十四、喜怒哀楽・春夏秋冬 肆
屍を越えた先に宿儺様がいた。倒壊した屋舎の残骸を踏み分け、一人佇む主に声をかける。
「宿儺様、もうよろしいのですか」
「ああ。それなりの暇つぶしにはなった」
「それはよかったです」
瓦礫の山から降り立った宿儺様は、ところどころ薄く汚れているが傷は一つも見当たらなかった。
宿儺様が負けるわけがない。その絶対的な信頼があるからこそ、あの桜の樹の下で人々が逃げ惑う中、和やかに土煙が上がる様を見られたのだと思った。
「一人で来たのか」
「はい、裏梅さんは夕餉の準備をするために先に帰られました」
「そうか」
必要最小限の会話。それでも以前ほど沈黙は怖くなかった。居心地の悪さなど、とうの昔にどこかへ置いてきてしまった。
軽い足取りの帰路に風が吹き荒れる。目を瞑ってしまうのがもったいないと思わせるほどの桜吹雪に包まれた。
「綺麗ですね。こうも風が吹くと早く散ってしまいそうで名残惜しいです」
舞い上がった花弁は道を埋め、傍の川面を揺蕩っている。
フ、と小さな笑い声に顔を上げ、宿儺様を見上げる。
「随分人らしくなったものだな」
面白いものを見たと言いたげに細く引き絞られた彼の瞳に、私は足元に視線を落とした。
「……以前はつまらなかったですか?」
「以前?」
「京にいた頃です。今の方が楽しまれているように見えまして……」
訝しげな声が降る。何故そんなことを聞くのか不思議でたまらないのだろう。
理由を説明するには時間がかかりすぎる上に、言葉が纏まらない。口を閉ざした私の代わりに、宿儺様が口火を切った。
「あの生活に飽きが来たのは事実だ。しかしまあ、興味を引くのが近くにいたからな。退屈ではなかった」
え、と声を漏らすけれど、宿儺様は気にせず言葉を続けた。
「お前の一人思い悩む様は愉快だったなぁ?」
「それは……」
私は視線を彷徨わせる。己の失態を思い返すとどうしようもない気持ちになった。言葉尻が弱くなるのも止められず、そのまま押し黙った時ふわ、と体が浮遊した感覚に陥る。
「あ、あの……宿儺様?」
降り立った先は、宿儺様の腕の中だった。何が起こったか分からず目を丸くする。
宿儺様は頰が触れ合いそうなほどの距離でその様子を見つめていた。そして、ようやく私の問いかけに応えた。
「泣いたのかと思ってな」
「それで、何故」
抱き上げる必要はないだろう。そう思いながら首を傾げる。
「お前の泣き顔はまだ見たことがない。見逃すわけにはいかないだろう」
「……は、はぁ」
結局訳が分からず、再び首を傾げることとなったけれど、正直それどころではなかった。宿儺様の顔が近い。近すぎる。その上、身体を支えるために何気なく宿儺様の首元に触れてしまった。回した腕にはそれ以上に意味はないのに、何故だか自分から求めているかのように錯覚させる。
早く下ろしてもらわなければ気持ちが持たない。そんな私の内心を知らない宿儺様は桜の樹を見上げていた。
「どの枝が一番美しい」
「え……?」
「名残惜しいのだろう? 生ければ一番近くで散り様まで眺められる」
戸惑う私に「して、どれだ」と選択を迫った。
「ええと、ではあれを」
私はとっさに陽の光を一番に浴びた先端の枝を指差した。宿儺様は刀印を結び小さく手を振る。バサ、と落ちてきた枝は、ちょうど良い長さで切られていた。
「ありがとうございます」
宿儺様の気遣いが嬉しい。私の言葉に気を止めてくれることが嬉しい。あたたかくも締め付けるような想いと共に、桜の花が潰れないよう気を払いながら優しく胸に枝を抱く。
「それで、その。自分で歩けるので、そろそろ……」
「帰り着けるのなら何でも構わんだろう」
「お手を煩わせるわけにはいきません。それに、は、恥ずかしいので」
自分の口から出たのかも定かではないほどか細い声だった。
宿儺様はニヤリと揶揄うように片方の口角を釣り上げる。
「では泣き顔の代わりに恥じらう顔でも見せてもらうとするか」
じい、と食い入るように私の表情を見つめるまっすぐな視線から逃れたくてたまらない。
「どうせ誰も見ていないのだから気にすることなどないだろうに」
「それはそうなのですが……宿儺様には見られているので」
何を言っても無駄だと悟りながらも、口の中でそう呟く。
いつまでもこうしていれば、人々と鉢合わせてしまうのも時間の問題だろう。夕餉を作っている裏梅さんを待たせることになってしまうならば、私が一人我慢してこのまま宿儺様に身を預けるしかない。
「ひとまず、人が帰ってくる前に離れましょう」
「恐れをなして逃げ出した連中だ。日が暮れても帰ってこないだろう」
「そうでしょうか……でも確かに、牛車が横転して道を塞ぐくらいの慌てようでしたし」
昼間の情景を思い返すと、一人の人物の顔が浮かんだ。
「あ、そういえば」
「何かあったか」
「はい。その牛車の前で羂索殿に会いまして」
「──は?」
殺気を帯びた声が先に続く言葉を遮る。恐ろしい形相でこちらを見る宿儺様に何も言えず、逃げ出せもせず、ただ腕の中で震えるしかなかった。