死体のように青白い光を放つ蛍光灯が、薄暗い地下駐車場をぼんやりと照らし出している。伊地知は正面の黒いボンネットが頼りないその光を反射する様子を眺めていた。乗り慣れたベンツの運転席で、ハンドルを握りしめる。自身の左腕で時を刻む針は予定の時刻をとっくに越えていた。
 きっと機嫌が悪いんだろうな。半ば諦めながら彼らの帰りをひたすら待つ。そうして時計の針が一/四ほど動いたのを見届けた時、静かなその場所に乱暴な靴音が響き渡った。
 その二つの足音がこちらに近づくにつれて、伊地知はやっぱり、とこれから八つ当たりされるであろう自分の身を案じながら、眼鏡のブリッジを押し上げ、背筋を伸ばすのだった。

「ったく、手こずらせやがって。結局吐くなら最初から吐けよ。バラすこっちも暇じゃねぇっつーの」

 案の定、機嫌の悪い男が後部座席に乗り込む。揺れた車内の中で「ご苦労様です」と伊地知は小さく呟いた。
 天元率いる我が薨星会の若頭である五条に「伊地知ぃ」と恫喝にも似た声音で名を呼ばれる。彼は運転席の肩口に長い脚が乗る衝撃に縮こまりながら「はい」とルームミラーで後方の男の様子を伺った。

「いつものとこね」
「承知しました」

 いつもの、と言われて思い浮かぶ場所は一つしかない。
 五条の言葉の後、先程とは反対側のドアが開き、乗り込んで来た補佐役の男が「その前に」とエンジンをかける伊地知へ呼び掛けた。

「近くの百貨店に寄ってくれるかい? 地下ならきっとまだやってるはずだ」
「あー、そういやお嬢が好きな洋菓子の店、催事で入ったんだっけ?」

 五条の問いに夏油が相槌を打つ中、伊地知は密かに胸を撫で下ろす。五条が「お嬢」と口に出した瞬間、車内の刺すような空気がふと和らいだのだ。
 頭の孫娘の世話役を任され、幼い頃から面倒を見てきた二人が彼女を溺愛しているのは周知の事実だった。昔から手がつけられない問題児として扱われていたこの二人を、組織内外の序列を抜きにして、完全に手懐けているのは彼女しかいない。
 お陰で彼女の話題を持ち出せば大抵丸く収まるのだから、彼らの横暴に悩まされている構成員たちにとってお嬢の存在は大層有り難がられ、会長の血を引いているからという理由とは関係なしに頭の上がる人間など存在しなかった。
 もちろん伊地知もその一人である。お嬢様様だと心の中で両手を擦り合わせながら、ゆっくりとアクセルを踏むのだった。



   ◇◇◇



 五条と夏油が手塩にかけて育て上げた会長の孫娘である少女。彼女が長年過ごして来た本邸を出たのは数ヶ月前、桜が咲く季節のことだった。
 無事に大学に合格したことを機に、独り立ちすると言い出した彼女を死に物狂いで止めたのは彼らの記憶に新しい。五条も夏油も、彼女の独り立ちなどこれっぽっちも望んでいなかったし、必要性すら感じていなかった。むしろ自分たちがいなければ何もできないようにぐずぐずに甘やかしては、事あるごとに「悟くんと傑くんとずっと一緒にいる!」と駄々を捏ねて泣き出す彼女を宥め、抱きしめながら、影では計画通り′セわんばかりにほくそ笑んでいた。さながら光源氏計画である。
 そんな彼らの教育の甲斐があってか、彼女は見事に筋金入りの箱入り娘に成長してしまった。見兼ねた五条と夏油を除いた健全な大人たちが説いたのが、一人でも生きていけるようになることの重要性であった。いつ何があるか分からないから、と偉大な祖父に言われてしまえば、流石の彼女も流されるままに頷くしかなかった。
 家業がどういうものか、世間知らずと言えども幼い頃から生傷が絶えない男どもに囲まれて育っていたので、危険なものであるとは理解していた。それに、血の気の多い家族たちを頭としてまだまだ現役で取り仕切っている祖父は、いたって元気そうに見えるけれど、同年代の歳の子と比べて葬儀に出席した数が抜きん出ている彼女は、人間案外簡単に死ぬということも経験を持って知っていたのである。
 そうして独り立ちの第一歩として一人暮らしを始めることになった彼女だったが、物件探しだけは譲れないと暴れ回ったどこぞの若頭と補佐役のせいで、部屋のセキュリティはもちろんのこと、街の治安や本邸からの通いやすさまで、五条と夏油の厳しい審査を通り抜けた物件に住まわされることとなったのだった。


