十七、喜怒哀楽・春夏秋冬 漆
何度欲を受け止めただろうか。明けたはずの朝は過ぎ去り、とっくに日は沈んでいる。
水面に雫が落ちると音が響いた。湯煙が紅潮した頰を撫でる。一寸たりとも身体を動かすことができない私は、ぐったりと宿儺様に身を任せたまま湯の中に沈んでいた。
「あの白拍子の女だが」
温泉ですら癒せないほどの疲労感に、半分気をやりながら目を瞑っていたが、薄らと視界を開き横目で宿儺様を見た。
「アレの狙いはお前だぞ」
「え……」
「お前を殺しにやって来たところを返り討ちにしたまでだ」
何故、私を殺そうとしたのだろう。彼女と直接関わったことは一度もない。
「恨まれる理由は思い至らないか?」
「そう、ですね」
「あの女は今の羂索の皮に固執していた。だからこそ、度々お前の元に通うのが気に食わなかったんだろう」
確かに彼女は姉様と羂索殿を慕っていた。だからといって殺したりは──
そこまで考えて彼女の亡骸に手をかけた感覚を思い出す。自分の身に置き換えてもそうだ。もし宿儺様が私を置いて他の人の元へ通っていたら、自分の感情を制御できなくなってしまう。
私は彼女を責めることはできない。宿儺様の返答によっては、私は彼女と同じことをしてしまうかもしれない。
「……聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「ここ最近、どちらへ行っていたのですか?」
己の顎から伝った雫が湯の上に落ちる。波紋の広がりと同時に、水を打ったような静けさが訪れた。
「天逆鉾の欠片の話は聞いたか」
「え、はい。日向で無くなって、大勢の術師が探している、と」
「特に天逆鉾には興味はないが、骨のある奴がいないかと脚を伸ばしていた」
「日向にですか……? それもお一人で?」
「お前には暇が必要だったろう。一生あの書物の山に埋もれて過ごすつもりか? 早く読み終えてもらわなければ発とうにも発てん」
「気遣ってくださったのですか……」
そうだと知らずに私はまたしても勘違いを……
そう肩を落として脱力したところで、あることに気がつく。
「では、あの白拍子が結界を超えて来れたのはどうしてでしょう……? 術師ではなかったはずですが」
その問いに宿儺様は深いため息を吐いた。
「先ほど話しただろう、天逆鉾について。あれを女が持っていた」
結局のところ天逆鉾の欠片を手に入れたのは影で暗躍していた羂索殿で、その羂索殿の手元から持ち出したのが彼女、という筋書きらしい。天逆鉾は発動中の術式を強制解除できる。欠片といえど、比較的簡単な遠隔の結界には難なく使えることが証明された。
「……それでは、あの白拍子がはだけていたのは……?」
「ハァ〜まだ疑うか」
「いえ、そうではなくて……ただ気になるな、と」
じとり、目を据えた宿儺様は、こめかみを抑えながら答えた。
「着物の中に仕舞い込んでいた欠片を奪い取った時にはだけたのだろうな。そんなところまで気にせん」
「左様ですか……」
私が眠りに落ちていた時に何が起こっていたか全てが繋がった。「腑に落ちたか」と問う宿儺様に首肯する。
すると、湯の中で私の腰に回っていた腕に力が入ったかと思えば、より傍に寄せられる。
「置いていくなと言ったな」
不意に発せられた言葉に、否定も肯定もせず押し黙った。
「これまで置いて行かれたと思っていたのか」
「…………はい」
しばしの沈黙の後、そう頷く。
「役に立たないから、以前なら任せてもらえていた任務から遠ざけられ、使われもせずに屋敷に置かれていたのかと」
「……なるほど」
ちゃぷん、と水面から出てきた温まった宿儺様の手のひらが頰を滑る。
「物なのだな」
しみじみとそう言った宿儺様は、その手でそっと私の頭を包み自らの胸板に寄せる。
「使役される身では分からないだろうが、使う以外でも物を大切にする術はある」
そう言った宿儺様に纏めていた髪を解かれ、手で梳かれる。はらはらと湯の上に散る髪を見届けて、その先を紡いだ。
「仕舞い込むのもまた一つの手だ」
ハッと目を見開き、宿儺様を見る。
「……私は、仕舞われていたのですか」
京にいた頃から、私はずっと仕舞われていたのだろう。外に出る任務が少なくなり、屋敷で過ごすことが多くなったあの頃は、ちょうど私が心を持ってしまったことに悩み始めた時だ。そんなに前から大切に思われて──
「そう、なんですね」
自問自答と化した呟きは、湯煙の中に溶けていった。