京王線の改札を出て、お嬢と甚爾はそのまま南口まで通り抜けた。新宿の綺麗とは言い難い空気を吸い込み、グッと伸びをする。彼女の手の中にはアルミ製のアタッシュケースが握られている。重そうに持ち替える様を横目で捉えた彼は、道中さんざん漏らして来た嘆きを再び口にした。
「初めてのヤツが三連単当てるか、普通……?」
「すごい? すごいよね?」
「スゴイスゴイ」
「やったー褒められた!」
無邪気に喜ぶ彼女は軽い足取りで横断歩道を渡っていく。
家を出てから三日。フラフラと都内を彷徨っていた二人は、逃げている手前堂々と暇を潰すわけにもいかず、主に甚爾のストレス発散も兼ねて競馬場へ足を伸ばしていた。
無欲な人間ほど運が味方しやすいのか、記念にと何となく買った彼女の馬券が見事に的中し、貸し出されたアタッシュケースには札束が敷き詰められた。
大金を手にした人間は、大抵周囲を気にして挙動不審になるものだが、彼女は特に臆することはなく「身代金より少ない」と言い放ち、甚爾は思わず苦虫でも噛み潰したような顔で身を引くしかなかった。この場において、攫われたことあんのかよ、という質問は無意味である。あのセコムたちのことを考えれば、むしろ誘拐犯が哀れにさえ思えた。
五条や夏油からしてみれば、甚爾もまた誘拐犯と同じようなものだというのに、危機感の無い彼女の雰囲気に引きずられているのか、全くの他人事である。
「馬って意外と可愛いんだねぇ、いくらで買えるんだろ」
「お前、馬主になる気かよ」
金持ちムーブに呆れつつも、普段から稼いだ金を費やしている身としては関心のある話ではあった。そんな食いつきを見せた甚爾を、何を勘違いしたのか彼女は「大丈夫だよ!」と力強く抱きしめた。
「馬一頭増えたってこれまで通り可愛がってあげるからね!」
「そんなことは聞いてねぇよ」
胸元に抱きつく彼女を綺麗に引っ剥がした甚爾は、時計塔のライトアップが夜空に浮かんでいるのを見上げた。
既に十九時を回っている。そろそろ今日の宿を探さなければならない。そう思考を巡らせている横で、ぼんやりと街ゆく人を眺める彼女。普段と変わらぬ様子を見せているものの、多少は無理しているのだろう。瞳に滲んだ疲労を拾い上げた彼は、近くにあった植え込みの傍のベンチに腰を降ろすように促した。
「大金持ってんだから、取られないように大人しくしてろ」
「わかった」
聞き分けよく頷く彼女の頭をクシャリと乱した甚爾はその場を離れていく。アタッシュケースを両腕で守るように抱きかかえた彼女は、建物の中へ吸い込まれていく背中を見送って、一人小さくなって己の爪先へ視線を落とした。
いつまでこうしていられるだろうか、と漠然とした不安が胸の内に広がっていく。実際五条や夏油に対して、ムキになってしまっていることには反論できない。しかしそれ以上に、自分自身が決めたことを絶対に覆したくはなかったのだ。
「アンタ、甚爾君の新しい女?」
唐突に頭上から降ってきた関西訛りの言葉に、彼女は顔を上げる。
「誰? トウジの知り合い?」
「知り合いも何も、おんなじ血ぃ通っとるんよ」
胡散臭い笑みを張り付けながら見下ろす男。顔立ちはほぼ甚爾と言っても良い。明るい髪色により雰囲気は違えど、血縁を疑う余地もなかった。
男をジッと見つめた彼女は「確かに似てる!」と表情を和らげる。キラキラと輝く笑顔を向けられた男もまんざらでない様子で、機嫌よく彼女の隣に腰を下ろした。
「ええ男やろ」
「ええ男!」
冗談めかした男の言葉に、彼女は関西弁を真似て無垢な笑みを返した。良く言えば素直、悪く言えば馬鹿正直なその様子に、男は細めた目の奥で吟味する。
「頭悪そうやけど、躾ければお利口さんになりそうやなぁ」
