▼ 薬瓶の中のはちみつ


来る月曜日。6月に近付くにつれ、ほとんど毎日空気に暖かみを感じるようになってきた。
こちらにきて6年目ともなると当然慣れてはくるけど、やっぱり微妙な季節のズレに少し違和感が残る。

今日まで事あるごとに及川さんからメールがきた。今日のことを忘れないようにと言ったことや、先に帰らないようにと言ったこと。
どうしてこうなったのかはわからないけど、2週間程前気がついたら一緒にでかけることになってた。こうして約束してしまった手前、今更断ることもできず勝手に帰るわけにもいかず教室にいる。

どこに行くのかはわからない。学校帰りに行けるところなんて制限されるからたいしたところではないと思うけど、漠然とした不安のようなものはある。
呼び出しと言ったものが何度あってもたいした問題にもならないけど、他人と2人で歩くと言うことがそもそもの不安材料。そんなの、小学校が最後だもん。どうすればいいかわかんない。

「おまたせ和泉さん。行こっか」

及川さんが宣言通り迎えに来た。
適当な言い訳を作って帰ってしまおうか。でもそれも一時凌ぎでまた未来の約束をさせられそう。どちらが面倒か、そんなことは天秤にかけるよりも明らかなもので。

「はい」

私は迷うことなく鞄を掴んで、ドアで待っている及川さんに近付いた。

教室にはまだそれなりに生徒が残っているが、どうやら同学年は及川さんに一切の興味がないらしい。呼び出しをしてきたのもほとんどが下級生で、今までに教室から連れ出されるときは妙に気遣わしげな視線を浴びたりもした。
なぜかそれは今も変わらず、視界の端で小さく言葉が交わされているのがわかる。

まぁ、どれも私には関係ないことだけど。

「学校帰りだし、駅の方まで出てショッピングがいいかなーと思ったんだ」
「そうですね。なにか必要なものがあるのですか?」
「俺は特にないけど、和泉さんのことを少しでも知れるかなと思って」

それにどれ程の意味があるのか。

「それに、俺のことも知ってもらえるでしょ?」

知ったからどうなるのか。
全部私には意味のないこと。

「そうですか」
「あのね、1個だけお願いしてもいい?」
「なんですか?」
「今日だけでいいから名前で呼んでくれないかな」

名前…別にそれくらいいいけど…

「すみません、及川さんのお名前を存じ上げないのですが」
「え」

だって聞いてない。クラスでも下級生もみんな「及川」の名字しか言わないから。逆にどうして知ってると思ったの?他人の名前なんて知るわけないじゃん。
及川さんはなにか考えながらぶつぶつ言ってる。それでも足が止まらないのはとてもいいことなんじゃないの?

「じゃあ、教えるから呼んで?」
「はい」
「及川徹って言います」

名前を聞いた瞬間、思考が完全に停止したのがわかった。そして、その私を遠いところから眺めてる私がいることにも気付いた。

遠いところで、懐かしい声が聞こえる。

「よろしく、和泉加奈枝ちゃん」

それが今、目の前の声に上書きされそうになる。

「申し訳ございません」
「え!そんなに嫌だった!?ごめん!」

頭を下げたまま話すと、及川さんが焦ったように謝ってくる。

「そうではなく、私には及川さんの名前を呼ぶことはできません。そして私の名前も呼ばないでください」

私を呼ぶのも、私に名前を呼ぶように話すのも透くんではない。それなのに、目の前の「とおる」にかき消されそうになる。

「じゃあせめて、もう少し友達っぽくしない?いつまでも敬語って言うのも疲れるでしょ?」
「そのようなことはございませんが」
「じゃあ及川さんがやだ!」

顔をあげるとわかりやすくふてくされた表情をしていた。
なんなんだこの人は。体だけ成長した子供なのか。「とおる」はみんな少し子供っぽいのかな。

「敬語やめよう?」
「ご遠慮させて頂きます」
「じゃあせめて及川さんはやめよう?他人みたいだし」
「他人ですけど」
「そうじゃなくて!友達でしょ!」

いつの間に私は及川さんと友達になったのか。

「友達なんですか?」
「友達だよ!そんな悲しいこと言わないで!」

友達なんて、そんなのもうずっといない。あの日から私はひとりで、たった1人の友達だった人も置いてきてしまった。

彼は、今も何処かで元気にしてるのかな…

「和泉さん」
「なんでしょう?」
「とりあえず行こっか」

先を促す及川さんの表情は、今まで私に見せてきたへらへらしたものとは全然違った。よくわからないけど、なんか違う。

手を繋ぐでも、隣に並んで歩くでもない。友達と言うにも微妙な距離。
そんな距離感を保つ私の、意識の遠いところから聞きなれた声がちゃんとしろと声をかけてくる。「友達だと言ってくれるんだから、ちゃんと応えろ」と、遠いところから叱咤してくる。

「モールのどこに行くんですか」

そんなに言うなら、少しだけ応えてあげないこともない。

「和泉さんはどこがいい?」
「買い物なんてほとんどいかないのでわかりません」
「そうなの?」
「今日は及川が私を楽しませてくれるんですよね?」
「そうだよ!…って、あれ?今、」
「なら行き先は全て及川に任せます」

これでも充分譲歩したんだから、多少多目に見てよね。


  
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