渋谷事変 伍














 首都高速三号渋谷線の上。真っ直ぐに伸びたこの高架道路の先に硝子さんがいる。
 ずるり、と背中から落ちかけた補助監督を背負い直す。気を失っているが、目立った外傷はない。脈も呼吸もある。きっと高架下の隅に倒れたおかげで、落下物にも巻き込まれずに済んだのだろう。
 よかったとまずは胸を撫で下ろしたけれど、この破壊されたビルの残骸が転がる茨の道を急がなければならない。私が六本木通りに出た時には、宿儺さまたちは既に別の場所に移動していたようだったが、残された破壊の跡は凄まじいものだった。
 私は真っ二つになった渋谷警察署を横目に足を進める。瓦礫の山を踏み越え、半壊しているコンクリートの上を歩き、ようやく半分ほど進んだ時、目の前に人影が立ちはだかった。

「その制服……あのガキ共の仲間か」

 私を一瞥した中年の男は、自身の身体に巻き付いたワイヤーを解きながらそう言った。
 言動から補助監督でも窓でもないのは確かだ。それにあのワイヤーは呪具で間違いない。あれを使ったのは真希さんか、彼女から教わった高専の学生の誰かだろう。それならガキ共≠ニいう発言にも辻褄が合う。
 私は男を敵と見なし、背負う彼女を支える腕に力を入れる。

「そうだと言ったら退いてくれますか?」
「そんな甘い話あると思うか? やられ損は癪でね。腹いせにと言っちゃなんだが、ここでアンタを殺せばアイツらは俺らと同じく大事なものを失うことになる」
「……貴方の大事なものって?」

 大した興味も持ち合わせていないけれど、男に問いかけた。またしても時間を稼ぐことしかできない自分が嫌になりつつ、どう切り抜けようかと思考を回す。
 彼女を置いて戦ったとしても勝算もなければ、彼女を人質に取られるリスクもある。だからといって、このままではどうやっても動けない。
 内心焦りながら、私の質問に「自由」と端的に答えた男を見据えた。

「八つ当たりはよくないと思います」
「ハッ、上等だ。こういうのはな、最後の最後まで足を引っ張ってなんぼなんだよ。覚えておきなお嬢ちゃん」

 一歩ずつ距離を詰めて来る男に、精一杯睨みを効かせるがもちろん怯む様子はない。

「本当は焦ってるんだろ。怪我人を庇って戦えるほどの技量はないと見た。なんならさっきのガキより弱いな?」

 それなら、と拳を握った男は、真っ直ぐに殴りかかって来る。
 息を呑んだ私は咄嗟に身構える。瞬間、目の前が白く染まった。

「なっ──」

 冷気と共に視界が晴れると、目の前の男は氷に覆われていた。
 何が起こったのかと周囲を見渡すと、美しく揺れる白髪を顎の位置で切り揃えた人物がゆっくりとこちらに近づいて来る。

「お怪我は」
「え……いえ、ないです」

 敵か、味方か。状況からして味方なのだろうか。ともかく助けてもらったことには変わりない。私は足元に補助監督を下ろし、深々と頭を下げた。

「助けてくれてありがとうございます。でも、なんで……」

 チラリ、と窺うように見上げると、相手は無とも取れる表情を崩さずに淡々と述べた。

「宿儺様から、貴女が危険に晒されていたら手を貸すようにと」
「宿儺さまが……」

 宿儺さまの名前が出たことに胸を撫で下ろす。彼の頼みに忠実な相手を疑おうとは微塵も思わない。
 肩に入った力が抜けた私は、今もなお戦いを楽しんでいるであろう宿儺さまの気配がする方向を仰ぎ見る。

「お礼を言わないと」
「ええ、そのように」

 そう相槌を打った相手は、すっと頭を垂れる。

「申し遅れました。宿儺様にお仕えしている裏梅と申します」
「裏梅、さん……?」
「はい」

 男性なのか女性なのか分からずそう呼びかけると、何も指摘されることなく返事を返される。どうやら、さん呼びなら問題ないらしい。
 あの、と聞きたいことを口にしようとした刹那、空気が変わる。崩壊の音さえ自重するような、張り詰めた緊張感。

「領域展開されたのでしょう」
「宿儺さまが、ですか?」
「ええ。ここは距離から見て領域の範囲外になるので問題はないかと、」

 そう言いかけた裏梅さんは、ぐいっと私を引き寄せた。

「わっ……!」

 もつれた脚のまま裏梅さんの腕の中に飛び込んだ私は、袂で頭を守られる。

「氷凝呪法、霜凪」

 落ちてきた破片を粉々に散らした裏梅さん。私は風が止むとそっと顔を覗かせた。
 ビルの谷間から覗く炎の柱。あの下で人智を越える破壊が行われているというのに、恐ろしいより先に出た感情。

