
突然、理解不能な事象が自分の身に降りかかった場合、みんなどうやって対処しているのだろうか?
そう誰に届くわけでもないというのに、心の中で問いかけてしまうほど、私は今まさに追い詰められていた。
「皐月、皐月……っ」
私の名前を繰り返し呼ぶ男の肩口に顔面を押し付けられている私の気持ちを察してほしい。まず初めに湧いて出てきた疑問は「誰?」である。
この男、骨を折る気か? それとも絞め殺すつもりか? そう疑いにかかるほど、とてもつない力で抱きしめてくる。
男の肩口の向こう側であんぐりと口を開けてこちらの様子を見つめている同い年くらいの学生三人に、目線で助けてと救済を求めても固まったまま動いてはくれない。
ギリギリと込められた力が強くなる。流石にこれ以上は耐えられなくて呻き声を上げると、弾かれたように学生達が間に入ってくれたおかげで無事に男の腕から解放された。と、思ったのも束の間、何故だか私の顔をペタペタと触り出して、男は着けていた謎の目隠し取り去った。
「……ほんとのほんとに皐月だ」
そう言って透き通った泉のような瞳からボロボロと涙を零す男に、私はギョッと身を引いた。
頬を伝い流れる雫。それが地面に落ちてしまうのが勿体ないと思わせるほど、彼表情が、涙が、あまりにも綺麗だったから──というより、一番は大の大人を泣かせてしまったという動揺と困惑のためだった。
えぇ、どうする? 誰だか尋ねてみるべきか。いやでも向こうはこちらを知っているみたいだし、それに何だかただならない空気を醸し出してるし……いや、まず過去に何があった? 私、全く記憶にないけど。
こんなに面の良い男なら流石に忘れないはずなのだが、と目の前で「うっ、うう……」と嗚咽を上げながらベソベソとみっともなく泣きじゃくる大人に、私は何も言えずにいた。
「もうどこにも行かないで、お願いだから傍にいてもう二度と……二度と置いていかないで」
必死にしがみつくようにして今度は私の肩口に顔を埋め、涙で濡らしていく。
一度目を知らないので、二度目もクソもない。が、流石にこの迷子の子供が安堵して泣いてしまったような大人を無慈悲に振り払うことはできない。
学生達も「誰?」「どんな関係?」とコソコソ耳打ちし始めた。悪いが、それは私も教えてほしい。
そう静かに混沌を極めている空間に草木を踏み分ける小気味の良い足音が近づいてくる。
「予定の時間より押してますが、何がありましたか?」
「伊地知さん……」
そう伊地知と呼ばれた眼鏡の男に「五条先生がさっきからあの調子で……」と学生達は手短に状況を説明しているようだ。
助けてくれるなら誰でもいい。早くなんとかしてほしい、と伊地知という彼に視線を送る。
「皐月、さん……?」
手元の携帯が滑り落ち、音を立てて足元の岩場の上に転がった。──そして、彼は眼鏡の奥でポロリ、一粒の涙を零した。
待て待て待て、それは想定外だった。もちろん貴方もはじめましてなんだが。流石にまともそうな大人に泣かれると、これまで以上にどうして良いか分からなくなるんですけど……
狼狽える私をよそに、五条と呼ばれていた目の前の男はやっと顔を上げ伊地知さんのほうを見た。
「僕はこのまま先に戻ってるから、伊地知は三人を連れて帰って」
「は、はいっ」
目尻を袖で拭って何故だか使命感に駆られた顔つきで返事をする彼は、学生三人に声をかけ連れ出そうとしている。勝手に片付けられていく状況に嫌な予感がする。
私は今しかないと勇気を出して口火を切った。
「……あ、あの」
「ううん。何も言わなくていいよ」
私の言葉を遮った彼は再び己の胸に私の頭を押し付けるので、顔面を打った私は「うっ」と呻き声を上げる。
いや、言わせてほしいが? 何故止めたんだ、私の勇気を返してほしい。
そろそろ鼻が潰れそうだ、と彼の肩を押し返すと、「大丈夫、もう何も心配しなくていいから」と抱き上げられてしまう。
その唐突な行為のせいで、せっかく出かけた言葉はさらに引っ込んでしまった。状況が理解できないまま、目の前が一転する。
