あぁ、目が合ってしまったな、と思った。
世間は華の金曜日。私は週末に残すわけにいかない仕事をようやっと片付けて、会社から最寄り駅まで歩く今の時刻は22時。飲んで帰る元気なんてあるはずもなく、コンビニで調達できそうな夜食について考えていたところだった。
顔を上げたのは偶然だった。ビルとビルの間、街灯の光も届かない闇の向こうでガタンと音がして、反射的に視線を向けてしまった。
「あ、」
喉から声にならない声が漏れる。私はこの感覚を知っていた。
――幼いころから、見えてはいけないものが見えた。いわゆる霊感があるというやつ。ある程度の年齢になると、見えるといったところで誰にも信じてもらえないし気味悪がられるだけだと学習して、私は徹底的に無視を決め込むようになった。
久しぶりに見たから、反応してしまった。向こうもそれに気付いたのか、闇の向こうから視線を感じる。何か得体のしれないものが、こちらに近づいてくる。逃げなければ、と思えば思うほど足が棒になったように動かない。周りの人たちは何事もないように、立ち尽くす私を避けて歩いていく。心臓がバクバクと音を立てている。どうしよう、誰か、誰か助けて、
「こっち」
突然、誰かが固まる私の手を引いた。バッと声のしたほうを見上げると、長い黒髪の男の人だった。歳は私より少し若いくらいだろうか。彼はまっすぐ前を見たままずんずんと歩いていったかと思うと、突然路地裏へ足を進めた。手を握られたままの私は付いていくしかないのだが、前には知らない男の人、後ろには得体の知れない化け物。この世の終わりみたいな気分だった。
大声を上げるべきだろうか。たぶんそんなことできやしないけど。もう全身がガクガクと震えて、まるで言うことを聞かないのだ。
大通りの明るさがほとんど届かなくなった闇の中で、彼は突然立ち止まり、くるりと振り返ったものだから、私は彼の胸板にどんと顔をぶつける。彼は繋いでいた手を離すと私の肩を抱き、その固い胸板にぎゅうと押し付けた。
「見たいなら止めないけど」
先程の化け物のことだ。私は彼の腕の中でぶんぶんと首を降って目を閉じた。頭の上でふふ、と笑う声がした。
それから彼が少し動く衣擦れの音と感触、少しの間を空けて、ごくりと喉を鳴らす音。その次に聞こえたのは「終わったよ」の声だった。
「終わっ、た……?」
「あいつはもういないよ」
そっと彼の腕から解放されたので一歩距離を取る。あまりの身長差に、そうしないと彼の顔が見ていられなかった。切れ長の目を細め、こちらを見下ろしている。
「……もったいないな、お姉さん自分で祓えそうなのに」
「え……」
まるで品定めでもするような視線に縮こまっていると、彼はよく分からないひとりごとを呟いた。いや、それよりお礼言わなきゃ。
「あ……助けてくれてありがとうございました」
「こんなとこで話すのもなんだし、戻ろうか」
そう言って彼は元来たほうを指差す。街灯の光が眩しく照らす大通り。彼の指先を追うように視線をやると、小さな女の子がふたり、こちらを覗き込んでいた。まさかまた、と思って身構えると彼はくつくつと肩を震わせて「あれは人間だよ」と教えてくれた。
「……あのさ、助けたお礼と、こちらから言うのはどうかと思うんだけど」
今晩、私とあの子たちを泊めてくれないか、という彼の言葉に、先程の化け物と目があったときくらい驚いてしまった。
* * *
「あまり広い家ではありませんが……」
泊めてほしいと言われてから、何度そう言っただろうか。平凡な会社員が一人暮らしをする1DKにいきなり3人も来客があるなんてあまりにも非現実的で。しかし、夜の22時に、あんな小さな子をふたりも連れた命の恩人に言われてしまったら断れるはずもなかった。
玄関の鍵を回し、扉を開ける前に言った何度目かも分からないその台詞に、彼――夏油さんは「泊めてもらえるだけでありがたいんだってば」と苦笑する。
「私ひとりならどうとでもなるけど、この子たちがいるから。本当に助かった」
夏油さんとふたりの女の子の関係は分からない。なんだか怖くて訊くこともできなかった。娘という歳ではなさそうだけれど。ふたりにはひどく警戒されているようで、未だに声すら聞けていない。美々子と菜々子という名前だけは夏油さんに教えてもらった。
