桜田門の朝は早い。朝焼けが連なる建物の窓ガラスを橙に染めている。霞を混ぜたようなぼんやりとした陽の光に照らし出された皇居前。まだ交通量が多くない交差点の向こう側には、深い碧色をした水が溜まるお堀が囲っている。それに沿ってランニングをしている人影がポツポツと見受けられた。
そんな至って平和な風景を見渡した男たちは、凛と澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込み、盛大に吐き捨てた。
「ハァ〜、まさか留置所で一晩過ごすとはね」
警視庁本部庁舎を背に、わざとらしく伸びをした夏油の嫌味が響く。
公衆の面前で札束をぶちまけ、警察に声をかけられた五条と夏油は、必死の釈明など聞き流され、流れ作業でパトカーに押し込められ取調室に収容された。容疑そのものはお嬢の証言と、お嬢が泣きついた顧問弁護士の冥冥のお陰で無事晴れたものの、散々コケにされたまま彼らが引き下がるわけがなかった。
事情聴取の担当刑事を、片やブチ切れる限界までおちょくり、片や理詰めで精神的に追い詰め、警察のミスをこれ見よがしに突きまくった。そのせいで拘束時間が長引いたのだが、それすらも警察のせいだと罪をなすりつけた。実に小賢しくも捻じ曲がった性根を持ち合わせた彼ららしい。
何をするにも態度のデカいヤクザたち。所謂反社≠ニ呼ばれる人間たちを取り締まる、組織犯罪対策部に所属する庵歌姫は、目元をひくつかせながら彼らの目の前に仁王立ちで立ちはだかった。
「紛らわしいのよアンタたち! 日頃の行いをよく考えなさい」
「冤罪もいいとこだろ。だからサツは無能だって言われんだよ」
「アンタ喧嘩売ってんの? 誰のお陰で出て来れたと思ってんのよ」
彼らと顔を合わせたのはこれが初めてではなかった。歌姫がまだ駆け出しの新人だった頃から頻発するヤクザの会長の孫娘を狙った誘拐事件。警察の捜査などそっちのけで、誘拐犯の元へ鬼の形相で突入しようとする五条と夏油を止めたのは一度や二度の話ではない。
本音を言えば誘拐犯だけではなく、ヤクザである彼らもまとめて手錠をかけたい。しかしながら、なかなか尻尾を出さない。証拠がなければ捕まえられないところに、確実に黒だと連行されてきた五条と夏油に内心ガッツポーズをしたものの、実際は真っ白だったことが判明し、落胆する気持ちを抱えながら彼らの釈放に向けて、上司の楽巌寺に頭を下げ、本庁の中を駆けずり回ったのだった。
そんな歌姫の苦労など知らない五条は、当たり前の如く反論の声を上げた。
「そりゃお嬢と冥さんのお陰に決まってんじゃん。別に俺ら何一つ悪いことしてないし、歌姫に言われる筋合いなくない?」
「悟、その話はもう警察の不手際≠チてことで話がついただろう? まぁ、恩着せがましい女性はモテないのはたしかだけど」
「私の方が年上なんだよ反社ども……! 尻尾出したら速攻捕まえてやるから‼︎」
息を巻く歌姫に「いつになることやら」と言いたげな五条と夏油はやれやれと見下した視線を向けた。それが余計に歌姫の荒んだ心にできたささくれを刺激する。
火に油を注いでいく彼らの間に、それまで大人しく後ろをついて歩いていたお嬢が割って入った。
「私は久しぶりに歌姫ちゃんに会えて嬉しかったよ!」
徹夜明けの歌姫には眩しすぎる笑顔。目が痛い。直視できない。いっそこのまま灰にしてくれ。
何故か自暴自棄になる歌姫を現実に引き戻すように、お嬢はギュッと両手を包み込んだ。
彼女が歌姫と会う際は何かしらの事件に巻き込まれた時でしかない。警察とヤクザの孫娘との接点などそれ以外に持ちようがない。だというのに、それを「嬉しい」の一言で片付ける彼女の能天気さについ呆れてしまう歌姫は、こめかみに指圧を与えながら眉間に皺を刻んだ。
「あのね、わざわざ刑事に会いたがるなんてアンタの周りのヤクザたち、みんな肝冷やしてるわよ」
「違うよ! 刑事じゃなくて歌姫ちゃんだから会いたいんだよ」