なになに、何が起こった? さっきまで森の中の川辺に居たというのに、いきなりお寺? のような建物が正面にそびえ立っているけど、どこだここ。それよりどうやってここまで来たんだ? 魔法使いか、この男。
まるで瞬間移動だ。心の声が表に出そうになるけれど、男の剣幕によって押し留められた。ズンズンと敷地の中を進んでいく彼は迷うことなくどこかへ向かっているようで、見慣れない建物の中で視線を彷徨わせながら腕の中で揺られていた。
……これは、逃げた方がいいのだろうか。何も覚えてないけど、知らない人について行ってはいけないということだけは分かる。
雲行きが怪しいと察した私は逃げ出せるか試みるが、そもそも脚と肩をガッチリとホールドされているせいで身動きすら取れない。
終わった……どうなるんだこれから……初めから逃げ出しておけば良かったかもしれない。
けれど、自分が何者でどこへ帰るべきなのかも分からない。名前はさっき皐月≠ニ呼ばれて違和感がなかったから、きっと合っているのだろう。だからこそ、私のことを知っているらしいこの人に頼らざる得ないのだ。
自分の記憶が曖昧なのが不安をさらに煽っていく。状況を把握しようにも彼の威圧で身体も口も封じられているせいでどうにもできない。
彼は突然立ち止まった。そして、勢いよくその長い脚を払って扉を蹴り開けた。
「なんだ、慌ただしいな。ノックくらいしたらどう、だ……」
そう気だるそうに口を開いた女性と視線が交わった。目の下のクマが酷い。ちゃんと寝ているのだろうか、と心配したくなるほど不健康そうな顔色がさらに青くなっていく。
途切れた言葉の端が、異様な空気の中に転がった。そうして、その女性は片手で頭を抱えるようにして目元を抑えた────
ま、た、か。ここまで来たらもう展開は読めた。なんで皆そうやってすぐ泣くの、こっちが泣きたい。
堪えるようにして息を詰め、肩を震わせた女性はようやく長いため息を吐いた。鼻をズッと啜ってから赤くなった目元を露わにする。
「……どういうこと? 一体何が……」
「僕だって分からない、けど……確かに生きてる」
私を抱いた彼の腕は震えていた。
それよりも、えっ、生きてる≠チて何?? 死んでる可能性があったってこと??? まぁ、記憶が無くなるなんて漫画の世界の話だけだと思ってた事が今この身に降りかかっているのだから、それくらいあってもおかしくないのかもしれない。
「とりあえず、異常がないか見て」
「あ、ああ……」
そうしてようやく解放された私は胸を撫で下ろした。なぜなら、記憶がないのはどう考えても異常だから。これで、ことごとくタイミングを逃してしまったせいで言い出せなかった、「あなた方のこと、覚えてないんですよね」とやっと打ち明けられる。
白衣を着た女性に「皐月、こっちにおいで」と手招きされ、傍の椅子に座るように促される。この人とも親しい関係だったのだろうか。手放してもなお私を凝視し続ける五条さんよりは聞きやすそうだ、と胸を撫で下ろす。
そのまま向かい合って腰を下ろすと、彼女は近くの戸棚から器具を取り出しながら五条さんの方へ視線を流した。
「五条、七海には?」
「まだ伝えてない。伝えなくていいならこのままにしておきたい」
「それは駄目だろう。アイツが一番会っておかなくちゃいけない」
また新しい人物が出てきた。もちろんその七海、という人も記憶にない。ぼんやりとそんなことを考えていると、五条さんは間髪入れずに異を唱える。
「一番は僕だ」
全てを断絶するような彼の言い様に、彼女は呆れと咎めが混じったため息をつき、私に視線を移した。
「皐月、七海に会いたいよな。あんな事があったんだ、顔を見て安心したいだろう」
「私、その、おぼ────」
ついに打ち明けられそうだったのに。後ろから割って入ってきた勢いよく開かれた扉の音に思わず口を噤んだ。
「七海……」
彼女はそう言って沈黙した。まさに噂の人が現れたというのに、五条さんが振り返った私の目の前を立ち塞いでいるせいでどんな人かも分からなかった。
