15
「リア、大丈夫なのか」
久しぶりに会った王子様は、目の覚めるくらいの美しいお顔をくしゃりと歪めてそんなふうに言った。
人払いをしてあるから大丈夫だ、お前の言葉を聞くものは俺しかいない。
心の底から心配そうに、私の事を見つめながら王子様はそんなふうに言った。
さらさらの銀髪が照明の下できらきらと輝いている。私の銀髪と同じ色なのに随分違う。私のものが紛い物なら、王子様の色は本物だ。母さんと、同じ色だ。
彼を見ていると、母さんの銀髪を思い出す。母さんの銀は暗いスラムの中でもいつも輝いて、月のようだと誰かがたとえた。多分、お客のうちの一人だと思う。月は金色よ、と母さんが笑って、お客は銀色の月だってあると真面目くさって言った。そんならあんたは光に群がる蛾みたいだわ、と母さんはケラケラ笑っていた。
私が覚えているスラムの、数少ないワンシーン。母さんの顔もお客の顔も、もう随分薄れてしまった。写真の一枚でも、あれば良かったのだ。そんなものは、ありえないのだけど。
「……大丈夫、です」
そう言って、笑おうと思った。
私と王子様は正式に婚約することになった。正直に言うと、婚約だなんて雲の上のことだと思っていた。スラムにはそんなものないし、日本においても廃れきったものだった。お金持ちならいざ知らず、私は至って普通の庶民だった。
王子様のことは嫌いじゃない。ただ、今はそんなことは考えられないというだけだ。王子様のことよりも、どうしても、私の頭の中には母さんと祖母がいる。死んでしまった、二人がいる。
馬鹿みたいだと自分でも思う。
何もかもがどうでもいいだなんて思っておきながら、私は王子様の前でまだ、取り繕おうとしている。
ただ子供の涙腺は弱い。引き締めた意識は何処からでもなく淡々とほつれていって、私の頭の中でぐちゃぐちゃになっていた感情が暴れだしてしまう。
家のメイドたちも父も養母も、ほかの誰もいない。王子様と私だけだから、余計に涙腺は弱かったのだ。
「おい、リア、」
王子様が私の背を支える様に触れてきた。ただそれにも、何も思わなかった。ぼろぼろ流れる涙が、私のドレスを濡らしていく。王子様と会うためにと祖母が誂えた、真っ赤なドレスに涙のシミが出来ていく。
私はこれが気に入らなかった。赤は嫌いだった。赤い薔薇のあしらわれたドレスも嫌いだった。
「辛いんです、私、何も知らなかったわ。祖母は私を、愛してくれたのに」
口に出してみると、腹の中に溜まりこんでいた逸物が腑に落ちたような気がした。
「母さんは死んでいるのに、生きているって、祖母は私にずっと隠していたの。私が、母さんが居なかったらどうなるかわかってたんだわ」
もう王子様の前だなんてことは頭の中になかった。
兎に角泣きながら、心の内を披瀝する私を王子様は呆気に取られたように見ていた。馬鹿みたいだと、飛んだ馬脚を表したものだと笑ってくれれば、それでいい。
貴方にすら見捨てられて、私はきっと落ちるところまで落ちるだろう。母さんみたいに、スラムで、娼婦でもするのだろうか。それ以下の奴隷に身を落とすのだろうか。
「母さんだけが全てだった。母さんの為ならどんな事だって耐えられたのよ、母さんの為、いつか母さんに会うため、一緒に暮らすため。その為なら、何だって良かったの」
「リア……お前は……」
「でも、母さんは死んでたわ。ずっと前に、私がこんなことを始めて直ぐに、母さんは病気になって治る宛もなく死んだの。薬さえあればよかったのに、父はそれすら渋ったの。母さんは私を連れてかれて、父からお金をたくさんもらってたのに、それにすら手をつけなかったって。全部、メイドが教えてくれたわ」
涙は止まらなかった。言うことを全部言い終えたら、あとは大きな声を上げて泣きだした。
馬鹿みたいだ、馬鹿みたいだ。
本当に、馬鹿だ。私は馬鹿だ。
自分の中のちっぽけな矜持すらぽっきりと音を立てて折れていく。王子様の前ではせめて取り繕って、令嬢然として、王子様とは、穏やかに、笑っていたかったのに。大丈夫だ、なんて言われてしまったら何も抑えきれなかった。抑えきれないどころじゃない。溜め込んでいた全てが、私の声と、涙とともに吐き出されていく。
王子様が、泣きわめく私をそっと抱いていた。
着込んだ衣服越しに、彼の心臓の音が聞こえた気がする。悲しい時には、人の心臓の音を聞くといい。そう言ったのは誰だっただろう。
とくとくと心地の良い音を聞いて、彼の慰藉を感じる。この人は、なんでこんなにも優しいのだろう。支配者というのにはあまりにも、優しくて、甘い。
こうしていると、失った色を取り戻していくような感じがした。
「落ち着いたか?」
「……ごめんなさい、」
また泣きそうになってしまった。王子様の服まで涙で汚すなんて、ありえない。流石に悪いと離れようと思ったが、十三歳の王子様の力は存外に強く、ひ弱な私の腕ではそれは叶わなかった。
大人しく王子様の心臓の音を聞いていた。
何でこんなことになったんだろう。自己責任とはいえ、あまりにも馬鹿だった。
「……大丈夫だ。辛かっただろう、」
王子様は必要以上に優しい手付きで、私の銀色を撫でた。
優しい、本当に彼は、優しくて、私の方がおかしくなってしまいそうだ。
収まったはずの涙がまた溢れてきて、どうしたらいいのかわからない。止まらない涙をぼろぼろ零す私を、王子様は静かに慰めてくれた。有難くて、申し訳なくて、あまりにいまさらな感情に押しつぶされそうだった。