3人を部屋に上げると、私はとりあえずお風呂を沸かした。外では気付かなかったのだけれど、明るいところで見ると3人ともずいぶん汚れていたから。美々子ちゃんと菜々子ちゃんはあちこちに怪我もしているらしい。ワケアリにも程があるだろう。
「美々子ちゃん、菜々子ちゃん、ふたりでお風呂入れる?私も一緒に入ったほうがいい?」
これだけ警戒されてちゃ、一緒には入れてもらえないだろうけど……。ふたりは一度は首を振って洗面所に行ったものの、勝手が分からなかったのか戻ってきて私の服の裾を引いた。不可抗力とはいえ頼られたのがちょっと嬉しくて頬が緩みそうになるのを堪え、ふたりを改めて洗面所へ連れて行く。
「すみません夏油さん、お先にお風呂いただきます」
「君の家なんだから気にしなくていいよ。それよりふたりの面倒まで見させてしまってすまないね」
夏油さんは申し訳なさそうに言ったけれど、私は妹ができたみたいで嬉しかった。
一緒にお風呂に入れば、ふたりも少し私に慣れてきたようで、ぽつりぽつりと言葉を交わしてくれるようになった。子供用の着替えなんてないので私のTシャツを貸すと、ワンピースのようになってとても可愛い。部屋へ戻ると、夏油さんがふ、と微笑んで出迎えてくれた。
「夏油さんもどうぞ。あとご飯まだだったら、その間に用意しますけど」
そう尋ねると、夏油さんが答える前に菜々子ちゃんが再び私の服の裾を引いて「お腹すいた」と言って、美々子ちゃんが「菜々子、」と窘める。それを見て夏油さんはくすくすと笑い声を漏らした。
「ずいぶん懐かれたようで」
「いえ……何かご飯用意しますね、私もまだなので」
「何から何まで本当にありがとう」
細い目をいっそう細め、夏油さんは私たちと入れ替わりで洗面所へ消えていった。私は美々子ちゃんと菜々子ちゃんにドライヤーを渡し「順番に髪の毛乾かしてね」と言い残してから冷蔵庫をあさる。さて、用意するとは言ったもののどうしようか。一人暮らしの金曜日、冷蔵庫にはろくなものが入っていない。買い出しはいつも週末にまとめて行っていた。
今からお米を炊いたら遅くなってしまうし、とりあえずメインはパスタにでもしよう。あとは冷凍食品か缶詰くらいしか出せそうにないが、ないよりマシか。小さい子もいることだし、本当はもっと栄養のあるものを食べてほしいんだけれども。パスタを茹でる間に缶詰のコーンをベーコンと一緒に炒めて、あとはほとんどお酒のアテとして買ったおいた焼き鳥や煮魚の缶詰……完全におじさんのチョイスで恥ずかしくて見なかったことにした。
そうこうしているうちにシャワーの音が止み、少ししてからドライヤーの音も聞こえなくなった。手持ち無沙汰になったらしい美々子ちゃんと菜々子ちゃんがこちらを覗いていたので、出来上がった料理から運んで行ってもらう。洗面所から出てきた夏油さんがお手伝いに励むふたりを見て微笑んだ。家に人がいるのも、誰かと食卓を囲むのもずいぶん久しぶりで、なんだかくすぐったい。
* * *
お腹がいっぱいになって眠くなったのか、美々子ちゃんと菜々子ちゃんがこくこくと舟を漕ぎはじめた。何があったのかは分からないけれど、おそらく疲れていたのだろう。一組しかないけれど、来客用の布団を敷いてあげて、ふたりで使うようお願いした。
「夏油さんはベッド使ってください」
「……君は?」
「えっ……あー、ふたりの横で……」
「ふたりの横って……床にしか見えないんだけど」
そうです、床です、なんて言えるはずもない。視線を逸らして押し黙る私に、夏油さんが小さく溜息を吐いた。
「家主にそんなことさせて私がベッドを使えるわけないだろ」
「いや、でも、夏油さんお疲れなんじゃないかと思って……私はどこでも寝られるので」
「……私がそっちで寝る、と言っても聞いてくれなさそうだね」
夏油さんの言葉に私はこくこくと頷く。夏油さんが家主である私に遠慮するように、私だってお客さんである夏油さんを蔑ろにはできないのだ。
「分かった、じゃあふたりでベッドを使おう」
「へ?」
「それより、少し話したいことがあるんだけど、いい?」
さらりと夏油さんの口から放たれた言葉にリアクションすらさせず、夏油さんはそう言ってダイニングのほうを指差した。眠ってしまったふたりを起こしたくないから向こうで話そうということなのだろうけれど、待って、その前の台詞にツッコませてはくれないのか。