それさえもおそらくは平穏な日々 #01




穏やかな春の日差しが降り注いでいた。
五条悟の級友である夏油傑と家入硝子にとって、その日は貴重ともいえるべき平穏な日常になるはずであった。
しかし、麗らかな春の陽気に包まれて失念していたのだ。
何から何まで規格外の男である五条悟の近くにあって、平穏な日常など一番遠くにある幻のオアシスであるということを。

「だーかーらー、ひゅーっとやってひょいっだよ。ひゅーひょいっ。分かんない?」
「分かるかよ!」
「ちっ、センスねぇーなー」
「センスの問題か? お前こそ人にものを教えるセンスをどうにかしろってーの!」
「まぁまぁ、悟も落ち着いて。そもそも反転術式なんてそう簡単にできるものじゃないのは分かっているだろう?」
「ちっ、簡単にできてたら今頃こんなに苦労してねぇよ。って、――あ、」
「ん?」
「あー、新入生の入寮日って今日だったっけ」

家入の呑気な声を聞き、夏油は五条から前方へと視線を移した。
行儀悪く咥え煙草――流石に火は付けていなかったが――で前方を指す家入に「やめなさい」と注意するのも勿論忘れてはいない。
さて、その視線の先には、寮に入って直ぐ、共有スペースである談話室前に一年担当の教師と真新しい制服に身を包んだ三名の学生が見えた。
教師が二言三言話してのち、男子生徒二名を連れて男子寮に向かったところを見ると『先に男子寮を案内してくるから待っていろ』とでも言われたのだろう。

「ふーん、うちらと同じで男2の女1ねぇ、かわいそー」
「私達と同じことのどこが可哀想なのかは敢えて聞かないでおくよ、硝子」

と、それまで夏油の隣にいた五条が、いきなりその新入生らしき女子生徒めがけて走り出し、そしてあろうことか、“がばっ!” と効果音が付きそうな勢いで抱きしめたのである。

「律――!」
「ぐえっ、」

女子生徒の口から飛び出したまるで蛙が潰されたような声は、果たして聞かなかったことにしたほうが親切なのだろうか。
しかし、締め技と化した抱擁を繰り返す五条と半ば落ちかけている女子生徒を目の前にして、“弱きを助け、強きを挫く” をモットーとする夏油は、このいかにも面倒くさそうな案件に首を突っ込むことにしたのであった。

「悟、ちょっと落ち着きなさい。その子死んじゃいそうだから」
「お? ―――おぉ、律、大丈夫か? 久しぶり過ぎて加減間違えた」

だが、加減間違えたと言いつつ悪びれた様子のない男は、今度は両手で女子生徒の頬をつかむとグイっと上向かせ、自身の顔を鼻先が触れんばかりに近づけるのであった。

「こらこら、だから落ち着きなさいって」
「オマエさー、酷くない? 俺、春休みは家に帰るって言ってあったよねー。なのに、なんで向こうに行っちゃうわけー?」
「悟、ホントに落ち着き―」
「いや私、入寮前の春休みは実家に顔出すからって言ったよね? ってゆーか、首痛い、離して」
「ほら、悟―」
「えー? でもさー、許嫁の俺と会う以上に重要なことなんて無くない?」
「悟クンうざい。離して」
「ほらほら――って、え?」
「許嫁ー!?」

――今まで遠巻きに見ていた癖に、そういうところにだけは食いついてくるのが家入硝子である。

何だか色々とカオスであった。
そしてやはり、この男の近くに居て平穏な日常など一番遠くにある幻のオアシスだということを思い知り、夏油傑は痛む米神を押さえるのであった。


□ □ □



「この春、呪術高専に入学したピッカピカの一年生、折原律ちゃんでぇーっす! んでもって、俺の許嫁ー! 可愛いだろー?」

にやけた顔を隠しもしない五条は、二人掛けのソファーに悠然と座りその膝の上に件の女子生徒を座らせて後ろから抱きかかえている。
それに至るには、二人の間で色々と攻防があったのだが、結局のところ五条の我儘がまかり通ったようである。