 二人は到底女子大生が一人暮らしをするような物件ではない高層マンションのエントランスに足を踏み入れた。慣れた手つきでエレベーターの階層ボタンを押し、愛しの彼女の待つ部屋へと意気揚々と歩き出す。そして、彼女の了承を得ぬまま当たり前のように発行した予備のカードキーで扉を開け、足早に物音がするリビングへ向かった。

「は?」
「あ?」

 五条と夏油を待ち構えていたのは、目に入れても全く痛くない愛すべき彼らのお嬢ではなく、確実に自分たちよりも歳上の見知らぬ男だった。
 ソファーの上で行儀悪く寝転んでは頬杖をつき、灰色のスウェットから覗く筋肉質な腹をボリボリと掻くその男はどこからどう見てもカタギの人間ではなかった。自分たちも大概ガラが悪いが、それに負けず劣らずの風体。うちにこんな奴居たか、と持ち前の頭脳を回転させた二人は迷わずNOという答えを導き出す。
「あ、食べたかった新作スイーツ!」
 呑気な彼女はパタパタとスリッパの音を響かせては、五条の手から紙袋を攫って行く。中身に目を輝かせながら、この場に不釣り合いの男の傍に腰を下ろした彼女に、五条はおずおずと口を開いた。

「……お嬢、ソレ何?」
「拾ったのー」

 彼女にとって五条の問いなど些細なものでしかなかった。今最も重要視するべきは手元のスイーツでしかない。五条は自分で買って来たスイーツと天秤にかけられ、見事に敗れたのだった。その屈辱を込めて、五条は先ほど人一人を殺めたのにもかかわらず、世間一般のド正論を叫ぶ。

「人間を! 普通、拾わない!」
「みんな昔から拾って来てたよね?」

 わけが分からないと小首を傾げる彼女に、五条は膝から崩れ落ちる。その横で夏油は眉間に深い皺を刻み、こめかみを押さえた。

「舎弟のことを言ってるんだったらそれとこれとじゃ話が違うんだよ……」
「へ〜そうなんだ」

 世間の常識からズレた彼女の価値観を矯正することができなかったのは、間違いなく彼らの教育の敗北だった。
 彼女からしてみれば、幼い頃から家に出入りする人間が増えればペコペコ頭を下げながら一定の人物について回る様子を眺めていたのだ。拾って来ては躾けて育ててるんだろうな、くらいの認識でしかなかった。
 半分くらいは合っているのだが、それを素性も分からぬ男を拾ってくる理由にしてはいけない。根本的な意味合いが違うのだから。
 五条も夏油も痛む頭を抱えた。これっぽっちも事の重大さに気づいていない彼女にどう説明すれば理解してもらえるか頭を悩ませる。馬鹿な子ほど可愛いと溺愛して来たけれど、今回ばかりはそんな事も言っていられなかった。

「一人暮らしも慣れて来たし、この家無駄に広いから人がいた方が落ち着くんだよねぇ」

 常にむさい男たちが家の中に居座っている状況が日常となっていた彼女にとって、自分以外に人の気配がしないというのは違和感でしかなかったのだ。

「だぁからこうして俺たち毎日会いに来てるよね⁈」
「うーん。そうなんだけど、悟くんも傑くんも家族みたいなものだから。私が欲しかったのはペットなの」

 そう宣う彼女は箱の中でキラキラ輝くスイーツを写真に収めた後、柔らかいクリームをスプーンで掬い上げ口へ運ぶ。
 ホームシックとまではいかないものの、何となく寂しいなぁと思う気持ちを動機に、ペットを飼うというのはそこまで珍しいことではないはずだ。それなのに、どうして彼らは理解してくれないのだろうか。
 彼女は心中ぶんむくれながら、己に縋り付いてくる五条へどことなく冷たい視線を向ける。

