十五、喜怒哀楽・春夏秋冬 伍
──夏
羂索殿のことは結局、宿儺様に伝えるよりも早く本人がやって来たこともあって、私の口から事情を伝えずに済んでしまった。度々新しい本を持って訪れては、読み終えたものを返し、感想を伝える。ここ最近はこの繰り返しだった。
宿儺様はあまり良い顔はしなかったけれど、それ以上何も言うことはなかった。善意でやってくれているのなら私も邪険にはできない。それに羂索殿の持ち寄る本はどれも興味を引くものばかりで、しばしば時を忘れて読みふけることもあった。
最近読んだのは
人がいるから呪いが生まれる。それならば、私は人がいなければ生まれなかった。それが知れたことは、とても大きなことのように思えた。何かしら成長の糧になればいい。そしていつか、宿儺様に認められたら、再び私を傍に置いてくれるだろうか。
闇の中で瞼を押し上げた。いつの間にか眠りに落ちていたらしい。外はすっかり日が落ちている。月明かりと蛍の光だけが浮かぶ夜。灯りをつける気力すらなく、私はすっかり枯れ枝になってしまった桜を撫でた。
しばらく宿儺様が帰っていない。明日で七日か、八日か。そうやってただ過ぎて行く日を数えることも恐ろしくて何もできずにいた。
読書にかまけ、本来の役割を疎かにしてしまっていた節も否定できない。だからこそ、屋敷の番を放棄してまで探しに出ることもできず、ただこうやって塞ぎ込むしか術がない。
じっとりと生ぬるい闇が肌に張り付く。うつらうつらと再び眠りに身を投じようとした時、屋敷のどこかから微かな物音が聞こえる。
私は飛び起きて外に出た。屋敷の正面に回り込むと階の前に見慣れた草履があった。宿儺様のものだ。
──帰ってきた。帰ってきたんだ。
自分の履き物を乱雑に脱ぎ捨て、宿儺様の部屋へ走る。一刻も早く宿儺様に謝り、捨てられたわけではなかったと今すぐにでも安堵したかった。
回廊が嫌に長く感じた。はしたないと分かっていても、足を止められない。
「宿儺様……!」
几帳によって遮られた空間に足を踏み入れる。そこにいたのは宿儺様ではなかった。
「──は、」
はだけた女が横たわっている。
何故、こんなところに。そんな疑問を呑み込んで恐る恐る近寄る。よく見ると、相手の顔に見覚えがあった。羂索殿の妹分の白拍子だ。
「死んでる……」
可愛らしい顔は苦悶に歪み、首元が見るに耐えない角度に曲がっていた。生温い血の感触。事切れてからそう時間は経っていないらしい。
一人でやって来たのなら、屋敷の周りに張った結界を突破したことになる。それならばたとえ夢の中だとしても気がつくはずだ。
そうでないとすれば、可能性は一つしかない。宿儺様の草履があったということは、招き入れたのは宿儺様だ。
ぐらぐらと回る視界に膝をついた。彼女は白拍子なのだ。欲を宥める相手をしてもおかしくはない。用済みとなった後に手をかけたのならばこの状況にも説明がつく。
そこまで結論づけたところで、嫌でも二人の情事の様子が脳内に過ぎる。カッと目の前を走る閃光。身体の奥から湧き上がる熱。それが怒りなのか、悲しみなのか分からないまま、震える手を原型すら留めていない彼女の首へ伸ばす。
知らないうちに力を込めていた。徐々に締めあげる手の内で、冷えていく血。それが余計に混乱させる。
「死屍に鞭を打つとは、余程のことだな」
突如背後からかけられた声に、我に返る。
「楽しそうで何よりだ。暇の間に史記でも読んだか?」
首にかけた両手に、宿儺様の手が重なった。力を緩めると、張り詰めていたものが決壊する。肩で息をしながら、ゆっくりと宿儺様を見上げた。
「あぁ、汚れてしまったなぁ。清めてきたばかりだというのに」
「申し訳、」
「千乃」
謝罪を遮った宿儺様は四つの目を据える。威圧と共に、血に汚れた私の両手首を掴んだ。
「何をしていた?」
「あ、あ……」
「まさか言えぬわけではないだろう?」
なぁ? と耳元で囁かれる。背筋が凍りつき、昂った感情が引いていく。同時に、己がしでかしたことの意味を考えると、おぞましくて仕方がなかった。
それでも宿儺様に問われたなら、言わなければならない。恐れながら、と私は震える声を絞り出した。