渋谷事変 漆







 闇に包まれた都会の街並み。救急車の赤いランプにチラチラと照らし出された異様に伸びる影。現実味のないその光景に眩暈がする思いだった。
 帳の外に待機していた補助監督の連絡網は壊滅している。呪詛師による襲撃で出てしまった数多の死傷者は、救急隊に運ばれる者と硝子さんの元で即座に治療を施さなければならない者とに分けられた。
 帳の外もまた戦場と化している。あらゆる指示が飛び交う中、反転術式での治癒を優先された補助監督を連れて硝子さんのいる救護所に戻ると、重苦しい空気が立ち込めていた。

「真希、さん……野薔薇……?」

 横たわる二人の前で立ちすくむ。苦しげな呻き声を上げている真希さんと、ピクリとも動かない不気味なほど静かな野薔薇の様子に、愕然と言葉を失う。
 力の入らない足取りで一歩、彼女たちに近づくと、それを阻止するように肩に手が置かれた。

「真希さんは重体、釘崎はもっと酷い。一般医療では死亡扱いだ」

 恐る恐る見上げると、悔しさを滲ませた表情の伏黒くんが立っていた。私は縋るように彼へ問いかける。

「……その言い方、助かるってこと、だよね?」
「分からない」

 そんな、と口から零れた私を前に、目を伏せた彼はギュッと唇を噛んだ。
 
「京都の一年の術式で現状維持できているだけでも奇跡だ。この後どうするかは家入さんたち次第だ」

 伏黒くんの視線につられ、救護所内の隅にいる硝子さんへ目を向ける。京都の一年と思しき学生から現場の報告を受けている学長たちと彼女は「七海が死んだか……」と煙草の煙を吐くように静かに呟いた。
 あの一級術師の七海さんが死んだ。渋谷に来ていた術師の中でも上から数えた方が早いほどの実力者であったことは間違いない。
 それでも、人は簡単に死ぬのだ。

「伏黒くんは、大丈夫なんだよね……?」
「……ああ、納得いかないけどな」

 触れ合った肩が、悔しさからか微かに震えていた。視線を落とすと彼の手は硬く握られていた。

「お前が無事だったのがせめてもの救いだ」
「……宿儺さまに助けてもらったから」

 裏梅さんの名前を出すか迷ったが、裏梅さんもまた宿儺さまに命じられていたのだから間違いではない。
 複雑な思いで口を噤むと、彼は何も言わずに外へ出る。私もその後に続いた。

「虎杖たちはまだあの中で戦ってる。今無傷と呼べるのは宿儺に助けられた俺たちだけだ。……この際誰に助けられたかはどうでもいい。できることをするしかねぇ」

 伏黒くんと一緒なら怪我人を連れて離脱するくらいは難なくできる。
 帳を見上げ決意を固めた彼に、私は確かに頷いた。

「分かった。私も行く」
「駄目だ」

 空気を断つような強い否定に振り返ると、学長たちが追いかけるように外に出てきた。

「二人ともここで待機だ。今の渋谷で戦うのは一級でも厳しい。前線で戦っている者が退避できるよう他の術師が援護に向かっている」

 学長の言葉に、私たちは顔を見合わせ押し黙った。
 判断を誤ってこれ以上、死を積み重ねたくはないのだろう。その決断を振り払えるだけの実力を私は持ち合わせてはいない。

「重傷者を先に高専へ移送する。手伝ってくれるな」
「……はい」

 硝子さんに促されれば、頷くしかない。
 そうして用意された車両に野薔薇たちを運び込み、高専へ戻る。その間も渋谷の戦況は悪化の一途を辿っていた。五条さんが封印された獄門疆は持ち去られ、大量の呪霊が放たれた。詳細な数はまだ特定されてはいないが、都内が壊滅してもおかしくない状況だという。
 夜が明ける頃には状況報告のため夜通し戦いっぱなしだった皆が帰ってきた。
 しかし、その中に虎杖くんの姿はなかった。





 疲労が溜まっているはずなのに一向に眠くならない。一度寝ろ、と寮に押し込められたのは良いものの、結局寝付くことができず外に出てきてしまった。
 校舎へ続く一本道をどこかふわふわした足取りで歩いていると、背後からおーいと呼び止められる。

「パンダ先輩!」

 戻ってきてたんですね、と駆け寄ると、パンダ先輩は鷹揚に頷いてから眉を下げ私を覗き込んだ。

「大丈夫か? 虎杖のこと心配してるって聞いてな」
「虎杖くん、帰ってきましたか?」
「いや、未だに単独行動だな。……まぁ、付き添いはいたけど」

 ポリ、と長い爪で頬を掻いた彼は「命に危険はないんじゃないか」と何かを思い出すように言う。
 私は神妙な面持ちのまま、眉根を寄せた。

「無事ならいいんですけど……このまま戻らないんでしょうか」
「虎杖の気持ちになってみろ。戻りたいとも言えなくなってるんだろ」
「……」

 私は完全に宿儺さまと虎杖くんを切り分けて考えている。しかし、渋谷で宿儺さまが出した被害を自分のこととして捉えているであろう虎杖くんの心境は、想像であっても痛ましく、高専の皆に顔向けできないと考えているのだろう。
 自責の念を抱える気持ちはよく理解できる。けれど、虎杖くんは何一つ悪くないのも事実。
 どうしたら一番良いか、と口にしようとした刹那、音もなく複数の和装の男たちに囲まれる。