「じゃあ今すぐペットショップ行こ⁈ 犬でも猫でも買ってあげるからさぁ‼︎」
「ここペット禁止のマンションだよ」
「誰だよこの部屋選んだ奴!」
「悟、私たちだ……」

 前のめりになった五条を制した夏油は、どこで道を間違えたのだろうと慚愧の念に深いため息を吐くしかなかった。

「人なら躾とかしなくていいし犬猫よりペットに向いてると思うんだよねぇ。意思疎通できるし、自分のことは自分でしてくれるから手はかからないよ?」

 人間を愛玩動物にするという異常性に、常人の倫理観など持ち合わせていない彼女が気がつくはずもなかった。「ねー? トウジ」と彼女は平然と男に同意を求め、甘味を分け与える。男も男で「しらねぇよ」と言いながらもそれを受け入れる様子に、五条と夏油は目をひん剥いた後に天井を仰ぎ、顔を覆った。出来る事なら今すぐ男の爪を剥ぎ皮を剥ぎ、この世に生まれ落ちた事を後悔させた後、首を落として原型が無くなるまでミンチにしたかった。しかし、それを行動に移す前にやらなければならない事がある。
 五条は男への餌付けを楽しんでいる彼女の細い手首を掴み引っ張り上げる。カラン、と彼女の手から滑り落ちたスプーンが音を立ててフローリングの上に転がった。それを目で追った彼女の視線を逃すことを許さない五条は、筋の浮き出た大きな手で、形の良い彼女の細い顎を掴んだ。

「躾をしなきゃいけないのはどう考えてもお前だよね。ねぇ、お嬢?」

 彼女は瞬きなど忘れてしまったかのように見開かれた五条の瞳の色に喉を鳴らした。戸惑いと恐怖に視界が揺れる。
 どうしよう、とはち切れそうな心臓を抱えていると、横から伸びて来たもう一つの手に優しく頭を触れられる。彼女は夏油が宥めてくれているのだと、助けを求めるように彼へ視線を移した後、すぐに後悔した。穏やかな表情の裏に練り上げられた憎悪と目が合ってしまった。

「人を拾う以前に男を家に上げるなって言ってあったと思うんだけどな……もしかて、お嬢の小さい脳みそじゃ覚えられなかったのかな?」

 滑らかな髪に覆われた丸い後頭部を撫で上げながら、夏油は薄い唇の端を持ち上げる。
 夏油から与えられる慈愛と憎悪をどうやって処理して良いか感情が追いつかない彼女は、目の前で対照的な表情を浮かべる男たちが怖くて仕方がなかった。
 静まり返った部屋の中。肩を震わせた彼女の背中越しに、それまで傍観を決め込んでいたトウジと呼ばれた男の声が響く。

「安心しろよ。世間知らずの箱入り娘に手ェ出すほど俺も困ってねーから」

 どこか彼女への執着心を小馬鹿にした言い草に、五条は噛み付いた。

「あ゛? その世間知らずの箱入り娘に寄生してるのはテメェだろうが。後でたっぷり構ってやっから首突っ込んでくんな」
「お嬢、この部屋は引き払うから荷物をまとめておいで。これ以上悪い子になりたくないだろう?」

 額に太い青筋を浮かべた夏油に自室へ追いやられそうになった彼女は、五条に胸ぐらを掴まれたトウジのよく鍛え上げられた逞しい腕に必死にしがみ付く。

「駄目! 私が拾ったの! 最後まで面倒みる!」
「お嬢……この場に及んでまだそんな事を」

 涙目で訴える彼女に、夏油は怒りを押し殺した重たいため息を吐き出す。
 彼女は鈍く光る彼の瞳に怖気付きながらも、唇を噛み締めて「許可は取った!」と己を奮い立たせるように叫んだ。

