宵祭り・裏 壱







 気づけばいつもより、寮内が静かだった。今日は同級生たちが任務でいないらしく、先輩たちの姿も見当たらない。
 静寂が支配する空間。だからこそ余計に、背後について回る足音がやけに耳についた。

「あの、さっきから何なんですか……?」

 大きな影の中、足を止める。そのシルエットが誰のものか当たりをつけ、そろり、視線を後ろに向けた。

「部屋までついて来られると流石に怖いです。五条さん」
「ん〜? 強いていえば監視、かな」

 私は「監視?」と彼の言葉を拾い上げ、訝しげに眉を顰めた。
 今さら監視される理由はなんなのだろうか。その疑問を眼差しに込めて、彼を見上げた。黒い目隠しに覆われた瞳の色が読めない。
 何を考えているのか分からず、口を開こうとしたその矢先、彼はおちゃらけた口調で大袈裟に両手を叩いた。

「と、言うのは冗談で、今日は野薔薇たちいないでしょ? 寂しくないかな〜っていう僕の優しさ」
「別に寂しくはないですけど……」
「まぁたまた〜!」

 五条さんは、戸惑いがちに答える私の背を遠慮なく叩いた。「暇ならついといでよ」と進行方向を変えた。
 五条さんの言う通り暇だった私は、彼のおどけた様子にやや不審な視線を向けたけれど、同級生たちがいないことは事実なので曖昧に相槌を打ち、彼の後ろをついて歩く。

「……でも確かに野薔薇たち、最近三人の任務が多いですね」

 一級への昇級の声がかかったのも、先日赴いた三人での任務の功績を買われたからだと聞いた。
 査定中は既に一級の術師と数回任務をこなして、認められれば準一級になれるらしい。詳しいことは分からないけれど、そう教えてくれた伏黒くんの言うとおりならば、今回も三人でその準一級になるための任務なのだろう。

「今日はどこに行ってるんですか?」
「ん〜、歌姫んとこ」

 何気なしに聞いた私に、五条さんは含みを持たせた間を置き、そう答えた。
 彼の口から出た名前は、確か京都校で教師をしている人だったか。交流会の時期は、当の私が精神的に限界でいろいろと問題を起こしてしまったせいで、京都校の人とは直接の面識がない。
 あの時は虎杖くんの殺害計画が企てられたり、呪霊の襲撃があったり、なかなかに大変だったらしいけれど、学生らしくスポーツで親睦を深めたらしく、聞く限りは楽しそうだったので私もちゃんと会ってみたいと思っていた。高専の生徒として身を置くことになった以上、これから会う機会があるだろうか。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、五条さんは自身が持たせた含みについて、私が考え込んでいると思ったのだろう。なんとなく言いにくそうに、彼らが抱える事情を切り出した。

「ちょっとわけありでね。君にはまだ言えないんだけどさ。あの三人が裏どりしてくれたら、君も白だと確定できるからいろいろ教えられると思うよ」
「……その言い方、私何か疑われてます?」

 白だと確定できないということは、現時点で私はグレー、もしくは黒ということだ。何について疑われているのか、考えてみるが思い当たらない。
 今はとにかく私の有用性を示すべく、高専側の役に立つことをしようと決めている。そんな状況なのに、敵に回るようなことをするわけがない。
 眉根を寄せ、難しい顔で五条さんを見上げる。彼はそんな私の様子に長いため息を吐いた。

「別に君だけじゃない。ただ可能性があるってだけ。だって君、宿儺側の人間だし、ふらっとどこかいなくなるし、客観的には怪しさしかないからさぁ」
「う、そう言われると何も反論できないです……」

 今のところ、私は五条さんの好意でここに身を置けているようなものだ。それを取っ払い、第三者から見た場合、あまりに黒すぎる。
 私が白になることはあり得るのだろうか。無実なのに濡れ衣を着せられ、宿儺さまと引き離されるのは御免だ。
 歩みを止めずに談話室に入った五条さんは、極めて冷静に言葉を紡いだ。