「来るのが早いよ、七海」
「伊地知君から連絡がありまして」
「伊地知め……」
そう小さく呟く五条さんなどどうでも良いと言いたげに、七海という彼は「それより、彼女は」と先を急がせる。
その様子に五条さんは渋々と目の前から退き、私の後ろに回った。
キッチリと洒落たスーツに身を包んだその人と目が合う。一呼吸の空いた後、特徴的なサングラスの奥が大きく揺れるのがわかった。
「────っ」
……まずい、これは泣くぞ。
息を呑む彼のその仕草に、私は焦り始めた。こんなしっかりしてそうな大人に泣かれてしまったらどうすればいいんだ。情緒もクソもあったものじゃない。泣かれれば泣かれるほど本当のことを言い出しづらくなるんだ。この居心地の悪さから早く解放されたい……
半分白目を剥きかけていた私の足元に七海さんが崩れ落ちた。
「私は、あの時、貴方が……っ」
膝をついた彼は私の手を取って、泣いた。そして後悔に眉を寄せ、安堵にその大きな背中を震わせている。
そんな彼が額に私の手をあてがうものだから、やはり泣かれてしまったか、それもまあ想定内だハハハ、と余裕をかまして乾いた笑いを零す暇など無くなってしまった。
「本当に、良かった」
そう言ってようやく彼は顔を上げた。
「……あの時から、全く変わってない」
……ああ、このままでは全てに置いていかれたまま話が進んでしまう。ここまでくればタイミングなど今更だ。今言わなければ確実に取り返しがつかなくなる。
私に知らない私を重ねて心を痛めている彼を前に、これ以上は後には引けなくなるぞ、と己を奮い立たせながら言葉を選んだ。
「あの、大変申し上げにくいんですが……」
選択肢としては絶対に間違いだ。どう考えてもこの人たちを傷つけてしまう……けれど、騙したままというのも彼らを傷つけることには変わりないのだ。
スッと息を吸った私は意を決して口を開いた。
「どちら様ですか」
身構えた彼らに放った一言に、空気が凍りついたのが分かった。
「ごめんなさいごめんなさい、もっと早く言うべきだったんですけどなかなか切り出せなくて。どうにも空気に流されてしまうところがあるみたいでほんとにごめんなさい次から気をつけます」
この状況が次もあるか、と言われたら絶対ないが、平謝りである。居た堪れないこの空気が辛すぎて謝らざる得なかったのだ。
「……マジ?」
背後から降ってきた五条さんの言葉に私は振り向いてコクリ、しっかりと頷いた。
「マジです」
唖然とした彼は「あの皐月が僕のこと覚えてないの?」と零した。
あの≠ニはどういう意味だ……
気になるけれど、キリキリと痛む胃を押さえながらも肯定せざるを得なかった。
「は、はい。残念ながら、一切記憶になく……」
「七海も? 硝子も?」
「見事にないですねぇ……」
「マジか……」
ポツリ、何の感情も乗せない声が響く。しばしの沈黙。意外にもそれほど深刻そうではない表情の彼は、寧ろ何か新しい可能性を見出したような希望に瞳を見開いていた。
「おい、五条、まさか」
「……そのまさかだよ」
硝子さんの言葉を肯定した彼は、私の肩を掴みそのままクルリと椅子を回転させた。強制的に向き合うことになった私は彼を見上げる。瞬きを忘れた視線は絶え間なく私を射抜いていた。
息をするのを忘れてしまいそうになりながら、爛々と輝く青を見つめる。そんな私に彼は「ねぇ」とおもむろに口を開いた。
「僕さ、君に好きって言われたんだ」
「え」
なんだ、それは。声をかけるのも躊躇われるような面の持ち主であるこの男に告白したのか、私。いかにも高スペックで女ウケします、と主張するような外面だというのに、よくそんな度胸があったな……寧ろ感心してしまう。
今の私じゃ絶対無理なので、記憶が無くなったら人格まで変わってしまったのか、とそんな可能性を頭の隅で考える。
「僕は記憶がなくても皐月が好きだよ」
「え」
