十八、喜怒哀楽・春夏秋冬 捌
──廻り秋
あれから幾度の季節を巡った。南の地から阿波まで行き、時には京に帰り、飛騨、蝦夷、と北の奥地まで向かった。今は坂東に身を寄せている。
あらゆる土地に行ったが、私たちはやはり人々からすれば平穏を脅かす災難なのだろう。しかし私にとっては心休まる日々だった。このまま変わることがない穏やかな日常。
紙をめくっていた手を止め、そっと閉じる。表紙に散りばめられた菊の模様を撫で、赤い綴じ紐に指を這わせる。
これは誰かの書物ではない。私の日記だった。宿儺様に買い与えてもらったこの本に日々の出来事を綴っている。
背後でゴト、と重たい音がした。いつも花を生けている壺が転がっていた。花が枯れてしまったばかりで空になっていたため、綺麗に洗って日陰に置いていたはずなのに。そんなに風が強かっただろうか、と拾い上げてみれば口の部分が欠けてひびが入っている。
大切にしていたのに、と思いながら壺を抱き上げ階に座る。割れた部分をはめてみても、すぐにポロリと落ちてしまう。
「捨て置けばよいだろう」
背後から掛けられた声を辿り、振り向く。一部始終を見ていたであろう宿儺様に、私はゆるゆると首を横に振った。
「これは宿儺様が初めて取ってくださった桜の枝を生けていたものなので、大事にしていたのです。だから、簡単に手放したくなくて」
欠けたふちに指を這わせ「それに」と言い継いだ。
「私も簡単に捨てられたくはないと思うので。物にとっては長く使ってもらえることこそが、人で言う幸せなのではないでしょうか」
「つまりお前は、長く使われたいと?」
ほう、と興味深そうにこちらへ視線を投げる宿儺様。私は迷わず首を縦に振った。
「そうか。その論だと、幸せになりたいと言っているようなものだな」
「そう、なるのですか……?」
首を傾げ考える。私は今でも十分幸せだ。けれどそれは、宿儺様の傍にいるからであって、急に手放されてしまえば絶望の淵に立つだろう。
これ以上の日々を望むことはない。そう言えば宿儺様は薄く笑った。
四季の中で最も色彩が移り変わるのが秋だ。青々と生い茂る木々が紅葉し、散っていくのを何度見届けただろうか。
市からの帰り道、ふと紅葉の赤色に目を奪われて足を止める。とある神社の鳥居の向こう側に鎮座する一本の紅葉の木。他で見かける紅葉より、深く色づいている。
どこか懐かしさのあるその色は、初めて紅葉の赤に目を奪われたあの裏山を想起させた。
「千乃?」
正面の鳥居の下。青年が名を呼んだ。
こんなところに私を知っている人などいない。それなのに、鋭い眼光を宿した瞳が見開かれる様を、どこかで見たことがあった。
「……タキ?」
そう問いかけると、彼は強張っていた肩の力を抜いた。
「どうしてこんなところに」
「里帰りだ」
幼少期にここで育ったと言う彼に、昔宮司の助言によって入京したと話していたことを思い出した。
「こんなに成長しているとは思わなかった」
膝を付かなければ視線の高さが合わなかったのに、今は何もせずとも見下ろされている。幼さが抜けきった精悍な顔付き。衣の上からでも分かる鍛えられた体躯。もうあの頃とは違うことをまざまざと見せつけられる。
「お前は本当に変わらないんだな」
懐古する気持ちとは裏腹に、居心地の悪さがじわりと胸の内に広がる。私は謝ろうとおずおずと口を開く。
「あ、あの、タキ……」
「滝夜叉だ。幼名だけどな」
「え。あ……そうなの」
伏せていた名を唐突に明かした彼に呆気に取られ、ただ頷くことしかできなかった。そんな私を置き去りにしたまま、彼は言葉を続ける。
「昔、平将門の子が入京したって噂があったの、覚えてるか?」
「うん。その話を聞いた日が久しぶりに都まで降りる許しが貰えた時で、偶然貴方に会ったから覚えてる」
「あれ、俺のことだったんだ」
え! と思わず声をあげた。ただの出まかせで騒いでいたのだと結論付けていたが、まさかあんなに近くにいたなんて。目的は親の敵討ちだと思われていたけれど、単に呪術を学びにきただけということにも拍子抜けする。
彼は平将門の妾の子で、母方のゆかりがある物部氏の氏神を祀るこの社で隠されて育てられたと語った。
「何故、今になって教えてくれたの」
あまりに複雑な出自だ。ずっと隠していても良かったはずなのに、再開して間もない私に打ち明けるのは些か不用心にも思える。
「……次に会ったら話そうと思ってたんだよ。身内には腹を割って話すもんだろ」
身内という言葉に小さく肩が跳ねた。術式を使いこなせるようになったら、彼が私の主になる。宿儺様に捨てられると確信していた私は、それに頷いてしまっていた。
後ろめたさに視線を泳がせる。そんな私を見て、彼は恨めしそうにす、と目を細めた。
「なんで来なかった」
「それは……」
言葉に詰まる。無知だった私は、何も知らずに彼を選びかけていた。それでも、結局は宿儺様への誠意を取った。今更彼に言い訳を並べても、またどっち付かずの心に揺れ動かされるだけだ。
「ごめんなさい」
目を伏せ、謝ることが今の私ができる精一杯だった。
「俺は約束通り、術式を扱い切れるようになった。お陰で次期頭領だ」
初めは自分の術式がどういう性質を持ったものか分かっていなかったが、自分が受け継いでいる可能性がある術式を調べ、あらゆる方法を試し、ようやく媒介にするものが影だと分かったと言う。
それが報われない努力だったと、彼は自嘲めいた笑みを作る。
本当ならば凄いことだと褒めたかった。けれどそれをしてしまえば、彼を侮辱しかねない。私はただ彼を見つめることしかできなかった。
「今のこの国の状況、分かってるか? 両面宿儺が行き着く先々で呪霊・術師は食い潰され、時には力の持たない者が巻き込まれる。呪霊はいい。だけど各地に分散されることになった術師を失い、税を納める民がいなくなれば平安の世どころかこの国が終わる」
押し黙った私に、彼は訴え続ける。
「民の怯えによって呪霊は増え続けている。京は以前ほど戦力を持った術師を固めて置くことができなくなった。……このまま両面宿儺を野放しにしていれば破綻するのも時間の問題だ。それは分かるだろ?」
「私は、すでに多くのものを見過ごしてきた。理解できたとして、今更……」
その先を言葉にせずとも伝わったのか、彼は表情を引き締める。鋭い眼差しで私を射た。
「宿儺を討ち取る」
「……そう」
固い意志を前に一言呟く。安易に聞き流したわけではない。いくら説き伏せられようとも、私の意志もまた揺るがない。
「お前はどうすんだよ」
「私の主は宿儺様だから。一緒には行けない。……嘘つきでごめんなさい。でも、ずっと信じてくれて嬉しかった」
きっともう二度と関わることのない彼との決別。表情を変えずただ私に視線を注ぐ彼に踵を返し、道なりに行く。
追われていないと確信できたところで、ようやく足を止めた。
「宿儺様が負けるわけがない」
以前国を挙げて挑んできた時も、術師側の敗北で終わった。いくら束になったところで、同じことの繰り返しだ。
──そう思っていた。