刻み始めるクロノメーター

夜久と海と、入ったばかりの部活に向かっている時。ふと、通りすぎた髪に覚えがあった気がした。

「黒尾?」

ガキの頃の事だからすぐには思い出せなかったけど、それは記憶の奥底に間違いなくあった。

夜久とは違う、太陽の下で金色に光る柔らかい栗毛。随分低いところにあったから見えなかったけど、覗き込んだらその目は青いんだろうか。

「どこ行くんだよ!」

そう思ったらもう止まらなかった。
振り返って並んで歩く女子を追いかける。片方は黒髪で、やたらと隣の女子に話しかけてる。2人とも髪は長いけど、茶髪の方はかなり長い。テクノで売ってる3人組くらい長いかもしれない。

「おいっ」

声をかけて気付いた。
俺はきなこの名前を知らない。それどころか、かなり時間が経ってるから俺の事なんてもう忘れられてるかもしれない。つーか180近い俺がいきなり声をかけても、ただビビられて終わるだけかもしれない。
そんなことを考えたところで後の祭り。2人は訝しげに振り返った。

「…なんですか?」

黒髪の方が不機嫌そうに問いかけてきたが、俺の頭はその意味を正常に理解できなかった。
不思議そうに見上げた茶髪の下に、青い目がある。

「…きなこっ」

あの頃と同じだ。茶髪の下に、陽の光で青く見える目があった。肌はあの頃よりも白くなった気がする。

「ぎゃあああああ変態!」

衝動的に抱き寄せた体は細っこくて小さくて、少し冷たい。そう言えば何度か繋いだ手は冷たかった気がする。あの頃絶えることがなかった怪我は、もうなくなったんだろうか。

「おっ前なにやってんだよ!!」

それらをしっかり確認するよりも早く、俺はきなこから引き剥がされた。

「大丈夫?!撫で回されたりしてない?大丈夫だよ、こいつは私が責任をもって地獄に落としてくるから安心してね!」
「犯罪犯すつもりか黒尾!!」

セクハラどころか痴漢も同然の行為をした俺は、当然のように夜久に蹴られ黒髪女子に睨まれたけど、後悔はしてない。なぜなら、目の前で困ったように笑うその表情に、昔のきなこがぴったり重なったからだ。

「誰だかわかんないけど知り合いならちゃんと捕まえておきなさいよね!」
「こっちだってまさかいきなりセクハラかますなんて思わなかったんだよ!」
「黒尾くんが驚かせてごめんね」

外野が騒いでるのも、どこか遠いところで起きてるように感じる。
きょとりと見上げてくるのは間違いなくきなこだ。でもきなこは俺のことを覚えてるのか?俺だってついさっきまでぼんやりとしか記憶にしかなかったんだから、きなこだって忘れてる可能性が高い。

「ちょっと!エリカのことジロジロ見ないでよ変態!」
「そろそろ本気で通報するぞ」
「まぁまぁ、黒尾くんは彼女と知り合いなの?」
「あー、ガキん時のな」

きなこと最後に会ったのは、雨の日だった。あの日の俺は傘も持たないで家を飛び出して、偶然川原を歩いてたきなこと会った。それから交番に行って以降、今日まできなことは1度も会わなかった。

「まぁ、名前も知らねぇけど」

いや、1回だけ聞いたな。それもきなこの言葉じゃなく、交番で聞いただけだった。思えば声を聞いたのもあの時が初めてか。
聞いた内容をはっきり覚えてる訳じゃねぇけど、今思い出しても胸糞悪くなるようなもんだったことは間違いない。

「まさか、あんた子どもの時からのストーカー…?」
「違ぇよ!」

きなこを隠すように1歩前に踏み出した黒髪女子に全力で否定したけど、今思えばその判断はあながち間違ってないんじゃないかと思った。なにせ話せないきなこに研磨と2人で名前をつけたし、きなこの家を調べたときなんて、今やったら確実に犯罪扱いだ。

あれ?もしかして知らないうちに前科者になってる?

「それより、あんた達1年?」
「そうだよ。そっちも?」
「そうだけど、それがなにか?」
「は?きなこ俺とタメだったのか?」

まさか先輩ではないだろうと思ってたけど、俺とタメ?今もちっこいけど、前はもっとちっこかったから、研磨と同級生かその下だと思ってた。でもそれならここにいないか。

「なんなのあんた。あとそのきなこってなに」
「きなこはきなこだよ」

そう言えば、きなこは話せるようになったんだろうか。
雨の中で初めて聞いた声は細く震えてた気がする。交番で聞いた胸糞悪くなる言葉達はしっかりしてたけど、そんな事よりもっと好きなもんとか話してほしかったよな。

「黒尾、俺も意味わかんないから説明しろ」
「なんで俺がわざわざ夜久くんに説明しないといけないんですかー」
「うるせえないいから吐け変態」

言えるわけないだろ。川原で喋れないきなこと3人で遊んでたなんて。

「うわやべ、部活遅れる!」
「は?おいちょっと」

俺より小さいくせに、俺を引っ張る夜久の力は強い。海も一緒になって急ぐから、今回俺に勝ち目はなさそうだ。

ああ、くそ。またきなこの事をなにも知らないまま別れるのか。いやでも1年ってことはわかったし、今度はビビらせないようにこっそり探そう。

「クロ」

そう思ってたのに、不意にかけられた小さな声に思考が止まった。
ほとんど記憶にない細い声だけど、この場所でその呼び方をするのはきなこだけだ。引きずられるままきなこを振り返ると、口だけが動いてる。よくわかんねぇけど、悪い意味じゃないと思う。思いたい。

「明日の昼休み!絶対教室にいろよ!全クラス探すからな!」

それを聞いた黒髪女子が喚く横で、きなこはやっぱり笑ってるように見えた。そう見えただけで、次の瞬間には転びそうになったから、本当にきなこが笑ってるのか確認することなんてできなかった。

入部したばっかりなのに部活に遅れるわけにもいかねぇし、とりあえず部活に行く為に地面を蹴った。

「お前女子のこと脅すなよ!」

走りながら夜久に言われるのはさっきのこと。
セクハラは謝るけど、別に脅したつもりはねぇし。研磨にもよく言われてたけど、俺ってそんなに口悪いのか?海ほど丁寧とは思ってないけど、別に普通だろ。

「さっきの子とは久しぶりに会った感じ?」
「そーだな…10年くらいか?」
「長!よくその時の女子だってわかったな」

そりゃあわかるだろ。なんて自信をもって言えるもんじゃない。ただなんとなく、俺の直感があいつはきなこだって教えてきたんだ。

「なんとなくな」

直感でも偶然でもなんだっていい。血まみれでいなくなったきなこをやっと見つけたんだ。やっと見つけた細い糸を、今度こそ簡単に離してたまるか。