芽吹き 弍

 その日は珍しくすっきりと晴れた日だった。冬の陰鬱な重たい空には、透き通った青が冴え渡っていた。
 私は何の変哲のない地味なセーラー服を身に纏う。三年間着古されてくたびれているそれにシワが寄っていないか姿見の前でくるり、と回って確認した。
「いってきます」
 手袋をはめた両手をコートのポケットに突っ込み、マフラーで顔の半分を隠し寒さから逃れる。足元の雪に沈む感覚を楽しみながら、私はトコヌシさまのとこへ向かった。
 いつもの朝。いつもの風景。
 何も変わらぬはず神社の境内は、幼いあの頃に見たものより少し狭くなったような気がする。目線が高くなったせいか、あの時感じた威圧感はまるで感じなかった。
 それはきっと毎朝ここに通っているせいで慣れたのだろうけれど、トコヌシさまに私という存在を許されたようでうれしかった。
 雪をかぶった鳥居をくぐり、気持ちばかり雪かきされた祠へと続く階段を転ばないように気を付けながら登って行く。鍾乳洞の入り口からは一等冷たい風が吹き抜けたけれど、あの時のように怖気づくこともなく、私は迷わず足を踏み入れた。

「もうすぐ受験なんです。特にやりたいことがあって選んだ学校じゃないけど、受かるといいな。……実は、公立の高校の中で一番制服が可愛いんです。ふふ、不純な理由でしょう?」
 祠の前で膝をついた私は定規縁の扉の向こうを見つめながら話しかけた。
 両面宿儺≠ニ名乗った声はあれから一度も私の問いかけに答えてくれてはくれないけれど、私はあの出来事がトコヌシさまの戯れであったのではないかと思い、めげずに語り掛けていたらまた答えてくれるのではないかという安直な考えで、日々のいろんなことを報告するのが習慣になってしまった。
 どんなくだらない些細なことでも話してきたし、親に言えないようなことも吐露し懺悔してきた。全てをさらけ出し、差し出すのは抵抗がある人間の方が多いのは理解できたけれど、私はその身を捧げているような感覚に言い知れぬ悦びを感じていたのだった。
「でも、そのくらいしか自分の意思、というか欲が見つからなくて。どの未来を選択してもこの土地で一生を過ごすのは変わらないのだから、他のことはどうでもいいというか……他のことに関心が向かないんです。私が死ぬまでトコヌシさまの元にいることは初めから決まっていることなので」
 定められた道だけれど、不満はない。私も私でトコヌシさまを信仰し、トコヌシさまの傍で生きて死ぬことに幸せを見出していたから。──だから。
「今日もどうか見守っていてください」
 そう手を合わせた私は山を下りる。町へつながる一本道。舗装も施されていない曲がりくねった下り坂を進めばちらほらと人の姿が見える。
 この町に一つしかない中学校に通う生徒には、この町に住む子供のほかに私のような町から離れた小さな集落に住む近くに学校がないような子供も含まれていた。
 学校が近づけば生徒の列ができており、その中に私も交じり校内に入る。下駄箱で上履きに履き替えて自分のクラスへ向かった。
 私は三年一組の教室に入ったところで、何故だか友達に肩を攫われ、おはようを告げる間もなく教室の隅に連れていかれた。
「どうかしたの?」
「もしかして、まだ聞いてない?」
「え。何を?」
 いつになく神妙な顔つきの彼女に問いかけると、傍の席にいたクラスメイトも間を割って入ってくる。
「ほら、この子の家、遠いから。まだ知らないのよ……」
「なるほど、どうりで……町の方じゃ一瞬で広まったもんね」
 もったいぶるような、躊躇しているようなそぶりで彼女たちはボソボソと言葉を交わしている。
 口に出すのも憚られるようなのことなのだろうか。秘密にしたいのならわざわざ私を呼んで話はしないはずなので、彼女たちの様子を伺いつつ言葉を待った。
「……また居なくなったのよ」
「居なくなった?」
「そう、隣の小学校の女の子が攫われたって」
「え……」
 ──また、女の子が消えた。
 この町では数年に一度、十歳前後の女子児童が失踪する。私が覚えている限りでは、小学三年生の時一つ上の女の子が。その二年後、三つ下の子がいなくなった。
 私の住む集落より人口は多いとはいえ、それでも田舎の狭い町だ。そんな場所で失踪事件が相次げば気味を悪がって外部の人間は近寄ろうとはしないし、出て行く人間は増え、より閉鎖的な町になっていく。
 警察は未解決事件として昔に起きた事件も追っているようだけれど、それをあざ笑うかのように定期的に失踪するものだからお手上げ状態らしく、住民も皆警察には期待していなかった。
 住民の間では神隠し≠ネのではないかと噂されていた。けれどそれは凶悪な事件ではなく、人智の及ばない奇怪な出来事なのだから諦めるしかないのだと自分たちが正気でいられるように言い聞かせているのと同じだった。
