芽吹き 壱

 この土地には神が宿っている
 幼い頃から周りの大人にそう教えられてきた。遠い昔、この土地を守ってくれた英雄が死して尚、この土地に根付き、この土地を、この土地に住む者を守ってくれているのだと。
 そんな逸話が残っているこの集落は、まるで人が踏み込むのを拒むように田舎町の外れの山々に囲まれた場所にあった。町に続く道はただ一つ。道は狭く、暗く、曲がりくねっていて、途中でアスファルトの道は途絶えている。その舗装されていないガタガタの道は、知らない人が見ればこの先に人が住んでいるなど一切思わずそのまま引き返してしまうだろう。
 今思い返せばそれは全てわざとであったのだ。
 それほどまでにあの地は異質だった。あの大地が、空が、空気が、人が──存在するもの全てが普通≠ナはなかった。それはまるでボタンを一つずつ掛け違えてしまったかのように、歯車の噛み合わせがずれてしまったかのように、何かが普通とは少しずつ違っていたのだ。
 五感に刻み込まれた記憶はいつでも生々しく蘇る。あの鬱蒼と生い茂る木々のざわめき。苔むす薫りが立ち込め、湿り気のある風が肌に吸い付く。目に映る色彩は全てどこか薄暗く、霞がかったように曖昧になる影と光の境界線。
 そして、何かに吸い寄せられる。まるでそれに惹かれることが定められているかのように。
 そうやって皆、その地に宿る神に祈りを捧げるのだ。
 人によっては不気味とも取れるこの異質の中に生まれ落ちた私にとってはそれが当たり前であった。普通≠ニいう価値観は日常によって刷り込まれる。そうして、私はすくすく異質に育っていった。
 ──そう、私もまた、周りの大人に教えられるまま神を信じ祈りを捧げていたのだ。

