はじまり

きょうはなかなかついていない日だった。
すべての信号に引っ掛かったせいで講義に遅刻しかけたし、その講義では課題が大量に出た。
それも図書館の本が必要で、大雨と暴風の中を重たい本を何冊も持ってバイトに行く羽目になってしまったのだ。

そもそもバイトも本来はシフトが入っていなかったのに、貸しきりパーティで人手が足りないと店長に泣きつかれて渋々シフトを入れたのだ。

ため息を吐きながらバイト先の更衣室に入る。

「名前、おはよう。雨すごかったね、大丈夫だった?」
制服に着替えながら同僚がこちらを振り向きながら言う。

「朝から全然ついてないし、雨すごいしバイト中も嫌なことがありそうだから帰りたい」
同僚とは正反対の声色で恨み言を言いながら制服に着替える。

「そんな彼氏いない歴イコール年齢の名前ちゃんに朗報です!
なんと、きょうからイケメンバイト君が仲間に加わりました!!ほんとにマジでイケメンだから!」
面接のときに見たが顔も良いし、声も良いと、興奮した様子で語る彼女の話を私は何となく聞いていた。

たしかに恋愛に興味はあるが、好きという気持ちがいまいちわからないし、こんな誰とも付き合ったことのない自分がそんなイケメンと仲良くなれるだなんて想像すらできない。

結局私とは関係のない話。仕事ができる感じのいい人ならいいな。そんなことを思いながら髪の毛をまとめる。


私の用意が終わるタイミングで彼女が更衣室の扉を開けると、そこにいたのは褐色の肌に金色の髪、青い目の……。


「…ゼロ?」

思わずつぶやいてしまった一言に慌てて口をつぐむ。


しまった。言ってしまった。
でも、言ってしまった言葉をなかったことにはできない。
時間にしたらほんの数秒だろう。
もしかしたら1秒も経っていないかもしれない。

その数秒が、私にとっては数時間にも感じるほど長い時間だった。

「名前、何か言った?」

同僚が私のほうを振り向きながら問いかける。

「ううん、何も」

曖昧な笑みを浮かべながら答える。

よかった。きっとこの酷い雨と風の音でかき消されたんだ。
私のすぐ前にいた彼女に聞こえていなかったなら、彼に聞こえてるはずがない。
そう思って肩をなでおろした。

「はじめまして。僕は安室透です。きょうが初日ですので、いろいろ教えてくださると助かります」

彼はにこりと人当たりの良さそうな笑みを浮かべて挨拶をしてきた。
ああ、これは絶対自分がイケメンだと分かっているタイプの笑みだ。

「私は名字です。よろしくお願いします」
少しそっけないかと思ったが、これが私の精一杯だった。

「ね?ね?イケメンでしょ?」

同僚の彼女の言葉が頭に入ってこない。

あの肌、あの髪、あの目は、たしかに『彼』に見せてもらった写真の中の男の子にそっくりだった。

俺の親友だと、彼は言っていた。

名前は零だと。でも俺は『ゼロ』と呼んでいた。だってそっちのほうがかっこいいだろう?と彼は楽しそうに笑っていた。
でも、今会ったゼロにそっくりな男性は自身を『安室透』だと名乗った。


別人…なのだろうか。
別人かもしれない。
髪は染めれば良い。目もカラコンを入れて、肌は日焼けサロンで焼いてしまえば、そっくりになれる。

なれるけど…ついつい働いている彼を目で追ってしまう。


きょうはついてない1日だった。
彼との出会いは、私にとってどうなのだろうか。

私は彼に会いたかったのか、会いたくなかったのか。

私にはわからなかった。
ただ、『彼』なら答えを知っている気がした。

並んでいるお酒の瓶の一つに触れながら小さくつぶやいてしまった一言は静かに消えていった。



「スコッチ………」