「…すみません。あの…、こんなお見苦しい状態で…」

恐縮しきりといった様子の折原は、今時の女子高生にしては珍しく化粧っけのない顔をしていた。
五条は『可愛いだろー?』と言っていたが、目鼻立ちがハッキリしている分、どちらかと言うと “キレイ目” に分類される相貌だろう。

「いや、こちらこそ、驚いたとはいえ変に騒いですまなかったね。私は悟の同期で夏油傑。よろしくね、折原さん」
「あたしは家入硝子。よろしくー。まぁ、驚いたっちゃあ驚いたけど、でも五条の家柄考えたらそーゆーの普通なのかもねー。しっかし、アンタ本当にソレが許嫁でいいの? 人様の結婚相手を悪し様に言うのもなんだけど、そいつ本当にクズだよ?」
「あー、いやぁ、もう、性格はどうにもならないので…」

夏油も家入も「あ、やっぱり性格に問題ありなんだ…」と思ったが、五条本人は気にしていないらしく、先ほどから鼻先で折原の後ろ髪を弄っては叩かれるということを繰り返していた。
そして折原はというと、五条のセクハラにも見えるスキンシップに慣れているのか、はたまた弱みを見せたら敗けだとでも思っているのか、羞恥の色も見せずにけんもほろろな態度を貫いている。
何とも、どちらに対して気の毒と言うべきか。

「折原、待たせたな!………なんだ、全然待ってない感じだな」

男子寮の案内を終わらせたらしい教師の登場である。
やっとこのカオスを収拾してくれそうな大人の登場に夏油は安堵の色を顔に浮かべたのだが、そこは一般常識から乖離した呪術界に身を置く者、この教師もまたちょっとばかり非常識な人間であった。

「はっはっはー! いやー、折原の三者面談の時にお前のお袋さんに言われたんだよねー、『うちのバカ息子、この子のことになると緩んだネジが吹っ飛びますので、本当にご迷惑をお掛けすると思うんですがー』ってな。いやー、早速だとは思わなかったわ。あ、家入、女子寮の案内頼めるか?」
「いいっすよー」
「じゃ頼んだ。折原、他に分からない事あったら先生は職員棟にいるから。――五条、不順異性交遊はほどほどにしろよー」

そういうと、一年担当の教師は豪快に笑いながら談話室を出て行ってしまった。

それでいいのか学校教育。

「不純異性交遊だってさー律。俺たちエッチどころかまだ――むぐっ」

教師の背中から視線を戻すと、慌てたように両手で五条の口を塞ぐ折原の姿があった。流石にその発言には羞恥を覚えたらしい。

―――まだチューもしてないのにー、といったところだろうか。

1に呪術で2に呪術、3、4も呪術で5も呪術の呪術高専で、よもや親友の性事情を知る日が来るとは思っても見なかった。というか正直知りたくなかった。
夏油が自身の思考が若干遠のくのを感じ始めたとき、折原が仰け反るように五条の口元から手を離した。
五条が折原の腰に手を回していなかったら、たぶん、五条の膝から転げ落ちていただろう勢いだ。

「オマエ、久しぶり過ぎて俺の扱い方忘れてるんじゃねぇ?」

にやけ笑いもそのままに、五条は口元にチロリと舌を覗かせていた。

エッチどころかまだ――のカップルが行う平均的なスキンシップがどんな物なのか夏油には分からなかった。いや、分かりたくもない。切実に。
突っ込むべきか見なかったことにするべきか、夏油は救いを求めるべく隣に目を向けたのだが、もう一人の級友はオヤジ臭い笑みを浮かべ現状を楽しんでいた。どうやら普段よりネジの緩んだ五条の様子が相当面白いようである。

そうして夏油は仕方なく前に向き直ると、今度こそ本当に自身の思考を放棄したのであった。


□ □ □



「まぁ、冗談はさておき」
「……悟、今までの何処に冗談があったんだい?」
「いーから、いーから。―――よっと。オマエ昼メシまだなら外に食いに行く? ついでに街中案内してやるよ」