男にとっては褒め言葉であっても、それは愚弄と呼んでも遜色のないものであった。しかし、彼女は男の真意など物ともせず、人の良い笑顔を浮かべている。男はそれが気に入らなかった。女は男の後ろで慎ましく笑みを携えておけば良いとは思っていたけれど、言葉の裏に込められた意図を汲み取れないような馬鹿な女は、嫌いというより癪に障った。
「さっきの質問の答え」
「ん?」
「甚爾君とアンタの関係」
無機質な問いかけに、彼女はああ、と思い出したように声を漏らす。
「お世話してるだけだよ」
彼女はただそれだけを告げる。それ以上でもそれ以下でもないと、澄んだ瞳が語っていた。
彼女の両の目に写った己と目が合う。何故だか居た堪れない想いに苛まれた男は、顔を顰め口を開いた。
「妻子ほっぽり出してフラついてるような碌でもない男なんよ、甚爾君は。そんなヒモ男、わざわざ選ぶ気が知れんわ。まあ、顔はええもんなぁ、ほとんど自分と同じ顔やし。邪魔なようなら今すぐ連れて帰ったってもええよ」
「え! 奥さんと子供いるの⁉︎」
初めて知る事実に驚きが隠せず声を上げる。彼女をただ煽ったつもりの男は、予想外の部分に食いつかれ「そこかいな。まあ、ええけど」と零した。
そんな男に詳細を尋ねるも、上手い具合にはぐらかされてしまう。めげずに同じ質問を繰り返すこと数分。その攻防は全ての元凶によって有耶無耶にされた。
「何しに来た」
固い声音は良く通った。雑踏にかき消されることなく二人の元へ届いた甚爾の声に、男はヘラリと笑いゆったりと腰を上げた。
「元気そうで何よりやわ。そんな殺気立たんでも、ちょいと顔見に来ただけやから」
「もうお前らとは関係ねぇ。何言っても無駄だ。帰れ」
「寂しいこと言わんと、俺と甚爾君の仲やないの。聞くだけ聞いてや」
「断る」
握られたペットボトルが、男の全てを拒絶するように、彼の手の中で音を立てた。
一人会話についていけない彼女は押し黙って頭の上で飛び交う言葉の応酬を見守っていた。
睨み合った両者を、通り過ぎていく人々が横目で追いかける。悪目立ちをしていることに気づいた男は小さく息を吐き、甚爾との間合いを詰める。一言、二言耳打ちされた甚爾は一切表情を変えることはなかった。
何が起きているのか分からないまま、ぼんやりとしている彼女の元へ無言で歩み寄った甚爾は、貫いていた男への否定的な姿勢を曲げ「少し話してくる」とだけ告げる。
彼女は少し待つように視線で促す彼の袖を掴み引き止めた。彼女にとっては、男と甚爾の秘密の話なんてどうでもよかった。何より優先して聞いておくべきことが他にある。
「それよりも奥さんと子供! 本当にいるの?」
「……居るって言ったらどうすんだよ」
いつもの仏頂面で問い返す甚爾に、彼女は自信たっぷりに答える。
「もちろん、みんなまとめて抱きしめる!」
ギュッと空を抱いて見せる彼女。不意を突かれたように目を丸くした甚爾は、思わずふと笑みを漏らした。
「なんだよそれ」
「みんな幸せなのが一番でしょ?」
甚爾は肯定も否定もしなかった。それでも、口角は自然と上がったまま。ただ彼女の髪を大きな手のひらで撫で上げる。
正論を正論として成り立たせるのは意外と難しい。それを知らないのだとしても、彼女の言葉は信じられると思えるような力があった。それに救われる人間は確かに存在している。彼もまた彼女のそんなところを気に入っている一人であった。
「教えてやるからちょっと待ってろ」
乱れた髪を整えながら、甚爾たちを見送った彼女は、自ら彼の過去を聞いたのは意外に初めてだったことに気づく。彼を拾った時も、素性など少しも気にはしなかったし、彼が望むなら他の飼い主のところへ行き来していても構わなかった。来るもの拒まず、去るもの追わず。そうやって程よい距離感を貫いていたけれど、たまには踏み込んでみるものだな、と緩く口角を上げた。
「鬼ごっこは楽しかったか?」
