先輩めがけてストレート!
 パシン。乾いた音がざわめきの中に響いた。
 手を振り上げるのも、それがおれに下ろされるのも見えてはいた。けど避けるわけにはいかないだろうと甘んじて受ければ弾かれた頬。再び向かい合った時――その瞳には大粒の涙が溢れていた。

「遊真が言ったんでしょ! 考えてることちゃんと言えって!」

 泣いていると傍目にもわかる声色だ。そんな悲痛な声で、わき目も振らずにおれへと怒鳴りつける名前。只事ではないと感じたんだろう、向こうでちらほらと隊員達がこちらを気にする素振りを見せている。
 けれど背中を向けている名前にはそれに気づく術がなく。あまつさえ涙で滲んだ瞳はおれから逸らされることはない。

「だったらなんで! 私の言う事聞かずに全部決めちゃうのよ!!」

 叫ばれたその言葉に、少しだけ頭が冴えた。情けないことにおれは言われてようやく、これまでの自分が冷静でなかったことに気づいたんだ。冷静を保っていたつもりで、本当のところは自分でも動揺していたらしい。
 おれが表情を変えたのが名前にもわかったんだろう。数拍の間をおいて、勢いをなくした声で弱々しく呟く。

「……ちゃんと、聞いてよ」

 ぱたぱたと、溢れて零れた涙の雫が次々と床を叩いた。堪え切れなくなったのか、嗚咽混じりに肩を揺らす名前。訓練生達がざわめき立つのもわかって、おれは一つ息をつく。

「……なぁ、場所変えよう」
「逃げようったってそうは」
「逃げないよ。捕まえてていいから」

 ほら、と言って手を差し出せば、名前は苦々しい表情でその手を取った。逃がさないとばかりに強く握り締めるものだから、柔らかく握り返して手を引く。
 多分必死で強く握っているんだろうな。おれからしたら可愛いものだけど。
 そうして移動しようとしているのが隊員達にもわかったらしい。胸を撫で下ろす人々の中で、誰かが囁く。

「……苗字先輩が怒っているとこなんて、初めて見たな……」

 おれも、人前でこんなに取り乱す名前は初めてだよ。
 なんて言わないけどひっそりと心内で零す。ついてくる名前から睨まれながらも、おれは足早にそこから立ち去った。




 
 そうしてやってきた警戒区域の中。話をするなら落ち着ける場所の方がいいとは思ったけど、名前の家に、と言える立場じゃないからな。それに怒りが収まってないようだったから、怒鳴っても大丈夫な方がいいだろうとここにした。
 足を止めて振り返れば、未だに表情を歪めておれを睨む名前が不審気に立ち止まる。

「ここでいいだろ。それで、続きは?」
「続きは……」

 口を開いて、何かを言おうとしたんだろう。けれど結局何一つ言葉にならないままもう一度口を閉じた名前。目尻と、頬に残った涙の跡を拭ってから少し考えるような仕草をして、結局それでも言葉にならなかったらしい。はぁ、と大きな溜息が零れた。

「……わかんない。頭冷えちゃった」

 落ち着きを取り戻してしまったらしい名前は、ちらりとおれを見る。けれど視線は合わない。おそらく叩いたおれの頬を気にしてるんだろう。居心地悪そうに、さっき渡した缶ジュースを指でなぞっている。
 けど、謝るのはきっとおれの方が先じゃないといけないから。

「なぁ、ごめんな」
「……なにが」
「言われた通り、名前の話聞いてなかったから」

 ごめん、ともう一度謝罪を続ければ名前の眉間に皺が寄る。けれど謝る気持ちを認めてくれたのか、小さくいいよと零した声が聞こえた。
 結局邪魔になったのか、缶ジュースをポッケにしまう名前を眺めて、続けて訊ねる。

「どうしたらいい? あ、ウソついてもだめだからな」
「……今度は何」
「おれのサイドエフェクト」

 隠さず言えば、再び大きく溜息をついて肩を落とした名前。昨日の今日でまだ隠し事があったのか、と怒られるかと思ったのに。名前はそこに関しては何も言わず、言葉を選んでいるようだ。
 さすがにもう諦めたのだろうか。それならどうして。