そう言いながら折原を立たせると、五条は彼女のスカートをはたいた。
どうやらスカートに付いた折り皺を伸ばしてやっているらしい。
男女に関係なく不躾が基本の五条だが、意外なことに自分の彼女には気が使えるようである。

「あ、それ助かる。日用品買いに行きたかったんだよね」
「じゃあ、先ずは寮の案内してもらって来な。――ってことで、硝子よろしくー」
「はいはい。んじゃ、行こっか」

夏油は二人が談話室から出ていくのを見届けると、未だにひらひらと手を振っている五条に向き直った。

「それにしても、意外だったな」
「なにがー?」
「悟なら、親の決めた許嫁ななんてバカバカしいってブッ千切りそうだからね」
「あー、まぁ、最初はねー、俺もそう思ったんだけどー」
「……けど?」
「けど、……聞いてよぉ! 傑サン!」
「いや、なんでいきなりオネェ言葉なの」
「まぁ、まぁ」

まぁまぁと言いつつ、五条はご丁寧にも掌を胸の前で組んでシナまで作っている。
所謂乙女ポーズであるが、それなりに体格の良い、身長190センチ近くの大男がやるポーズではない。

「ほら、うちってさ、呪術なんか知らないパンピーでも知る人ぞ知るの旧家で名家じゃん? んで、跡取り息子の俺がこの通り美貌が過ぎちゃってるからー、…何?」

自身の顔面偏差値の高さに自覚があるとこういう発言のできる人間になるのか、つくづく自分は平凡で良かったと思わずにはいられない夏油であった。

「……いや、何でもないから続けて」
「そう? まぁいいや。んで、妬み僻みで絡んでくるガキンチョが多くてさ、小5の頃だったかな、これからクソ怠い学校だってぇのに、朝っぱらから絡んで来たのがいてー、たまたま近くに俺にビビって隠れてた蠅頭がいたから嗾けたことがあってさー」
「…………」
「しったらー、律がさ、いつもは黙って俺の後ろについてるだけだったのが、手刀一発で蠅頭祓って、いきなり『ちょっとそこに座んなさい』って正座させるわけ」
「……通学路で正座」
「そ、通学路の道っ端でねー」
「プッ、悟がランドセル背負って、通学路で正座……ウケる」
「うるせーよ、話逸れんだろーが。…んでぇ、あーだこーだとお説教した最後に一言『そんな卑怯な男の嫁になるつもりないから』って言うわけよ」
「……それはまた、ずいぶんと男前な女子児童だね」
「でしょ? いやー、もう、惚れたねー。五条悟、真っ逆さまにフォーリンラブ! って感じ?」

五条は乙女ポーズから一転、今度は片手を胸にもう片手を空高くに掲げた王子様ポーズを決めていた。
色々と忙しい男である。

「フォーリン…って、もういいやソレで」
「でー、中坊の時にさー、ちょーっといい雰囲気になったことがあったんだけど、なーんか感づいた親父に呼び出されてさ、ある程度大人になるまではーとかなんとか言われて、まぁ、早い話釘刺されたんだよねぇ」

ここに来て話が先ほどの “まだ――” に戻り、夏油は今度こそ、思考どころか魂まで放棄しそうになった。

「……ま、まぁ、親御さんの立場なら当然の心配だろうね」
「けど、ある程度の大人って、何それ? って思わねぇ? 成人式まで待てとか絶対無理だし。で、俺も考えたわけ。女って16で結婚できるじゃん? ある程度の大人のラインってそれでよくねぇ? って」
「悟…、それ、彼女の同意は得ているのかい?」
「……たぶん?」
「……なんでそこ疑問形なの」
「んー、一応、16歳の誕プレは俺だからって、言っては、ある」

たはーw と笑顔で誤魔化す気らしい五条に、夏油はもう何も言うまいと、心の中で折原律に手を合わせた。



さて、その折原律の誕生日、五条悟が無事誕プレを受け取って貰えたのかどうか、それはまた別のお話である。




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