「グ……ッ」
何の曇りもない無垢な言葉によって見事に心臓を撃ち抜かれた。しかし、疲労困憊の心には効きすぎる。歌姫は不整脈に胸を押さえた。
……いい子だ。ちょっと抜けてるけど、いい子すぎる。
自分の中にある負の感情が浄化されていく。顔を上げると「俺/私たちが育てました」と顔に書いた五条と夏油が満足げな笑みを浮かべていた。
「何がどうなったらアンタらみたいなクズのもとでこんな子が育つのよ……」
歌姫は日が上り始めた抜けるような青い空を仰ぐしかなかった。
◇◇◇
「それで? これからどうすんだよ」
後部座席に乗り込みシートベルトを締めたお嬢は、甚爾の呼びかけに首を傾げた。
「何が?」
「お前、何のために家出してたんだよ」
「あ」
思い出したように声を上げた彼女に、甚爾は「んなことだろうと思った」とため息を吐いた。
「結局実家に連れ戻される羽目になるなら家出する必要なかっただろ」
「うぅ……ひどい」
お嬢の頭の中からは、当初の目的がすっかり抜け落ちていた。乗り込んでしまった車は新田の運転によって着実に実家へ向かっている。
そうだ、新田ちゃんなら頼み込めば途中で止まってくれるかもしれない。それなら隙をついて逃げることもできそう。
そうひらめいた彼女は、ふと後ろを振り返った。後続車には青い顔でハンドルを握る伊地知と、不機嫌丸出しの五条たちが煽り運転並みに近い車間距離で張り付いている。
これじゃあ逃げ切るのは無理だ。しょぼくれる彼女を横目に見ていた甚爾は、食い入るように観察した上でグイッと細い腕を引き寄せた。
「逃がしてやろうか?」
運転手の制圧くらいどうにでもなる。後続車を振り切るのも多少荒々しいカーチェイスを繰り広げることにはなるが、できないことではない。
甚爾はルームミラーに写る顔を引き攣らせた新田の視線を感じながらも、無視を決め込みお嬢を見つめた。
惑う瞳。考えていることが顔に出やすい。そこが彼女の良いところでもあり、悪いところでもあり、そして愛らしいところでもあった。
庇護欲を掻き立てるその仕草に、甚爾は迷うくらいなら逃げるべきだとシートベルトに手をかける。しかし、その手は彼女によって制された。
「……いい。やっぱり、ちゃんと話さなきゃ」
「へぇ、心変わりでもしたか?」
「わかんない。……悟くんも傑くんも怖かったけど、嫌いだとは思わなかったから」
優しい彼らのことが大好きなだけに、納得のいかないことで怒られ、ぶつかってしまったことがショックだった。それでもこれまで共に過ごしてきた時間は変わらないし、彼らを大切に思う気持ちは変わらない。
「ずっとケンカしたままは、やっぱり良くないよね」
「ケンカ、ねぇ?」
あれは果たしてケンカの域に留まるのだろうか。疑問を抱く甚爾を、彼女は真っ直ぐな目で見つめた。
「それでも、トウジが一緒に逃げてくれて嬉しかったよ」
甚爾は彼女の瞳に宿る無数の光に照らされる。それがどうしようもなく居心地が悪かった。
己が一生持ち合わせることのない純粋無垢な真っ直ぐな煌めき。過去にはそれを傍に置きたいと思ったこともあった。しかし、身の程に合わない不釣り合いなものを一度でも欲してしまったから、どん底にまで落ちてしまったのだろう。
そう言い聞かせるように瞬きを繰り返す。身を持って光を失う絶望を味わったというのに、どんなに顔を背け闇を見ようとも、照らし出されることの暖かさは拭えない。忘れようとも忘れられない、その感覚に再び手を伸ばしてしまった。
その手が届くよりも早く、彼女の両手が頬に触れた。細く、小さく、あまりにも頼りない手のひら。しかし、見た目以上の力強さと温もりに、目を逸らすなと言われた気がした。
「ちゃんと考える時間ができたのもトウジのおかげ」
彼女は「ありがとう」と緩く口角をあげ目尻を下げる。
甚爾は眩しさに目を細めた。それを悟られないよう「そーかよ」とそっけなく言い放っては、少々手荒く彼女の頭を撫で髪を乱した。