刹那、冷えた声が耳の裏で凍りついた。背後から伸びてきた腕が、するりと彼女の首元に絡みつく。ひゅ、と喉元がひくつき、声を上げることすらできない。
完全に不意を突かれた。振り向かなくても誰かなんて分かる。
恐ろしくも爛々と輝く青い瞳を思い浮かべた彼女は、絡みついた腕を振り払って立ち上がろうと力を入れた。……はずだった。実際は横から伸びてきた腕に腰を抱かれ、身動き一つ取れなかった。
「随分と遅い反抗期だね。不良娘に育てた覚えはないよ」
隣に座られた気配など一切感じなかった。五条と夏油の「ねぇ、お嬢」と己を追い詰める声が両耳を攻める。
彼女は胸の内で、どうしようどうしようとひたすら繰り返すだけで、この危機を回避する術など見つかるわけもなかった。
背後にいた五条は、逃げ道を塞ぐように夏油とは反対側のベンチに腰を下ろし、彼女の肩を抱いた。完全に挟まれた彼女は生唾を飲み込んだ。
「見つからないとでも思ってた?」
「残念だったね。私たちからは逃げられないよ」
「だって……」
言い訳は山のようにあった。しかし、静寂すらも味方につけた彼らの怒気の前では口を噤むしかなかった。
「どんな理由があっても、お嬢が俺らから逃げた事実は変わらないからな」
「もちろん覚悟の上の行動だったんだろう?」
五条の鋭く有無を言わせることのない言葉と、夏油の甘やかすように優しげな声音に孕んだ怒り。対照的なそれらを両側から注がれるのが耐えきれず、彼女は目を伏せたまま「二人とも怖い」と小さく抵抗の言葉を吐く。
「優しくして欲しけりゃ、言うこと聞こうなぁ?」
「こんなところで油を売っていても仕方ない。お嬢、家に帰るよ」
懸命に首を横に振った彼女は「帰るならトウジも一緒がいい」と言い放ち、勇気を振り絞るように膝の上で拳を握った。
「悟くんのことも傑くんのことも大好きだけど、今回のことでは言うこと聞きたくない」
「あ?」
「へえ?」
決定的な拒絶。額に青く筋を浮かべた二人は、我慢できるわけもなく強引に彼女の腕を引いた。
「こうなったら意地でも連れて帰ってやるから」
「やーだー‼︎」
怪我をさせない程度の力加減と言っても、黒いスーツに身を包んだガラの悪い成人男性二人に、全体重をかけて抵抗して暴れる女子大生という図はあまりに異様であり、周囲の目を引かないわけがなかった。
「ゲェ、もう見つかったのか」
フラリと戻ってきた甚爾は、目も当てられない地獄絵図を前に心底嫌そうな声を絞り出した。正直声もかけたくなかったが、これでは完全に誘拐犯と人質だ。流石の彼も彼女に同情した。
彼女は甚爾に気を取られた二人へ、持っていたアタッシュケースを投げつけ逃走を図るが、五条の長い脚で弾かれてしまう。コンクリートの上で跳ねたそれは、勢いに任せて蓋が開く。ばら撒かれた札束。舞い上がる諭吉。さながら映画のワンシーンのようだが、映画のように丸く収まるわけがなかった。
「とりあえず離してやれよ」
「あぁん? そう言って逃げる気だろ!」
「そう思うなら後ろ見てみろ」
甚爾の言葉を疑いながら、ゆっくりと振り返る。
「あ」
声を上げるのと同時に、五条と夏油の肩に手が乗った。
「ちょっと署まで来てもらおうか」
いつの間にか数人の警察官が彼らを囲んでいた。
確かに通報されてもおかしくない状況を作り出した彼らに非があるが、完全にか弱い女の子を誘拐し身代金を要求した犯人≠セと誤解されている。「冤罪だ」と夏油が訴えるも、警察は「ハイハイ、詳しいことは後で聞くから」と全く聞く耳を持たない。
パトカーの赤いランプに照らされる中、カチャリという金属音と共に、手首に枷をはめられる。
「だあああ! めんどくせぇ‼︎」
周囲の人々が口々に「何かの取引だって」「人身売買とか?」「薬じゃないの?」と不穏な憶測を耳打ちする中、五条の叫び声が無念に響いた。