「な、何?」

 呪詛師かと思ったけれど、ここは高専の結界内だ。こんなに多くの侵入を許すだろうか。いや、この混乱に乗じて何かしらの対策をしてきたのだろうか。交流会時に呪詛師襲来の前例もある。
 そう考えながらも身構える。その横でパンダ先輩が唸るように呟いた。
 
「厄介なことになったな」
「この人たち、何者なんですか……?」
「上層部の手先だ……!」

 確かにそれなら結界があっても問題ない。たとえ誰かに見られたとしても増援だと思われ、不審がられはしないだろう。
 小声で会話する私たちをよそに号令がかかる。

「取り押さえろ! 命令通りまだ殺すな!」

 まだ、ということはいずれは殺すつもりなのか。
 そう声を上げようとした瞬間、隣にいたパンダ先輩が吹き飛ばされた。それに気を取られていると、背後から腕を掴まれる。抵抗すると数人がかりで羽交締めにされ、後ろで両手を拘束された。

「何で、こんなこと……っ!」

 パンダ先輩も少し離れた場所で地面に伏したところを囚われている。
 私たちが彼らに何をしたと言うんだ。到底納得できないことを訴え、睨みつける。
 しかし、返ってきた答えは予想外のものだった。

「総監部からの通達に基づき、虎杖悠仁の死刑執行後、両面宿儺の祓除が確認でき次第、速やかに貴様の死刑を執り行う」
「は……?」







       ◇◇◇







 狭い牢の隅で膝を抱え、顔を埋める。カビ臭さにもこの数日で慣れてしまった。
 暗くなった視界の中で閉じこもるように目を閉じる。そうやって考えるのは、あの後聞かされた通達の全容のことばかりだった。
 五条さんも学長も犯罪者扱い。五条さんのおかげで執行猶予がついていた虎杖くんの死刑が適用されることとなり、死刑執行後宿儺さまの影響がないと分かれば私を生かす理由もない。そう考えれば自分自身の死刑宣告も筋が通っていると納得できた。
 怖いと少しも思わないのは、宿儺さまが死ぬことはほぼないと確信しているからだ。虎杖くんが一度死んだとされた時も生きていた通り、宿儺さまが中にいる限り二人とも死ぬことはない。ならば必然的に私の死刑が執行されることもない。
 それ以前にこんなところで死ぬ気など毛頭なかった。ここで死んでしまえば、勝手に死のうとするなと言ってくれた宿儺さまに顔向けできない。
 心配なのはパンダ先輩だ。彼は恐らく学長関連で囚われている。そして、このことを皆が知っているかどうかだ。
 自力では出られないこの場所からどうやって抜け出すか。一番可能性が高いのは、誰かに助けを求めること。けれど、人一人やってこないこの場所で簡単に仲間に接触することもできなければ、幾多の呪符によって封じられている座敷牢を中から破壊することもできない。

 どうするべきか頭を悩ませていると、コツリ、コツリ、と微かな足音が近づいてくる。微かな希望と緊張に身を竦ませた私は、すぐ傍で立ち止まった気配に、そろりと顔を上げた。

「誰、ですか」

 錆びついた柵越しに目が合う。漆黒の瞳は何を考えているのか読み取ることさえ困難な恐ろしさがあった。

「乙骨憂太、って言っても分からないよね。初めましてだもん」
「いえ……二年生の特級術師で海外に行ってたって」
「よかった、知ってるんだ。それなら話は早いね」

 彼は意外にも柔和な笑みを浮かべ、檻越しに膝をついた。
 白色だったせいで気が付かなかったが、高専の制服を着ている。
 彼があの乙骨先輩か、と改めて視線を向ける。伏黒くんが尊敬していると言うだけあって、確かに優しそうで安心できそうだ。
 ギギギ、と音を立て、いつのまにか牢の扉を開けた彼は、こちらへ手を差し伸べた。

「出れる?」
「……いいんですか?」
「もちろん。その代わりと言ったら悪いけど──」

 ぐいっと腕を引かれ、外に出された私の口元に布が回る。

「外に出る前に少し寄り道していいかな」

 猿轡を噛まされた私は、後ろでキツく布を結ぶ彼の言葉に息を呑んだ。
 乙骨先輩は味方ではなかったのか。張り詰めた緊張に喉を鳴らすと、彼は眉を下げ「ごめんね」と謝ってから、私の視界を塞いだ。





 目隠しが外されたのは、少し歩かされた先でのことだった。
 暗がりに怪しい光が灯る異質な空間。六枚の障子戸が円を描くように私たちを囲んでいた。
 乙骨先輩は障子の向こう側にいる影に向かって冷たく言葉を放っている。

「五条先生の教え子とか関係ないですよ。彼は渋谷で狗巻くんの腕を落としました」

 ハッと顔を上げた。虎杖くんがやったのではない。狗巻先輩が腕を欠損したのは間違いなく宿儺さまの戦闘に巻き込まれたからだ。
 声を上げて否定しようとしたが、猿轡によってくぐもった呻き声にしかならない。

「虎杖悠仁は僕が殺します」

 その気迫に足が竦む。
 へたり込みかけた私は、少しも威圧を解こうともしない乙骨先輩の手によって支えられた。

「それにはどこかに潜伏している彼を探し出さなければならない。彼女なら虎杖悠仁、いや彼の裡にいる両面宿儺を探すのに打ってつけじゃないですか」

 彼と障子の向こう側から一身に注がれる視線が、恐ろしくて仕方がない。けれど私に拒否権などあるはずもなく、彼によって即座に処遇が決まった。

「虎杖悠仁死刑執行役の権限で彼女を使わせてもらいます」

 文句はないですよね、と問うた彼に、反論する者は一人もいなかった。


















永遠に白線