「心配しなくても大丈夫だよ。悠仁たちに任せておけば問題ない」
「……分かりました」

 私はしぶしぶながらも頷いた。
 三人が頑張っている時に私は何もできないなんて。それも私にも関わりがあるかもしれないことで。だからこそ除外されているのはわかっているが、やはり疎外感は否めない。
 そう押し黙っていると、五条さんは揶揄うような口調で「やっぱり寂しいんだ」と私を覗き込んだ。

「僕が言いたいのはさ、この前の八十八橋の件もだけど、わざと仲間外れにしてるわけじゃないってこと。だから別に深く考えなくていいんだよ」
「……分かってますよ。それにあの時は私も真希さんたちと一緒でしたから、寂しくなかったです」
「ああ、あの仮想怨霊の宿儺の件で里帰りした時ね……って里なくなってるんだっけ!」

 デリカシーのない最悪のブラックジョークをかました五条さんに、私は何も言えずジトリと抗議の視線を送った。
 先ほどまで気遣ってくれているのかと思っていたのに、今ので全て台無しだ。ため息を吐いて、ソファに腰掛ける。

「テンション低いねぇ」
「まだ笑って済ませられるほど過去にできてないので……」

 故郷がなくなってしまった原因が私にある以上、笑って済ませられる日など来ないだろう。あれは私が背負わなければいけない罪だ。
 それでもどうしようもないことに、私はどこかで赦されたいと思っている人間で、これから先私が行う善行は罪滅ぼしという自己満足で心を繋いで生きていく。それで赦されていいはずはないのに。
 生きている限り、完全な安らぎが訪れることはない。それを五条さんも分かっているのだろう。隣に座った彼は、両手を背もたれに投げ出し、長い足を組んだ。

「ここは君が選んだ地獄なんだ。地獄は地獄なりに自由に生きなよ。未来ある若者なんだからさ」

 今いる場所でどう生きるべきか。私はこれにちゃんと向き合っていかなければならない。
 口を噤んだ私を見て、五条さんは喉の奥で笑う。そして徐にテーブルの上に置かれた土産物の菓子に手を伸ばした。

「ま、これでも食べて元気出しなよ。そんなに難しい顔してないでさ」

 包装を開け中身を摘み出すと、そのまま私の口に突っ込む。
 私は滑らかな舌触りのそれを咀嚼し「温泉饅頭ですか?」と問う。五条さんは首肯しながら「どう? 美味しい」と首を傾げ、完全に無味なこし餡を飲み込む私を覗き込んだ。
 
「実は、謝らなければいけないことが……」

 五条さんは度々土産のお菓子を私にくれる。それはきっと私がここに来たばかりの時に、反応を見せていたからで、甘いもの好きとでも思われてるのだろう。
 正直なところ、ストレスのせいか希死念慮のせいかは分からないけれど、一部の感覚を失った私にとってかなりありがた迷惑だったが、まだ心を許していない相手に事情を説明するのが億劫だったため、断りきれないまま今に至っている。そのため、彼は今でも本当のことを知らない。

「味、しないんです」

 まだ口の中に残る食感だけを噛み締め、ポツリ、そう呟く。
 五条さんはポカンと口を開けた。

「え? なんで?」
「さぁ……?」
「いつから?」
「五条さんに宿儺さまが死んだって嘘つかれた後からです」
「…………」
「…………」

 首を傾げた私は瞳を隠した彼と見つめ合った。思考が停止しているのか、言葉を失っているのかよく分からない奇妙な沈黙が過ぎ去るのを待つ。
 ようやく息を吸った五条さんの「はぁ!? 前すぎない!?」という大声に軽く耳を塞いだ。