「なんで別れるって決めたことに怒ってるんだ? 結果は同じだろ?」

 思ったままを零せば、すぐさま名前の身体に力がこもった。拳を握って何かに耐えながら、火のついた瞳がおれに向けられる。

「そういうところに、怒ってるのよ……!」

 けれど、今度は手を振り上げることはなかった。ゆっくりとまた落ち着きを取り戻していく名前。その表情がどこか悲しげにも見えて、伺えば一歩おれへと歩み寄る。

「ねぇ、ウソがわかるんだよね?」
「うん」
「じゃあ、教えてよ」
「何を――」

 聞き分けてほしいのか。そう尋ねるより先に名前によって言葉が遮られた。
 きゅうと背中に回された細い腕。柔らかく寄せられる身体。おれの肩へと額を落とした名前。その首筋が眼前にあって。ふわりと揺れる髪がほのかに甘い香りを運んでくる。

「遊真が、好きだよ」

 聞きなれた優しい、名前の声で落とされた告白。ウソの滲みもないそれは、怖いくらいにまっすぐおれの元に届く。

「ねぇ、どうだった? ウソだった?」
「……いや」

 そっか、とまるでわかっていたかのように頷く名前。

「でもね、遊真のこと大っ嫌い」

 続けられた言葉は、さっきとは正反対の言葉。だけど柔らかい声色では鋭さなんて全くなくて、あげく僅かにウソを聞き分けたおれの耳が、それを少しだけ優しい言葉に変える。

「ちょっとだけ、ウソだ」

 言い当てれば、同時に名前が少しだけ震えた。泣いた名残を押し付けるようにおれの肩に顔を押しつけて、ぐりぐりと擦り寄ったと思ったらくぐもった声が聞こえてくる。

「ねぇ、遊真はそんな私が、嫌い?」

 弱々しい言葉。それはどういう名前のことなんだろうか。考えていると少しずつ強張りを解くように、名前は静かな口調で話を始める。

「寿命だとか、知っていることでも終わりを突きつけられるのは、怖いよ」
「……そうか」
「だから今すぐ割り切れって言われても、難しい」

 そうだろうとは思う。どんなに理屈がわかっていても、それで割り切れるほど感情は甘くない。

「それに私はね、ネイバーが三門市を侵略しようとしてるの、許せない」
「……うん」
「そのネイバーと遊真が同じだって言われても、困るよ」

 大方、そうだろうと予想していた通りだ。だからと結論付けたのにどうして、いまさら、

「ねぇわかる? 私は遊真の寿命が短いことに、ネイバーだってことに怒ってるんじゃないんだよ?」

 ――いまさら、名前の怒りの矛先に気づくなんて。

「私はね、話してくれなかったことが寂しくて、勝手に結論付けた遊真に怒ってるの」

 身に覚えのあるその怒りは当然といえば当然で。おれはいつからかその怒りの理由を取り違えてしまっていたらしい。

「……どうしていいかわからないし、怒ってるけど、好きなの」
「名前」
「だからもう一回、私のこと好きになって。今度は私が頑張るから」

 そう言って名前はゆっくりとおれを解放した。間近で見る瞳にはさっきのような怒りは感じず、涙で潤ったそれに引き寄せられそうになって、直前で踏みとどまった。

「なぁ、難しい」
「……どうして?」
「おれ今も名前のことが好きだから、どうやったらこれ以上好きになれるかわからん」

 へ、と情けない音が名前の口から零れた。驚いた衝撃で堪えていた涙がぽろりと滑って。そんなことすら伝わっていないのなら、何のために別れを決めていたのか。決断していたはずのことが、なんだかとてもくだらないもののように思えて。

「もう一回、おれと付き合ってくれるのか?」

 問うて、困ったような顔の名前の返事を待つ。もう隠し事はしないでほしい、ともごもごした返事。わかったと頷いて、今度はおれから名前を抱き締める。

「……ほっぺ、ごめんね。痛くなかった?」
「平気。っていうか、それも話さないとな」
「まだ、あるの」

 げんなりとした声に思わず吹き出せば、笑い事じゃないと怒られてしまった。寿命のこととか、おれがネイバーであることは今更何も変わらないけど、名前がそれをどう考えるのかは待ってみてもいいのかもしれない。
 いつか、辛くて耐え切れなくなるかもしれない。そうなったらその時だ。後になって気持ちが変わってしまうなんて当たり前のこと。だから、同じ気持ちが少しでもある内は、傍にいて欲しいと思ったんだから。

「なぁ、名前」
「……隠し事は後でゆっくり白状してもらうよ」

 拗ねたような、呆れたような声色にもう一度笑う。
 最後まで、なんて贅沢は言わないから。おれに残されたもう少し、その中の少しでも一緒にいてくれるだろうか。きっとおれの心がけ次第なのだと、気持ちを新たに。

「おれ、名前が好きだぞ」

先輩めがけてストレート!

(時間を惜しんで全力疾走)

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