「家出する!」
「へぇ?」
一人意気込んだお嬢を横目に、さして興味も無さそうな甚爾はクァ、と大きなあくびを零した。
突飛なことを言い出した彼女の行動に思い当たることと言えば、昨日未明、突如襲来したガラの悪い青年たちに他ならなかった。己も大概ガラが悪いことなど棚に上げ、五条と夏油にそう評価を下した彼は、ぼんやりと彼女を見上げた。
彼もまさか彼女がヤのつく自由業≠生業としている家の御令嬢など思いつきもしなかった。確かに、第一印象で箱入り娘なんだろうと見抜けるくらいには、頭のゆるさを発揮していたけれど、どうせどこかの成金の娘なのだろうと、完全に高を括っていたのである。
もし、それが本当だったらどれだけ良かったか。この先、面倒事に巻き込まれそうな予感が拭えないが、時既に遅し。現在進行形で五条と夏油に殺害計画を立てられている彼は、悪気など一切ない無邪気な彼女によって、とっくに渦中のど真ん中へ突き落とされていたのである。
まあ、薄々勘づいてはいたものの、甚爾とて抗わずして荒波に飲まれていくようなタマではない。
彼は我関せずといった態度を貫きつつも「気ぃつけろよ」と彼女へ気怠げな声を上げた。
「トウジも行くんだよ!」
彼女は意気揚々と「私の支度はできてるんだから!」と甚爾の袖口を引っ張った。
彼女が所持しているのは、財布さえ入るか定かではない小さなショルダーバッグのみ。近所のコンビニへ買い物に行くんじゃねぇんだぞ、逃亡舐めてんのか、と毒づく彼の胸の内とは裏腹に、ふわりと彼女の両の手が優しく頭上に振ってくる。
「長期間家を開けるのに置いていかないよ。死んじゃうかもしれないからねぇ」
「いや、死なねーよ」
そんなに簡単に死んでたまるか、俺をなんだと思ってるんだ、と言葉を続ければ、確実に「ペット」という回答が返ってくるのは分かりきっている。虚無を背負った甚爾は、よしよしと彼女に頭を撫でられながら、キュッと唇を結んだ。
その横で「あの二人なら絶対今日も来るから、それまでに出ていかなきゃ」と熱弁する彼女。昨日の泣き喚いて抵抗したあの惨劇を思い返せば納得する他なかった。
「まあ、諦め悪そうな奴らだったな」
「いつもはすっごく優しいの。でも、時々ああやって全然譲ってくれなくて……悟くんは暴れるし、傑くんは無言の圧をかけてくるんだけど、今回は特に酷い気がする」
何でだろう、と変わらず甚爾を撫で続ける彼女は首を傾げる。そういうところなのでは、と思ったが、彼は何も言わなかった。五条と夏油のために動く義理など彼にはない。
「そんなヤベェ奴、何したら飼い慣らせんだか」
「えー? 何もしてないよ、ずっと一緒にいただけ」
「あー……」
言葉にならない音を漏らした甚爾は、五条と夏油の想いを何となく察し、憐れんだ。彼らと比べれば共に過ごした時間は短いが、彼女の人間性は十分把握できている。
彼女が口にした「ずっと一緒にいる」ことが、彼らにとってどれだけ難しいか。死は皆平等に与えられるとは言うけれど、カタギの人間と比べてしまえば確実に死に近い世界に身を置いているのだ。己の内に何かしらの闇を飼っている人間たちにとって、それはとてもよく効く。もしくは、刺さると言ってもいい。凝り固まったものを溶かすように、ジワジワと己の心に侵食していくあたたかいものを、さも当然かのように扱い、軽々と成し遂げてしまう彼女の傍は恐ろしく居心地が良いのだろう。
その気持ちは甚爾にもよく理解できた。仮にも、成り行きはどうであれ彼女に飼われることを選んだのは彼自身だ。
彼はひたすら己の髪を弄んでいる彼女を見上げた。
「行くあて、あるのかよ」
「ない」
「即答かよ……それでよく逃げ切れると思ったな」
「だって私の知ってる人、みんなあの二人とも知り合いなんだもん」
呆れ顔の甚爾に口を尖らせた彼女は、改めて自分の交友関係を思い浮かべた。
五条と夏油を中心に、会に属している家族たち。そして、会と関わりのある外部の人間たち。皆、先に五条たちが手を回している可能性がある。彼女と仲の良い会の専属医の家入や、顧問弁護士の冥冥のところは本人たちが快く匿ってくれたとしても、五条や夏油に行動を読まれて張られているだろう。学友を頼ることも考えたけれど、家がヤクザというお陰でただでさえ少ない友を巻き込めば、友達100人できるどころか0人のまま大学生活を終えることになってしまう。
それだけは絶対に嫌だ。彼女は訴えかけるように甚爾を見つめた。
まるで捨てられた子犬のような彼女の視線に、そのまま捨て置くのは居た堪れなくなってしまう。どちらが飼い主だ、と言いたくなる気持ちを抑えて、甚爾は彼女に撫でられ、こそばゆくなった髪を乱すように後頭部を掻いた。
「ったく、仕方ねぇな」
完全に絆されている自分自身に呆れながらも、腹を括った彼は「今から言う物、全部置いてけよ」と悪巧みでもするかのような表情で言い放った。