 神はトコヌシさま≠ニ呼ばれていた。
 物心ついた時にはトコヌシさまのところへお参りに行くことは習慣化していて、集落の一番奥にある神社へ足を運んでいた。
 赤ん坊の頃から母に抱かれて通っていたらしいけれど、初めて自分の脚でそこへ立ち入ったのは五つになった頃。両親に「そろそろ自分でトコヌシさまへご挨拶しましょうね」と声をかけられたことがきっかけだったと記憶している。
 神社の境内は小さな集落にあると言うのに立派な物で、幼心にもそこが神聖な場所だというのを理解していた。
 手水舎を通り過ぎ、本殿へ向かう。そこで形だけ手を合わせ、神主に「トコヌシさまへご挨拶に」と伝える母の足元で裏の山に続く古びた鳥居を眺めていた。
 補修をされているとは思えないそれは一体いつの時代に建てられたものなのだろうか。到底予想もつかない。そう思わせるほどの年季の入りようだった。
 私たちは神主の先導でそのひび割れ虫食いの穴が開いた鳥居をくぐり抜け、ちょうど足場になりそうな石を持ってきて積んだだけに見えるガタガタの石造りの階段を上っていった。
 ヂヂッ、とそばの茂みで何かが鳴き飛び立ち、肝を冷やした。それは虫の声なのか、鳥の声なのか、はたまた別の生き物なのか。それすら想像もつかない。
 空すらも覆い隠す森の圧力は、わざと怖がらせようとしているのかと勘違いしてしまうほど恐ろしかった。まるで、この森に足を踏み入れるにふさわしい人間か値踏みをされているようだった。
 現にこの森の空間自体が長い年月を経て、外部の人間を寄せ付けないように出来ていたのだ。全てはトコヌシさまを守るために。そう、森でさえも神の味方だった。
 日の光もろくに届かない薄暗いその場所で幼い私はひたすら息を詰め、ただ苔の張り付いた足元の階段だけを見つめて無我夢中で歩く。
 自分の握りこぶしほどしかないはずの心臓の鼓動が耳を圧迫するので、気を紛らわせるために上った階段の数を数えることにした。
 いち、にい、さん、しい、ごお、ろく、なな……
 数を重ねるごとに頭が真っ白になっていく。私は確実に追い詰められていた。着々と近づく何かによって。
「着いたよ」
 神主のその言葉にビクッと肩が跳ねた。あまりに息を詰めすぎていたので、どっと身体の中に酸素が流れ込んでくる。
 何も考えられなくなっていた思考が緩やかに動き始める頃には自分が数えた数などとうに忘れてしまっていた。
 神主はそんな私に指を差した。目の前に現れた岩肌。そこに大人がかがんで入るのがやっとの大きさの穴が開いている。
 この世の闇をすべて煮詰めてできたような漆黒から噴き出す冷気に、腹の底まで凍りついた。私はなぜだか、「殺される」と思った。何の根拠もないのに。
 まさか、今からここに入るのか。そんな恐ろしいことさせるわけないよね。
 そう同意に似た助けを求めるように両親の顔を見上げると、二人はなんてことない顔をして綺麗に笑っていた。
「怖いのか?」
「大丈夫よ」
 私は、そう声をかけ先を急がせる両親のことなどもう二度と信じるものか、と思った。
 これまで意識することなどなかった死≠すぐそこに感じるほど、その名前のない恐怖に追い詰められているというのに、今まで自分を大切に愛し育ててくれた二人が助けてくれないことに絶望したのだ。
 威圧にもとれる両親の笑顔を前に、私は涙を浮かべ断頭台に上る心地でその闇の中へ足を踏み入れた。
 ピチョン、と水音が其処彼処で反響している。外から見たらあんなに暗く思えた岩場の中は入り口から差し込む光のおかげで案外明るかった。
 洞窟のように奥に続いていくそこには石のつらら≠ェ垂れ下がっていた。そこはいわゆる鍾乳洞であった。
 補強された足場の外は薄く澄んだ水が張っており、ゆらゆらと灯りが反射して揺れている。ボコボコと隆起した岩肌に囲まれた様子は、自分の住む世界からかけ離れた別世界のような気がして何かの物語の中に迷い込んでしまったかのようだった。
 先ほど恐怖に追い詰められたことなどすっかり忘れて、私はその光景を興味津々で眺める。
「ここだよ」
 石灯籠が並ぶ先に鎮座した祠。「ここにトコヌシさまが祀られているんだよ」と神主が柔和な表情で語った。
 私はその祠の前で冷気で冷たくなった手を合わせ、目を瞑る。
 とにかくトコヌシさまにご挨拶しなくては、とお行儀よく自分の名を呟き、自己紹介を始めた。神さまへの挨拶のやり方なんて当然知らないので、年相応に幼い私は自分の年齢と身長と血液型と好きな食べ物まで告げて目を開いた。
 両親と神主は少し離れたところ何やら話し込んでいる様子だったので、私は目の前の祠を観察してみることにした。
 扉の中は真っ暗で何があるのかは見えなかった。トコヌシさまとは何者なのだろう、という疑問を晴らそうと思ったけれどそれは叶わなそうだったので早々に諦め、屋根の下に掲げられた額を見つめた。

 両面宿儺

 そう書かれている額。
 なんて読むんだろう。漢字は小学生になってからじゃないとわからないな。
 知らないものは知らないので、結局諦めるしかなかった。その文字への興味が逸れ、私は両親の元に駆け寄ろうと一歩踏み出した──その瞬間、耳元で小馬鹿にしたような笑い声が聞こえた。
「スクナ、だ。リョウメンスクナと読む」
「りょうめんすくな?」
 男の人の声だった。耳馴染みはよいけれど、鼓膜を震わせるような威圧に満ちた貫禄のある声。
 声の主は姿が見えない。不思議に思ってオウム返しで問いかけた私の声に、両親たちが血相を変えて駆け寄ってくる。
「名前を呼ぶなんて恐れ多い……!」
「絶対にその名前を口にしてはいけないよ!」
 トコヌシさま── 地主 とこぬしの神、 両面宿儺 りょうめんすくなの名を呼んではいけない、とキツく言いつけられて私の初めてのお参りは終わったのだった。


永遠に白線