「──綺麗」

 目が離せない。心を奪われたと言ってもいい。
 ただただ美しいと思う己は可笑しいのかもしれない。けれど、神がかった圧倒的力に畏怖する者もいれば、魅了される者もいる。私は間違いなく後者だ。
 ふ、と笑う息遣いが耳を撫でる。裏梅さんを見ると、目尻に柔らかさが宿っている。私は腕の中からそっと離れると、改めて聞きたかったことを口にした。

「裏梅さんは宿儺さまに呼ばれたから渋谷に?」
「いいえ。今は彼の者と行動を共にしておりますので」
「彼の者?」
「夏油と呼ばれている額に縫い目のある袈裟の男、と言えば伝わるでしょうか?」
「……ああ、あの人ですか」
「はい」

 思い浮かべた顔に思わず眉根を寄せる。彼と行動を共にしているということは、高専側の敵ということで間違いない。
 私は複雑な心境で裏梅さんに問う。

「五条さんの封印。それだけが目的じゃないですよね?」
「そのようですね。私の目的は別にありましたから、その辺は特に興味がなく」
「裏梅さんの目的って……」
「宿儺様の復活です。利害一致の上での協力でしたから、宿儺様のお考えを聞いた今、それに従うまでです」

 裏梅さんの行動指針は分かりやすい。これだけの忠誠心ならば、宿儺さまの意志に背くつもりのない私と考えることは同じだろう。
 嘘偽りのない真っ直ぐな眼差しを受けた私は、自分を納得させるように数度小さく頷く。

「……敵か味方かなんて、そんなに簡単な話じゃないですよね」

 私にとっては味方でも、高専側にとっては間違いようもなく敵だ。だからといって、私が完全に高専側につき裏梅さん、ひいては宿儺さまと対立することはありえず、またその逆も今のところ考えたくはない。
 どっち付かずな私が異質なだけなのかもしれない。それでも敵か味方かの線引きを零か百で考えなくても良いではないか。
 私は徐に補助監督を背負い直し、先へ歩き出す。

「どちらへ?」

 裏梅さんの問いに背を向けたまま答える。

「救護所に」

 嘘をつくことも考えたけれど、誤魔化す必要がないと思い直し本当のことを伝える。宿儺さまの意向に忠実ならば、止めはしないだろう。

「私は今できることをしないと」

 やるべきことを忘れないないよう、自分自身に言い聞かせる。「お気をつけて」と裏梅さんの言葉を背に、いつのまにか静けさに包まれた街を見下ろしながら先を急ぐ。
 遠目に料金所が見えると自然と足が急く。学長の呪骸たちの横を通り過ぎると、中から硝子さんが出てきた。

「無事だったか!」
「はい、なんとか……」

 駆け寄って来る彼女に支えられながら、救護所内に誘導される。

「よかった……とにかく今は人手が足りない。手伝って欲しい」
「分かりました」

 補助監督を背中から下ろす。ベッドに寝かせた彼女を横目に、他のベッドへ目をやると見知った顔があった。

「伏黒くん!?」

 ボロボロの状態で横たわっている彼は、一見しただけでは生きているのか疑うほどの有様だった。
 慌てて傍に寄った私は、彼の顔を覗き込んだ。

「大丈夫、気絶しているだけだ。外傷はない」
「でも、血が……」

 額から流れ出た血の跡が、端正な彼の顔を汚している。よく目を凝らしてみれば腹部や背中にも乾いた血痕が見える。だが、そこから覗く肌には傷一つついていない。

「正しくは、傷はあったが治されていた。……恐らく治癒したのは宿儺だ」
「宿儺さまが?」

 驚いて声を上げた私に、硝子さんは眉間に皺を寄せ首肯した。

「伏黒だけ置いて消えてったよ。まったく、どうなってんだか」

 厄介だと言わんばかりに首を横に振った彼女は、普段より余計に隈が存在を主張する眼を瞬いて私を見た。

「何か分かる?」
「……いえ、何も」
「そうか」

 期待に応えられない私は、ゆるゆると頭を振った。
 宿儺さまが何の目的で伏黒くんを助けたのか、本当に分からない。その困惑が顔に出ていたのだろう。硝子さんは疑うことなく私の言葉を信じたようだった。









永遠に白線