「なんですぐ言わないのさ」
「あの時、まだ五条さんのこと嫌いでしたから。嘘つかれたので」
「言うねぇ」

 ヒクリ、と表情を引き攣らせた五条さんは、アイマスクを取り細く歪めた目元を晒した。

「それ、何で今教えてくれたの? 黙ってたってことは言わないつもりだったんでしょ」
「考えを改めた、というか……今は信用してるから、ですかね……?」

 たしかに、言われてみれば、と考え込む。
 顎に手をやり首を捻ったけれど、すぐに真っ直ぐに彼の眼を見つめた。

「五条さん、真摯に向き合ってくれるから私も同じように向き合いたい」

 初めは真実を突きつけるだけ突きつけて、ただ私の心を殺しただけの人だった。それでも、この数ヶ月共に過ごす中で、彼は彼なりに私のこと考えてくれているのだと知った。
 この呪術高専の中で今、こうして宿儺さまの近くに身を置くことができているのも、監禁されるでもなく生徒として生活できているのも、全部五条さんのおかげだ。本当に感謝してもしきれない。
 だから私は、彼が向き合ってくれた分、何か返せるものがないかを探している。

「信用はしてるのに救わせてくれないんだ」
「それとは話が別ですよ」

 眉根を寄せ、不貞腐れたような顔で言う五条さんに小さく笑い、改めて口を開いた。

「ちなみに、味覚の他に痛覚もほぼありません」
「はぁ?!」
「宿儺さまに殺されかけた時も別に痛くはなかったですよ。だから心配しなくても大丈夫です」
「ハァ〜〜〜〜〜〜」

 先日穴が空いた自分の腹を撫でる私に、五条さんは長い長いため息を吐き、背もたれに重心を預け、天井を仰ぎ見た。

「実は今回のことで総監部にちょーっと怒られちゃったんだよね」
「それは……ほんとに申し訳ないです」

 宿儺さまによって高専敷地内の一画が破壊されているし、宿儺さまが出てくること自体もよく思われないだろう。原因の私はさておき、宿儺さまを抑え込んでいる虎杖くんまで器としての機能性を疑われ、迷惑をかけてしまっているはずだ。それをまた五条さんパワーでなんとかしてくれたのだろう。
 身を竦ませ頭を下げる私に、五条さんは「なぐさめてくれてもいいんだよ〜?」と間延びした声を上げた。

「何したらなぐさめになりますか?」
「へぇ? 何してもいいの?」
「まぁ、よほど嫌なことじゃなければ」
「例えば?」
「ええと……そうですね、宿儺さまと引き離されるとか?」
「まったく、君はブレないねぇ」

 諦めたように肩を竦めた五条さんは、そのまま脱力し私の膝の上に雪崩れ込んできた。

「ほーんとトラウマになりそう」
「トラウマ?」
「そう。君の存在自体がトラウマだ」

 私の足を枕にした彼は真っ直ぐに見上げてくる。

「いつ死ぬかなんて分からないこの世界で、長生きしろとは言わない。けど、全てを投げ出すにはまだ早いとは思わない?」

 私達は利害関係に着地したと言えば聞こえはいいが、私はまだ何も利にはなっていなければ、彼もまたこうして私に情をかけ最低限、私が五条さん達の考える真っ当な道に戻れるように引き止めようとしている。
 考えを変えるつもりは毛頭ないけれど、それを完全に切り捨てるのは心苦しい。だからせめて、と思うのだ。

「自分がここで何をしたいか、ようやく見つけられたんです。それを成し遂げるまではお世話になります」
「へぇ。何がしたいの?」
「……恩返し、です。優しさには優しさで返したい」
「僕からの恩は高いよ。百年かかったって返しきれない」

 五条さんは伸ばした手で私の喉元に触れた。つ、と指先を這わせ、軽く締めるような仕草で首を掴んでは、パッと手を離す。

「だから、早々に死ねるなんて思わないことだね」

 不敵に笑う彼に、どんな顔を向けていいか分からず唇を結んだ。

「通報しますよ」

 聞き慣れない声に顔を上げる。部屋の入り口には淡いスーツを身に纏った金髪の男性が立っていた。
 五条さんは体勢はそのままで、頭だけ男性へ向けた。髪の毛が内腿をくすぐり、小さく身を捩る。

