それさえもおそらくは平穏な日々 #04




あれから一年が経った。
今年は特に残暑が厳しく、九月に入ったというのに、朝晩の涼しさも未だ訪れてはいなかった。
あの日、星漿体を死なせてしまったものの、襲撃犯を排除した功績が認められた五条は、夏油とともに特級呪術師に昇格した。
一人で任務を受けるようになり、夏油とコンビを組むこともなくなっていた。
もう、随分と夏油の顔を見ていない気がした。

「…は?」
「何度も言わせるな。…傑が集落の人間を皆殺しにして行方をくらませた」
「聞こえてますよ。だから『は?』つったんだ」
「傑の実家は既にもぬけの殻だった。…ただ、血痕と残穢から、恐らく両親も手にかけている」
「んなわけねぇだろ!」
「悟、俺も…何が何だか分からんのだ」
「―――っ!」

2007年9月
夏油傑は派遣先の集落で住民112名を殺害後逃走。
呪術規定9条に基づき、呪詛師として処刑対象となった。

家入からの連絡で新宿に駆けつけた五条は、夏油を正面から見据え問いただした。意味のない殺しはしないはずじゃなかったのかと。しかし夏油は冷めた目で意味も意義もある、大義ですらあると返す。そして、君は五条悟だから最強なのか、最強だから五条悟なのかと問うた。
五条には夏油が何を言いたいのか分からなかった。
殺すなら殺せそれには意味がある、そう呟いて、夏油は五条に背を向けた。
五条は、術式を発動させることも、その背中を追うこともできずに立ち尽くした。

「何故、追わなかった」
「…それ…、聞きます?」
「……いや、いい、悪かった」

五条は呪高に戻ると、夜蛾に事のあらましを報告した。

「先生、俺、強いよね?」
「あぁ、生意気にもな」
「でも、俺だけ強くても駄目らしいよ」
「………」
「俺が救えるのは、他人に救われる準備がある奴だけだ」

夏油は、五条に助けを求めずに、独りで悩んで、独りで答えを出してしまった。
お互いがお互いを親友と言って憚らなかった。
そのたったひとりの親友は、もういない。
五条は、自分も変わらなければならないと、そう思った。


□ □ □



夏油が呪高を去って、もう直ぐ一月が経つ。
一人で任務をこなす事にもすっかり慣れてしまった。
灰原が死に、慕っていた夏油が去ったことで五条に対する七海の風当たりがきつくなったが、分からなくはないので黙認している。
それよりも、七海と自分の間に挟まれている折原が心配だったが、黙々と日々を過ごしている姿を見ていると何も言えなかった。

そんな折原を労わりたくて、久しぶりに何の予定もないこの日、五条は彼女を自室に呼んで何もしないだらけた休日を楽しんでいた。
雑誌を見る折原を後ろから抱きかかえ、甘いミルクティーを啜りながら時々ちょっかいをかける。何度も繰り返すと煩そうにあしらわれるが、ちょっと耳元で囁いてキスをすると黙ってしまうのが可愛い。

「――あ、そうだ。律、再来月の結納の話聞いた?」
「ううん?」
「夕べさー、律のお袋さんから連絡が来て、12月10日よろしくねーって言われてさ、僕、思わずなにが? って聞いちゃったよ」
「あらあら」
「で、慌ててお袋に電話したら、10日の月曜日が大安だから、その日に決めたのーって。いや先ずは当事者の僕らに言うことでしょ、それって」
「まぁ、でもお家のこと切り回してるの、お母様ひとりだからねぇ。うっかりしてたんじゃない?」
「そうかも知れないけどー、お袋って僕の扱いけっこう雑だからなぁ」
「まぁまぁ…」

再来年最終学年に上がる五条は、呪術高専卒業後、一般大学の教育学部に編入する予定でいる。
教員免許取得のためである。
教育に自分の夢を見い出した五条は、後進を育て、呪術界の変革を目指すことにしたのだった。

そして、五条はあれから一人称を“僕”に変えていた。
夏油に指摘された時には直す素振りなど見せなかったのだが、教育の道に進むと決めたとき、五条なりに思うところがあったようだ。

「あっという間だったなー」
「ホントにねー。色々(””)あったからねー」
折原が悪戯な笑みを浮かべている。
その表情から察するに、“色々” とは、たぶん、あの日しでかした五条の暴走の事を言っているのだろう。

「……ちょっと、色々に凄い含みが感じられるんだけど、僕の気のせい?」
「さぁ、どう思う?」
「……頼むから、その詳細は伏せて置いてくれる?」
「後でこっそり教えてあげようか?」
「教えてくれるなら、その後にしてくれたお仕置きの方が嬉しいんだけど」
「……悪い事したからお仕置きされたんでしょ? 忘れたの?」