「はぁ? 会長が許したのかよ」
「……うん、生き物を育てる事で命の大切さを学べるだろうから良いよって」
「命の大切さだぁ? ヤクザが今更何言ってんだ、あんのジジイ孫に甘すぎんだろ。そんなに学びたいなら屠殺場でも見学するか? 牛さんが美味しいお肉になるとこ見届けた足で焼肉食いに行こうなぁ?」

 五条はすれ違った道行く女を一瞬で落とせるような綺麗な笑顔を浮かべ、わざとらしく彼女の髪を掻き乱した。
 情操教育をするならもう少しマシなやり方があるだろうとは思った夏油だが、彼も大概頭に血が上っていたので、何も言わず五条に言われたことを素直に想像しては顔を引き攣らせて涙を浮かべた彼女を、単純で可愛いなと思いながら顔には怒りをにじませたまま見下ろしていた。可愛さ余って憎さ百倍。一度地雷を踏み抜いた傷はしばらくは癒えそうになかった。

「チッ、何かあってからじゃおせぇんだよ」
「うぅ、何もないよ、トウジ強いもん」
「へぇ? ソイツがお嬢に危害を加えない補償はないよね」
「あるよ。ちゃんと 契約 縛りを交わしました」

 彼女は傍の引き出しから引っ張り出して来た紙切れを掲げた。一度顔を見合わせた二人は食い入るように文字列を目でなぞる。伏黒甚爾(以下「甲」という)≠ゥら始まるその契約書は、粗探しをするも一分も付け入る隙がない。

「約束事をするときは必ず相手に署名させて、判子を押させる事。そう教えてくれたのは悟くんと傑くんでしょう?」

 五条と夏油の脳裏に蘇った確かに存在した遠い昔の記憶──取り立てごっこ≠ニ称してヤクザの真似事をして遊ぶのが彼女のブームだった時期、本邸の居間で彼らに教えられた通りに「困るんですよ、奥さん、ここに貴女の旦那の名前と判子、押してあるの見えるでしょ?」と契約書もどきを掲げながらチンピラを演じる幼き日のお嬢と、「そんな、私知りません!」と夫に蒸発された妻を演じる夏油と、「アニキ、この女どうしますぅ?」と舎弟を演じる五条は確かにいた。後でお嬢に何を教えてるんだとゲンコツを喰らった彼らだが、本当に何てことを教えてしまったんだと今更ながら頭を抱えた。
 顔色を赤くしたり青くしたり忙しない五条と夏油を横目に、甚爾は彼女の肩に手を回し鼻で笑った。

「残念だったなぁ。少なくとも一年間はコイツのペットだ。つーわけでヨロシクな、オニーチャンたち」
「誰がオニーチャンだ! テメェのがどう見ても歳上だろ!!」
「悟、今すぐ殺そう。死ねば契約なんてあってないようなものだ」
「そうだな、この部屋防音だし引き払うんならちょうどいい。盛大に殺ろーぜ」

 完全に仕事モードの据わった目で会話をし始めた彼らは、口元にだけ笑みを貼り付け猫撫で声で説得を始める。

「お嬢にはこんな手垢の付きまくった汚ねぇオッサンじゃなくて、可愛い子猫を買ってやるからなぁ」
「ウサギなんてどうだろう? 寂しいと死んでしまうなんてお嬢に似て可愛いじゃないか」
「やだぁ! トウジがいい‼︎」

 ワッと泣き出す彼女が五条と夏油に口で勝てるわけもない。最終手段として呼び出した夜蛾によって、幼いあの日のように指導という名のゲンコツを喰らわされた彼らは、七海と灰原に回収され部屋を去っていった。
 甚爾は嵐が過ぎ去ったような静けさが漂う部屋の中で、とんでもねぇ奴に拾われてしまった、と泣き疲れて眠ってしまった己のご主人様にそっと毛布をかけてやるのだった。






目次


永遠に白線