呼ばせ、泣かせたくなる。甘く優雅で、官能的で叙情的。明るく無邪気な砂糖細工の妖精でありながら、悲劇の似合う深窓の姫君である。アンバランスに取られかねないそれらが噛み合った、奇跡のような傾国の、夢幻のひと。トゥーランドットの美貌とはよくいったものだ。
この、今現在世界を沸かせる救世主と祭り上げられる歌姫、ウタが少しだけ臆病で、静謐で受動的、神経質なほど自虐的であることなど、パトロンであるゴードンや、何もいえず別れてしまった幼馴染のルフィ、そしてもう二度と会うことはないだろう赤髪の養父と初恋の人のいる海賊船の仲間たちしか知らないのだ。そして何よりウタ自身もそれを、表に出すつもりもなかった。世界を牛耳る歌姫へと駆け上がったとはいえ、何が弱点になるかわからないこの世界。少しでもボロを出せば世間の荒波に食われてしまうことは、世間知らずなウタであってもわかること。だからウタは、心苦しくも都合がいいように明るく、無邪気で、世間知らずなお陰で少し高慢であっても許されるような歌姫を演じている。それは自分の歌が好きだと言ってくれる人に対してだって変わらない。こんな美しいけれど過酷で、混沌とした世界の中で、自分の本当を出そうなんて思えない。
知らない世界は、怖い。かの海賊船に乗っていた時でさえ、何度かウタ自身の見目や子供には不釣り合いなアンニュイな色香に目が眩んだ海賊たちに襲われそうになったことがある。ああ、シャンクスはその度に怒っていたな。みんなも、あの人も、怒ってくれたっけ。大好きな人たちが自分のために怒ってくれることが、あの時は不謹慎と分かっていても嬉しかった。今は、とそこまで考えて。重くのしかかるような悲哀と自責の念が蓋を開けてウタの心を支配する。青褪めてさらに白くなっている顔に引き攣ったような笑みを作って、祈るように薄青い瞼を閉じる姿は痛々しさが付き纏う。
わかっている。そんなことを思う資格なんて自分にはない。自分は人殺し。エレジアの人々をたくさん殺した。自分は恩人に恩を仇で返した最低な女。シャンクスたちに全ての罪を被せて私だけ一人のうのうと歌を歌ってる。現実から逃げてばかりで守られてばかりの役立たず。今だってゴードンに慰めてもらわなきゃ、幼い頃の万華鏡みたいな思い出に縋らなきゃ生きていけない、弱い人間。
「あいたいよ、シャンクス」
養父の、シャンクスの顔が浮かんだ。シャンクスはウタを宝箱の中から見つけたと言っていた。だから彼は本当の父親ではないけれど、ウタを大切にしてくれたし、ウタを娘だと言ってくれた。大好きだった。そんな相手を現実逃避を助長させる相手に選んでいるという事実に、心が罪悪感で押しつぶされそうだった。虚しくなるからやめようと思ったのに、次々に浮かぶ赤髪海賊団の顔ぶれが、懐かしさと共にウタの顔を曇らせていく。
最後に浮かんだ、煙草と火薬の匂いのするひとは、今でも私があなたを好きだと言ったら、どんな顔をするんだろうね。私は今のあなたを知らないのに、狂おしいほどのラブソングを歌う時あなたに頭を撫でてもらったことを思い浮かべているなんて、きっと思いもしないだろう。
夢見がちな小娘の戯言と言われてもいい。それでも、もう薄れているウタではない自分の記憶の中ですら、かつてあれほど愛した人はいただろうか。この儚く短い余生の中、ここまで愛した人はいなかった。伝えるつもりもないくせに、伝えるあてもないくせに、ただただ胸に燻る思いだけが膨らんでいく。
そんな資格がないとわかっていても、口に出さずにはいられなかった。
「ベック・・・・・・」
くぐもった、掠れて消えてしまいそうな声には、苦しくなるほどの情念と、幼いほどの甘さが混じっていて。それでも誰に届くわけでもなく、部屋に響いて、儚く消えていった。
しばらくしてから、ゆったりした足取りと共に遠慮がちなノックの音が聞こえた。虚な視線を向けて、小さく入るように促すと、ドアの開く軋んだ音が響いた。
「ウタ?夕食に顔を出さないから心配していたんだ」
「・・・・・・ゴードン、」
「・・・・・・あまり、根を詰めすぎるのもよくない。食事にしよう。ウタの好きなものを作ったから、気が上向いてきたら降りてきなさい」
「ねぇゴードン、」
自分のパトロンのようなもので、教育者で、たくさんのことを教えてくれる、この荒廃した廃墟と化した音楽の国エレジアの国王だったひとであるゴードンは、ウタにすこぶる優しかった。見返りも求めず、ただただウタに歌に関する知識を身に付けさせ、ウタが求めれば書庫を開けてくれたり、塞ぎ込んでいれば外に出ることはいいことだと連れ出してくれる。
今だって、ウタが躁鬱状態になっていることを見込んで声をかけにきてくれたのだ。その心を砕くような優しさは、ウタ自身にひどい業を背負わせてしまったという悔やみからなのかはわからないけれど。そうして背を向けたゴードンに、ウタは空っぽな声を向けた。
「・・・・・・なんだい」
「いつもごめんね」
「いいさ、私が好きでやっているだけなんだから、ウタは何も気にすることはないよ」
「私、早くいなくなるから」
「・・・・・・」
「世界一の歌姫になって、政府に私のことを知らせて。そしたら、厄介者はいなくなるから」
「ウタ、」
「トットムジカの楽譜、あの時一緒に捨てたでしょ。だから、あとは私がいなくなればいいだけだよ」
「ウタ!」
思わず、と言ったように駆け寄ってきたゴードンが、ウタの小さな背中をさする。唇は真っ青で、今にも倒れてしまいそうな顔色をして、強張った顔でうつらうつらと言葉を重ねる姿に、歯を食いしばったゴードンは、せめてもの意地で精一杯優しく声をかけた。
「やはり、夕食にしよう。食べたあとは入浴でもして、あとはゆっくり休みなさい」
「・・・・・・ぅん」

エレジアの夜は更けていく。
音楽に愛された国の元国王と、世界の歌姫と呼ばれるひとりぼっちの少女の生活は、今日も鬱々と過ぎていった。