あれから何度もこの場所で肌を合わせているが、折原があの日のことを話題にするのは初めてだった。
やはり、結納を前にして釘を刺されているのだろうか。
まぁ、今さら亭主関白を気取るつもりは毛頭ないので、いくら刺してもらっても構わないのだが。

五条は折原の手から雑誌を取り上げ、自分が持っていたマグカップと共にサイドテーブルに置くと彼女を抱きしめたままゴロリとベッドに寝転んだ。
何が楽しいのか折原はクスクスと笑っている。
息のかかる胸元がじんわりと温かい。
視線を下げると少し伸びた襟足からうなじが覗いた。
あの日五条がつけた咬み跡は、目を凝らさなければ分からないほどに薄くなっていた。

「また悪い事したら、お仕置きしてくれんの?」
「……お仕置き欲しさにとか、やめてよね」
「じゃあ、いい子にしてるからさ、ご褒美頂戴よ」
「……ま、また今度ね」

思い出して恥ずかしくなったのか、折原は首筋まで真っ赤に染めて顔を伏せてしまった。
まぁ、今日はいい。
ただ、今は、秋の日差しに包まれて微睡みたい。
五条はそこへひとつ唇を落とすと、「期待してる」と呟いて折原をゆるりと抱き締め直した。


□ □ □



「このたびは、律様と息子悟に素晴らしいご縁を頂戴いたしましてありがとうございます。本日はお日柄もよろしく、これより結納の儀を執り行わせていただきます」

2007年12月10日
その日、都内のとある料亭の一室で、五条悟と折原律の結納の儀が執り行われていた。
床の間に敷かれた緋毛氈の上に、冬の日差しが柔らかなコントラストを描いている。

「そちらは悟からの結納でございます。幾久しくお納めください」
「ありがとうございます。幾久しくお受けいたします」

決まりきった固い口上とは異なり、雰囲気は実に和やかであった。
それもそのはず、折原は小学校に上がると同時に五条家で共に生活をしていたのだ。五条の両親にしてみれば、律は既に実の娘のような存在である。また折原家にしても、その時から親戚付き合いが始まっていたので、気持ち的には「堅苦しい挨拶は抜きにして」と言ったところだろう。

「このたびは婚約記念品として、悟さんから婚約指輪を頂きました。すでに指に着けていますが、改めて皆さんにお披露目させてください」
「このたびは婚約記念品として、律さんから腕時計を頂きました。これから始まる結婚生活とともに、長く大切に使っていきたいと思います」

婚約記念品は五条の提案で指輪と腕時計にした。
五条が、男の自分が指に嵌めるのは、結婚指輪ひとつで充分だと考えていたからだ。

「本日は誠にありがとうございました。おかげさまで無事に結納を納めることができました。今後とも末永くよろしくお願いいたします」
「こちらこそありがとうございました。今後とも末永くよろしくお願いいたします」

結納後、祝い膳を囲んで、ようやく両家共に口調が砕けたものに戻る。

「悟君、卒業後は大学行って教免取るって?」
「うん、そのつもり」
「じゃあ、式は大学卒業してから?」
「んー、僕としては、入籍も式も来年にしたいんだけどー。律はどーしたい?」

折原は口に入れた強肴を咀嚼しながら、ちょっと考える素振りを見せた。

「…来年? …いや、まぁ、良いけど…」
「来年ねぇ、お母さん学生結婚は反対しないけど、二人とも寮でしょ? 新居はどうするの?」
「ほら、うちの学校、家族向けの職員寮があるじゃん? そこに入れないかなぁって。――あ、律、この酢の物旨いよ」
「えー、職員寮? さすがにそれは無理じゃない? あ、ホントだ美味しい」
「あら、駄目元で学校に聞いてみたら? それとも、お母さん聞いてみようか?」
「いや、聞くなら僕が自分で聞くよ。それに、僕としてはそれとは別にちゃんと “愛の巣” が欲しいんだよねー」
「……っ、ゴフッ」

椀物を手にしていた折原が慌ててハンカチで口元を抑えた。

「なんでそこでオマエが吹くんだよ」
「ギリギリセーフ…っていうか、“愛の巣” って、自分で言ってて恥ずかしくない?」
「オマエ、マジ後でしばくからな」
「あー、それなら、広尾の物件に空きがあったはずだぞ」
「親父の?」
「いや、悟の名義じゃなかったか?」
「あー! 広尾の駅前の、親父に管理頼んでるタワマン!」
「そう、それ。…確か、最上階が空いてたと思ったなぁ」
「ペントハウスかー、いいねー。律、そこにしようよ。後、茶わん蒸し、甘くて美味しかった」
「分かった、食べていいよ。……っていうか、せめて内見ぐらいさせて欲しいんだけど」

