ついてない1日の終わり

「バーボンってどこにありますか?」

突如後ろから聞こえた声に勢いよく振り向く。

「すみません。驚かすつもりはなかったのですが」
安室透は悪びれた様子もなく言う。
眼鏡で目が見えにくいからか、何を考えているかがわかりにくい。

「お客様にバーボンのロックを頼まれまして。
このお店はお酒が充実しているんですね、ここから探すのは骨が折れそうだ。
ジン、ウォッカ、キュラソー、ああ、スコッチもありますね」
こちらに視線を向けることなく淡々とお酒を探す彼を眺めていたが、彼のスコッチという言葉に我に返る。

「私が作るので安室さんはホールに行っててください」
そう告げてバーボンの瓶を探す。
「いえ、僕が注文を取りましたし、これからも作らないといけないので教えて下さい」
しかし、彼はあくまで自分が作るという。
たしかに今後を考えると教えているほうがいいのだろうが、今はこの男と同じ空間にいる気にはなれなかった。

「バーボン見つかりましたよ」
彼が瓶を顔の近くに掲げる。
「氷は冷凍庫の奥です。グラスはここにあります」
私は淡々と告げて彼の側を離れる。
ホールで注文をとっていたほうが気が紛れそうだった。

足早に去っていく私を彼が鋭い目で見ていたことなんて、気づく余裕は私にはなかった。


私がちょうどキッチンへ行った時に切り裂くような悲鳴と何かが爆発するような音が聞こえた。ホールへ向かうと先程の幸せそうな雰囲気から一変して騒然としていた。
同僚によると新婦の乗っていた車が駐車場で爆発したらしい。

そこからは救急車や消防車、警察の対応に追われていた。
事件自体は客の中にいた眠りの小五郎と実は探偵だという安室透によって、幕を閉じたのだった。



閉店後の更衣室はいつも以上に盛り上がっていた。
いつも皆が思い思いに話していて騒がしいが、きょうはいつもの比にならない。

先程の事件の件で最初こそ重々しい雰囲気が漂っていたが、次第に実は探偵だった安室さんの話や生で見た眠りの小五郎の話になり、最初の空気はどこへやら、今は興奮した雰囲気に包まれている。

とてもその輪の中に入る気にはなれず、そっと更衣室を出た。

あんな後味の悪い事件の後で盛り上がれるなんて、皆には悪いが神経を疑う。
まだ止みそうにない雨と風を見て、やはりきょうは1日ついていなかったとため息をこぼす。

従業員出口を出たところに止まっていた真っ白のスポーツカーから顔を覗かせるのは安室さんだった。

「僕もちょうど帰るところなので送っていきますよ」
いまいち何を考えているかわからない、しかし人の良さそうな柔和な笑みを浮かべる彼の姿に思わず眉間にシワが寄る。

「いえ、出会ったばかりの男性の車に乗るのはちょっと…」
「何も取って食いはしませんよ。それよりも鞄に何か大事なものが入っているのではないですか?あなたに手は出しません。事件に巻き込んでしまったお詫びのようなものですよ」
思わず鞄を強く握ってしまう。たしかに、この中にはきょう借りたばかりの図書館の本が何冊も入っている。公共の本を濡らして汚したくなかった。

「本当に何もしませんか?」
「ええ、もちろん」

正しい選択は乗らないことなのだろう。
でも、本を濡らしたくないしきょうはイレギュラーなことばかりで疲れてしまったから…そう自分に言い訳をして男の車に乗る。

住所を伝えるだけで分かるくらい、彼はこの辺りの地形に詳しいらしい。

静かな洋楽が流れる中、最初は緊張していたのもあり会話は続かなかった。
しかし、ちゃんと自分の家の方向に行く車に安心したからか、安室さんの会話が上手だからか気づけば会話が弾んでいた。


バイト先から家までの距離なんてあっという間で、マンションの前で車は止まり、お礼を告げて車を出ようとした。が、出られなかった。
安室さんが私の腕を掴んでいるから。


決して強い力ではない。
本気を出さずとも振りほどけてしまうほどの力で掴まれている。その真意が私にはわからず車のドアノブを掴んだまま安室さんを見る。

「すみません、何もしないと言ったのですが……車で送ると言ったのはもちろんお詫びのためですが、それ以外にもあなたともっと話したいと思ったからです。あなたと会話をすることで自分の気持ちがはっきりすると思ったので」
ここで彼は一呼吸を置いた。
私は突然の展開にどうしていいかわからず、左手はドアノブを掴んだまま中途半端な姿勢で彼を見ていた。

「僕とお付き合いしてくれませんか?」

褐色の肌に赤みが差し、真剣な目でこちらを見てくる。
私は相も変わらず左手でドアノブを掴んでいる。

彼が私を好き?
出会ってまだ数時間で、そのうち会話をしている時間なんて数%だというのに。
残念ながら一目惚れされるほどの見た目ではないし、彼に特別愛想が良かったわけではない。むしろ愛想は悪かっただろう。
なぜ、なぜ、なぜ?

もうどうしていいかわからず、何も言わず動かない私に痺れを切らしたのか掴んでいた腕を離された。

「急にびっくりされましたよね。僕の一目惚れです。今すぐお返事は難しいかと思います。お友だちから始めてくださってもかまいません」
手渡された名刺には名前と電話番号が、
その裏には携帯のメールアドレスが手書きで書かれていた。

「探偵で使っている名刺です。もちろん探偵としての依頼でお電話をくださってもかまいませんが、ぜひプライベートでやり取りをしたいと思っています」
無理にとは言いませんが。
照れた様子でそう伝えられると彼が嘘をついていると思えなくなる。

ようやく動き出した体は緩慢な動きでドアを開け外へ出る。いつの間にか雨は止んでいた。
「お引き留めしてすみません。先ほどの話ですが、僕は真剣ですよ。お休みなさい、名前さん」
いきなり名前呼びかと思いながらもペコリと一礼してマンションに入る。
エントランスに入ってから振り替えると、ちょうど安室さんの車が出ていくところだった。

何だかふわふわする。顔が熱い。何が起こったか、これからどうしようか考えたいのに頭に浮かぶのは安室さんの少し赤くなった照れた顔ばかりだった。

いつの間にか目の前にある自分のベッドにダイブした。
ああ、もうだめだ、もう無理。考えるのは明日にしよう。
そのまま目を閉じるとやっぱり浮かぶのは安室さんの顔で、また少し顔が熱くなった。