両思いだった、ということは分かった。しかし、だからといって私はどうすればいいんだ……? 記憶を取り戻して、めでたく結ばれて良かったね! お幸せに! と本当の自分を祝福すればいいのか? とりあえず誰か私と彼の間に何があったか教えてほしい。
困惑で「え」の一文字しか言えなくなっていた私はぐるぐると頭の中を掻き回してみる。それでもやっぱり記憶は戻ってこない。
「五条さん」
助け舟なのかは分からないけれど、間に割って入ったのは七海さんだった。そんな彼に五条さんは不機嫌に声を落とした。
「……何。七海は皐月が記憶を取り戻した方が良いって?」
まるで所有権を主張するように、肩に乗った五条さんの両手に力が入る。眉の間に深い皺を刻んだ七海さんはかぶりを振った。
「いえ、そうではなく」
「だったら」
七海さんの言葉を遮った五条さんの一言は硬く張り詰めていた。威圧ではない。ただ譲れないものだあるのだと訴えるような声音だった。
「……だったら、このままのほうがいい。間違いなく、そっちのほうが皐月は幸せになれる」
「……ええ、そうですね。その方が
睨み合った両者の視線が頬をかすめた。
これが俗にいう修羅場なんだろうか……? 記憶喪失の女を取り合う図なんてどこの少女漫画だ。王道すぎて連載どころか企画会議落ちだろうに。
そう、つまりはこんな展開など誰も望んでないし、誰も得をしないというのに、何故。
ふいに五条さんが乾いた笑いを零した。それは七海さんへと言うより、自分自身に向けたものだった。
「七海の言う通りだよ。だからこそ、転がってきた好機をみすみす逃したりしない」
そう言って彼は目を細め「もうこんな奇跡、二度とないからね」と頬を撫でた。
「皐月の今後は僕が面倒を見る」
安心して、と柔らかい眼差しで語った後、七海さんへ視線を向けた。
「今ならもう、皐月を縛る忌まわしい枷はない。ようやく解放されたんだ。……七海だって皐月の自由を願ってたはずだ」
「……そうですね」
抜けるような息と共に告げた彼は、目元のサングラスを押し上げた。
「今ほど貴方を恨めしいと思ったことはありません」
轟々と燃える鋭い視線を放った彼の言葉に沈黙がよみがえる。
だから、一体過去に何があった……早く嵐の前の静けさのようなこの空間から解放してほしい。今私が一番怖いものは、記憶がないことでも、知らない人に連れ去られることでもない、沈黙≠セ。
思いっきり深呼吸したい、と息を殺しながら思っていると先ほど握られていたように、七海さんに手を取られる。
「貴方はどうかそのままで」
そして音もなく立ち上がった彼は私に背を向けた。
「七海」
「少し、頭を冷やしてきます」
硝子さんの声かけも背中で答えた彼は部屋から出て行ってしまった。遠のいて行く足音を聞きながら彼女はため息をついた。
「五条も七海も変わってないな。寧ろ悪化してる」
「いや〜時間が解決するとか言ったヤツ、大嘘つきだよ。今すぐ謝罪会見でも開いた方がいい」
冗談めかしてそう言った五条さんも五条さんで大きなため息をついた後、私に向き直った。
「皐月、記憶なんてない方が良いよ。これからの人生、出来るだけ好きなことして好きなように生きてくれるのが僕たちの願いなんだからさ。何にも気にしなくて良いんだよ」
頭に伸びた手で大きく揺らされる。わしゃわしゃと犬にするような撫で方で髪を乱された後、彼は私の顔を覗き込み、私がどこにも逃れられぬようその青で囲った。
「大丈夫、絶対僕が守ってあげるからさ」
そうして彼は、その美しい顔で、一際美しく笑った。
「一生ね」
彼はポケットから裸のまま仕舞っていたらしい指輪を取り出した。そして、私の左手を掬い上げ、薬指にゆっくりと収めた。ピッタリとはまってしまったそれは、彼の想いの密度を語るには十分だった。
私は知らなかった。生まれ落ちる前、母の胎に宿るその瞬間から、私は彼に──五条悟に人生を狂わされていたことを。触らぬ五条に祟りなし≠ニ彼を神と同義に据えて畏れ、遠ざけたあの日のことを。今の私が知るわけがなかったのだ。