五条は折原から茶わん蒸しを受け取ると、ホクホクした顔で滑らかな表面にスプーンを差し入れた。

「じゃあ、この後行く? でも、あそこなら律も気に入ると思うよ」

タワマンの持ち主本人と管理人が揃って居たため、あれよあれよと言う間に内見の予定が決まってしまった。
どうやら、入籍よりも挙式よりも先に、新居が決まりそうである。


□ □ □



「おー、律。結納どーだった?」
「……硝子先輩」
「なんか、ずいぶんとお疲れのようだね」
「……新居が、決まってしまいました」
「…それはまた、ずいぶんと早い展開」
「えぇ、そんなわけで、今後用事のない週末はそっちで生活することになるかと…」
「場所は?」
「広尾の、駅前にあるタワマンの最上階です」
「ヒュー! ペントハウスか、家賃高そー」
「それが、悟クンの資産だからタダなんです」
「さすが金持ち。律も金持ちの奥様街道まっしぐらだねぇ」
「ホント、そんな感じです」

結局あの後、両家の両親が揃った大所帯でタワマンに行き、ペントハウスツアーをしてきたのである。そして、『あら、広くて良いじゃないのー』と言う五条母の一言であっさりと新居に決まってしまったのであった。
いや、広いキッチンも魅力的だったし、ゲスト用とは別に、主寝室にバスルームやパウダールームが独立してあるのも魅力的だった。周囲に他の部屋がないペントハウスだから一軒家のような雰囲気もあるし、眺めも最高だった。何より五条本人の資産だから家賃もないし。

許嫁として、折原が五条家で暮らし始めて10年が経つ。
今までが長すぎたせいか、結納を交わしてからの急展開に折原は少々乗り遅れていた。
漠然とだが “卒業 → 結婚 → 新居で生活” の図式を思い描いていたので、週末だけとはいえ在学中に新居での生活が始まるということに実感が湧かない。
しかし、その “卒業” も、呪高の卒業なのか大学の卒業なのか、はたして自分はどちらの卒業を想定していたのだろうか。具体的なイメージが描けず、もはや折原の中の結婚の図式はゲシュタルト崩壊を起こしていた。

いや、別に、今さら学生結婚に異論はない。
第一、折原が呪高を卒業するのはまだ3年以上も先の話だ。卒業を待っていたらいつ結婚できるのかも怪しい。そこから大学に編入して…、なんて考えたら、あと何年学生生活を続けることになるのだろうか。五条は『好きなだけ学生してればいいじゃん』なんて言っているけれど、それはそれでどうなんだろう。まぁ、呪術師の任務報酬はかなり良いので急いで社会人になる必要もないのだけれど。
そもそも、折原の結婚相手である五条は、家も資産家なら本人も学生の身で既に資産家だ。折原が働かずとも一生食べるのに困ることはないだろう。

(っていうか、あの顔で実は手堅く資産運用してるとか詐欺だよねー。まぁ、知ってたけど)

顔は全く関係ないのだが、そう思わずにはいられなかった。

「で、式は? 五条の事だから、式はともかく入籍だけでも済ませたいとか言ってるんじゃない?」
「いえ、でも、入籍も式も来年中にしたいって」
「ま、妥当な線じゃない?」
「そうですか?」
「ただの許嫁が正式な婚約者になったからねー、御三家の手前、お披露目は早い方が良いと踏んでるんじゃないの?」
「………」
「それに、呪高を卒業したら本格的な当主教育も始まるだろうし、その前に律の立場を確実なものにして置きたいんでしょ?」
「……そっか。今さらですけど、あたし、五条家当主の妻になるんですね」

何時だったか、何故分家でも遠縁でもない自分が五条の許嫁になったのか、五条の父に聞いたことがある。
父親同士が学生時代の親友で、歳の近い子供が生まれたら結婚させようなんて冗談を言っていたのが抑々の切っ掛けらしいが、それを本当にしたのはお家騒動回避の為だと言っていた。
つまり、数百年ぶりに六眼と相伝術式持ちで生まれた五条を、普通なら起こり得た伴侶選びのゴタゴタから守る為だったのだ。許嫁として迎えられた自分との事も、五条が18歳になるまでにお互いにその気にならなければ解消する事になっていたが、それも一種の保険に違いない。

そう考えると、

「……お義父さんたちの策略にまんまと乗せられた気がしなくもない」
「なんのこと?」
「いえ、こっちの話です」

と言うことは、自分にも当主の妻たる教育が待ち受けているのだろうか。

(……いや、それはないか)

『いずれ悟は当主になるけれど、だからと言って律ちゃんまで家に縛られる必要はないのよ。そんな時代錯誤、私の代で十分』と、結納の時に五条の母が言っていた。

第一、折原にも夢がある。
まだ誰にも話してはいないが、それは、五条と同じように呪術高専の教師になることだった。
五条と同じ場所に立ち、五条の目指すものを見てみたいと、そう思っていた。
折原はひとつ溜息を吐くと、何とはなしに左手の薬指に光る婚約指輪に視線を落とした。



ま、編入した大学で研究テーマなんか見つけてしまったら、その限りではないけれど。




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