「七海じゃん、遅かったね」
「いいから早く起きてください。淫行罪で訴えられたいんですか」

 眉間に皺を寄せ、鋭い眼光を向けられた五条さんは、特に気に留める様子もなくふらりと立ち上がると、彼の肩に腕を回した。

「七海建人一級術師、僕の後輩」

 ああ、彼が。と思う私をよそに、七海さんは「やめてください」と五条さんの手を払いのけた。
 私は心底嫌そうに顔を歪めている七海さんへ頭を下げる。

「はじめまして」
「はじめまして。五条さんに何かされたら呼んでください」
「ありがとうございます。お世話になります」
「お世話になるの!?」

 予想外の答えだったのか五条さんは素っ頓狂な声を上げた。私はそれを横目に、肩を竦め、七海さんに語りかけた。

「虎杖くんから七海さんの話たくさん聞いてます」

 七海さんと虎杖くんの出会いは虎杖くん死亡中≠フ期間だったらしい。まさに私が宿儺さまも一緒に死んだと聞かされ、絶望していたあの時だ。
 密かに修行していた虎杖くんは、七海さんと同じ任務に就き、術師として大きく成長した。良いことばかりではなかっただろうに、彼から学んだことを楽しそうに話す快活な横顔を覚えている。

「良い話だといいんですが」
「もちろんですよ。七海さんの話をする時は、いつもナナミンはすごい!≠チて言ってます。……私は五条さん達みたいにいつも高専内にいる人以外との関わりがあまりないので、実際にお会いできて嬉しいです」
「ハードルが上がっている気がするのは虎杖くんのせいと言うべきか、おかげと言うべきか……期待以上のものは出ないと思いますが、よろしくお願いします」

 礼儀正しく一礼する七海さんに慌てて頭を下げる。その横でつまらなそうに口を尖らせていた五条さんは、ハイハイと両手を叩き、場を仕切り直した。

「二人には一つ、任務を頼まれて欲しいんだよね」
「私もですか?」
「それがなんと、君が主役だよ」

 驚いて目を丸くする私をビッと指差した五条さんは、テーブルに置かれていたタブレットを手に取り、画面を操作する。そのまま私にも見やすいように画面を向けると、とある資料を開き病院の写真を見せた。

「ここ、突然呪霊の被害報告が増えてね。原因が何かは分からないけど、明確なのはそこには呪霊発生を抑えるための呪物が封印されていたこと。……どっかで聞いたことあるような話でしょ」

 確かに身近に聞いたことのある話だ。五条さんが何を指しているか察しのついた私はあ、と声を上げた。

「まさか……」
「そのまさかだよ」

 彼は口元に含みのある笑みを浮かべた。

「──恐らく未回収の宿儺の指だ」

 まだ見つかっていなかった宿儺さまの指がここにある。私は食い入るように写真を見つめた。

「じゃあ、それを取り込んだ呪霊がいるかもしれないってことですか?」
「確かに。そうだとすると、少年院の事例に似ていますね。等級もかなり上がっているのでは?」
「そこを君らに探ってきてほしいわけ。呪霊の被害と特級呪物の絡んだ案件を補助監督や窓だけに任せるのは心許ない。一級の七海なら現場での判断もこの子の監視も任せられるし、君も宿儺の指を所持していた経験を活かして捜索に協力すれば僕らの役に立てる」

 いい考えでしょ、と得意げに言った五条さんに首肯する。
 宿儺さまに関連することは知っておきたいという点と、五条さん達の役に立てるという点が同時に両立できる。まさに一石二鳥だ。
 やらないという選択肢はない。私は気合いを入れて「頑張ります」と決意表明を示し、手を振る五条さんに背を向け、七海さんの後に続いて部屋を出た。









永遠に白線