今彼が何をしているのか

眠いなぁ、と大音量で流れるクラシック音楽を背にひとり、コンサートホールのロビーのソファに深く腰をかけている篠岡啓はオーストリアで行われるピアノコンクールの出番待ちをしていた。ロビーには篠岡の他に誰も居らず、たまにスタッフらしき人が通るだけである。なぜこんなに大音量で出場者の演奏を流す必要があるのかと少しだけ不満を持っていたが、それはふかふかの座り心地の良いソファで相殺され、無心に近い状態で午後のまどろみを楽しんでいた。

こんなにも静かな昼時も珍しい。いつもなら及川徹に探されたりお手洗いにまで付いて来られたり、音楽室にいると俺の演奏をずっと静かに聴いていたり。とにかく及川徹が側にいない昼時は珍しいことこの上ない。

「こんにちは、誰かを待っているのですか?」
「ん、あ、ああ。いいえ、出番を待っているのですよ」
「これは失礼しました。頑張ってくださいね」
「ありがとうございます」

知らないブロンドヘアの女性に急に声をかけられた事で思考が夢の世界から現実世界に戻ってきた篠岡はそのまま居心地の良かったソファを離れ歩き始めることにした。

篠岡の出番は後ろから3番目。受付のために早く来たが、他の出場者達は譜面を何度も見たり床や壁や机で練習していたり、そんな光景がよく見られる中、彼の行動は目立つと良く言われるが、これが篠岡啓の最終調整である。

自分に自信があるわけでもなく、ましてや今日のコンディションがとても良いというわけでもない。

その真逆だ。

彼は人より緊張してしまうタイプだし、日本ではいない今はコンディションだって中の下だ。正直疲れてるし、眠い。

だから緊張をほぐすためにちょっとだけ休憩している。それだけなのだ。

さて、そろそろ出番だ、と。彼は重い足を舞台のある方向に向けた。


青城のピアニスト
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