 追い詰められた末の自己防衛。仕方がないことなのかもしれない。なぜなら、失踪した女子児童は昔から一度として戻ってきたことはないのだから。
「アンタの隣の席、川原くんでしょ? 攫われた子、川原くんの妹なんだって」
「そう、なんだ……」
 幸い、と言っていいのかはわからないけれど、私と同学年で失踪した子はいなかったから安心していた。それなのに、まさか兄妹消えてしまったなんて……
 私の席の隣で沈黙を守り続ける彼を視線の端で捉える。「怖いわね」「かわいそう」と口々に言いあった友人二人はすごすごと自分の席に帰っていった。
 取り残された私もまた何と言えばいいかと考えながら席に戻るが、かける言葉など見つかるはずもない。
 その日は一日、隣の彼に話しかけることなく終わってしまった。受験前のこの時期になると授業もなくひたすら問題集と向き合うだけなので、無理に会話をしなければならない場面がなかったのだから寧ろ良かったのかもしれない。
 部活動もとっくに引退しているので放課後はすぐ帰宅する。友人たちは皆「塾があるから」と家に帰らずそのまま学習塾へと向かう。
 私は塾に通うほど偏差値の高い高校を狙っているわけではないので自宅での勉強になる。ただでさえ家が遠いのに夜遅くまで塾で勉強して帰宅するのは身が持たないと思っていたし、それで寝坊でもすればトコヌシさまにお参りする時間まで奪われてしまうのは嫌だった。両親もお金と時間がもったいない、という意見だったので強制されることなく、受験三日前までやって来た。
 私は友人たちと下駄箱で別れて、裏門から帰ろうと校舎裏へ向かった。
 本来なら正門から出るようにと決められているがこちらから出た方が近道なので、時々こうしてこっそりと裏門を利用している。
 今はもう使われていない古い校舎の横を通り過ぎると、誰もいないはずのそこから物音が聞こえ心臓が跳ねた。建物の中はやけに薄暗く、窓ガラスも曇っていて中の様子は見えない。
 失踪事件が起きたと聞かされたばかりで神経質になっている部分もあるのだろう。私は物音の正体を確かめるべくそっと息を殺し、傾きかけた扉の古びた取っ手に手をかけた。
「あ……」
「こんなところで何してるの?」
「そっちこそ」
 物音の正体。それは隣の席の彼──川原くんだった。
 埃で汚れていることなど気にもせず床に座り込んでいる彼の顔を見て、しまったと心の中で頭を抱えた。目も赤い、声も籠っている。間違いなくここで隠れて泣いていたのだろう。
 教室では声を掛けられなかったくせに、こんな空気の読めないタイミングで声をかけてしまうなんて。
 気まずいけれど、ここで黙ってしまったらもっと気まずくなってしまうので、彼が泣いていたことには気づかなかったフリをして会話を続けた。
「ときどき、裏門を使って帰ってるの。こっちの方が家、近いから」
「……そっか」
「受験前に怒られたくないから、先生には内緒にしてね」
 肩をすくめてわざとらしく怖がる仕草が面白かったのか、彼は少しだけ薄く笑った。その様子に少し安心した私は彼の手の中にあるビラの束を見つめた。
 探しています
 その大きな見出しの下では女の子が笑顔でピースしている。恐らく、この子が川原くんの妹なのだろう。
 じっと見つめる私の視線に気づいたのか、彼はそれを一枚手に取ってしばらく眺めた後、私に手渡してきた。
「……いいの?」
「うん。逆にもらってほしい。親に周りの友達に配れって言われたけど、未だに信じられないんだ。妹が……アヤがいなくなったなんて。だから渡せなかった」
「…………」
 きっと大丈夫、アヤちゃんは無事だよ。元気出して──だなんて無責任な言葉をかけられるわけもなくただ渡されたビラを見つめることしかできなかった。
 身長135センチ、顎の下くらいの長さでおかっぱの髪型、右手の親指の付け根に大きなほくろ、灰色のパーカーにデニムのショートパンツに黒のタイツを身に着け、そしてピンクのスニーカーを履いた九歳の女の子。
 事細かに書かれたアヤちゃんの身体的特徴から、居なくなったその日着ていた服の詳細まで目を通す。「心当たりのある方はご連絡ください」と連絡先である電話番号で絞められたビラ。たった紙一枚。けれど、この一枚を彼の両親はどんな思いで作ったのだろう。
 ただの奇怪な事件として終わらせるのは彼女や残された家族の気持ちを思うとあまりにもやるせなかった。他人事で終わらせてはならない、周りの空気に流されてはいけない、と自分の中に眠っていた正義感が顔をのぞかせた気がした。
「ありがとう」
 忘れていた何かを思い出した気がして、彼にお礼を言った。彼はなぜ感謝されたのわからないといった様子であいまいに頷いていた。
 もらったビラを丁寧に鞄へしまう。埃っぽい空気を吸い込み、私はそのまま外に出た。


永遠に白線