彼女とトリップと推薦委員会
彼女と僕等の日常
彼女とトリップと推薦委員会




“テニスの王子様”の世界にトリップする前、私は雑貨屋で働いていた。

店長という存在がいなかったあの店で私はなぜか店長的立場にいた。

別に好きでそんな面倒な立場にについた訳ではなく、そんな立場になれる程しっかりした人がいなくなったせいだ。

そうでなければただのアルバイトの私が好き好んであんな面倒な立場にいない。

まあ、お店のいざこざ話しは話の流れと全く関係ないので省くとして、問題はここからだ。


私は次に発注する商品を何にするか悩んだり、メインディスプレイを梅雨をメインにするか父の日をメインにするか悩んだり、なかなか伸びないアクセサリーの販売方法を悩んだりしながら、最近見つけたお気に入りのテニスの王子様の夢小説を読んでいた。

悩んだりしながら読んでいたと言ってもそれはほんの最初だけで、夢小説を読み始めたが最後、私の意識は全て夢小説に向けられ悩み事なんて全て頭の隅に追いやっていた。

ふと携帯の時計を見ると、時間は既に夜中の11時を知らせており、最低でも8時間は睡眠時間が欲しい私は、急いでベッドに潜り込み眠りについた。




───


ジリリリリン

ジリリリリン

とどこかで電話の音が聞こえた。

それは決して機械的な音ではなく、昔祖父の家にあったダイヤルを回すタイプの電話の音にそっくりだった。

どこから音がするんだろうと思辺りに首を巡らすも辺りには見事に何もなく、“無”と言う言葉を表現するなら、これほとぴったりな場所はないだろうと思われる程に何もない真っ白な世界に私は1人ぽつりと佇んでいた。

 
 
見事に何も無いなぁ…なんて呑気に思いながら私はもう一度ぐるりと辺りを見回した。

そしてまた前を向くと、そこには私が思い描いていた通りの黒い電話が、妙に年期の入った木の台の上に乗っていた。

特に何も考えずに電話を取り「もしもし」なんて言った後に、もっと不信がって、切れるまで放っておけば良かったかも知れない。なんて思った。

『初めまして。私、トリップ推薦委員会の畠山と申します。え…っと。椋名前様でよろしかったですか?』

電話のスピーカー部分から聞こえてきた気の弱そうな男の人の言葉に一瞬目が点になった。

「ああ、はい。そうですが?」
なんて冷静に答えているが、実は頭の中は大混乱中だったりする。

トリップ?なんだそりゃ。なんて思っている間に電話口にいる人の名前をうっかり聞き流してしまったのだ。

まあ、呼ぶこともないから大丈夫だろう。と1人結論付けた。
『今回お電話させていただきましたのは他でもありません。
なんと椋様。
あなたは“テニスの王子様”の世界の住人になる事が出来るのです!』

ジャジャーンなんて口で言っちゃいそうなくらい高いテンションでなんちゃらさんは凄い事を言った気がするが、何せイマイチ現実味に欠ける内容だったものだから「…はぁ」なんて間抜けな返事しかできなかった。

そんな私を置いてけぼりにして、相変わらずテンションの高いなんちゃらさんは『それでですね』と話し始めた。

『今回トリップするにあたりまして、3つまで椋様の願いを叶えてさしあげることが出来ます。電話台の2番の引き出しに紙と鉛筆がありますので、何か願い事がありましたらご記入下さい』

そう言われて引き出しを開けて見れば、薄い青色の字で“トリップ推薦委員会”と小さく書かれたメモ帳と鉛筆が無造作に入っていた。

あえての鉛筆か。
しかもこの鉛筆…。削ってないんですが。
 

別に叶えてもらいたいような願いなんてないが、せっかく叶えてくれると言うのだ。何か書かなくては勿体無いと思う。
しかし肝心の鉛筆がこれでは、願いが有ろうが無かろうが関係ない気がする。

「あの、鉛筆が削れてないんですが」

『えっ!?あ、あー…。どうしましょう?』

なんて頼りないんだろう。なんて思ったのは当然で、私に聞くなよ。と心の中で思わずツッコミを入れてしまった。

「じゃあ、口で伝えましょうか?」

そう言った私になんちゃらさんは安心したように『はい、それでお願いします』と言った。

こんな人を雇って、トリップ推薦委員会とやらは大丈夫なのだろうか。本気で心配だ。

「じゃあ、何者も私に外傷を与えることは出来ない。でお願いします」

例えばテニス部のマネージャーになった場合。
いや、なるかどうか分からないけど。と言うかやりたくないのが本音だったりするのだが。
例えばなったとしたら、ファンクラブの方々からいじめを受けるのは夢小説では必須項目だ。
ドMでもない限り流石に痛いのはご勘弁願いたい。

『はい、残りの2つの願い事はどうしますか』

「特に無いんで、いいです」
無欲な自分に拍手を贈りたい。
が、それで納得しないなんちゃらさん。
なんちゃらさんは酷く焦った様子で『最強設定とか、世界一の美少女設定とか色々出来ますよ?』と言ってきた。

最強設定は面倒くさいそうなので興味もないが、世界一の美少女設定はなかなか心惹かれるものがある。

その容姿を生かして男共を私の虜にしかしずかせ、逆ハーレムを!!
ああ、良いかも知れない。

なんて思ったのは一瞬で、気づけば「いりません」と答えていた。

そう答えたのは、最近はまっている平凡なヒロインの夢小説が原因だ。

電話の向こうではなんちゃらさんが酷く気落ちした声で『そうですか』と答えた。
『次は通いたい学校を教えてもらえますか?』

「柿ノ木中でお願いします」

テニス部の癖にテニスもせずに日々早口言葉の練習に勤しんでいる馬鹿な彼を是非とも間近で見てみたい。

そして「テニスしろよ」なんて王道なツッコミをしたい。

そのうち飽きるだろうしテニキャラとの接触なんて皆無だろうが、それもまた一興だ。

『えっ…。すみません。もう少し有名な学校にしていただけませんでしょうか?』

どうやらマイナーな学校へは通えないらしい。
なんてサービスの行き届かない会社だろう。

だが、そこまで柿ノ木中に思い入れがあるわけでもないのでアッサリと諦め、六角を希望すれば『ありがとうございます』となぜかお礼を言われてしまった。

『それでは、その様に手続きしておきました。あ、トリップした時点で以前の世界での椋様の存在は自動的に消去されますので、どうぞ安心して第2の人生をお楽しみ下さい』

なんて明らかに怒っても良いような言葉をなんちゃらさんは言っていたのだが、私は「はい、頑張ります」と適当に返事をしていた。

だって仕方がないじゃないか。
この時私は、まだこれを夢だと思っていたのだ。
目覚めたらいつもの日常があると思っていたのだ。

朝自分の部屋で目覚め、自分より早い時間に目覚めた母がせわしなく動き回る音ををぼんやりと聞き、弟の行ってきますと言う台詞を聞き、のそのそと動き出した私はお昼の準備をする。
お弁当を作り上げ、朝ご飯を食べ歯を磨き、顔を洗い…。
そんな当たり前の日常があると思っていたのだ。

『はい、頑張って下さい。それでは失礼いたします』

なんちゃらさんの苦笑いと共に電話は切れ、私は、電話が切れたのを確認した後、受話器を本体に戻した。


そうして、私

椋名前

当日21才

梅雨も間近と言う時期にテニスの王子様の世界へトリップした。










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