彼の住む世界は、白い天井と白い壁に囲われている。他には薄いベージュのカーテンと、白いベッドが置かれているくらいの小さな部屋。
そんな極端に色彩の無い部屋で異彩を放っているのは、一台の無骨な黒のラジカセだ。それは今も軽快な音楽を背後に、パーソナリティーの女性が話す声を流し続けている。どうやら今日のテーマはちょっと怖い話、らしい。
「えー、ラジオネーム、ゆめうつつさんからです。ありがとうございます」
おたよりを読み上げる定型句を、女性はさぞ喋り慣れているのだろう。滑るような言葉はその勢いのままするすると、彼の耳へと流れ込んでいく。
「実は私、ドッペルゲンガーに遭遇したかもしれません!なんと!」
投稿者の文面を読む合間に、女性自身の合いの手も加えられている。喋りのプロというのはなんと抑揚のついた話し方が上手なのだろうか。だからこそ、今もベッドで上半身だけを起こした彼も、続きに耳を傾けているのだろう。
「すれ違う横顔と、後姿まで自分そっくりでびっくりしました。あれ、あまり怖がってませんね?」
笑いの滲んだ声。そこまで聞いて彼はようやく意識をラジオから移した。開け放たれた窓の向こうから、ふわりと風が吹き込んできたからだ。ベージュのカーテンがちらつくものだから、その眩しさに目を細める彼。少しの間ひらひらと踊る様を眺めてからようやく、彼はその重い腰をあげる。
暦の上ではもう二月だ。本来ならば窓を開けるなど一時でも許したくないもの。だけど彼は冬の時期だからこそ、換気が重要だとよく知っていた。特に病室でずっと暖房をかけていると空気が酷く乾燥してしまう。そうなると様々な不調を引き起こすからと、彼は寒さに耐えて窓を開けていたのだ。
だがそれももういいだろう。そう判断したらしい彼は、カラカラと音を立てて窓を閉めていく。今日の天気は曇り。薄暗い空を見つめる自分が、今閉めたばかりの窓にうっすらと映る。
――ぼんやりと瞬くのは、赤色。
彼のいるこの部屋は、酷く色彩の無い世界だ。だけど住まう彼自身が一つだけ、鮮やかな色をその身に宿していた。反射した双眸をまじまじと眺める彼は、しばらくして一つ溜息をつく。彼はそうして、今度は個室に備え付けられた洗面所へと移動した。壁に貼り付けられた鏡の前に立てば、彼はさっきより鮮明に自分の赤を見ることが出来る。うっとりと、見惚れるように指先で自身の赤い瞳を鏡越しに撫でる彼。
「ボクも、会ってみたいなぁ」
小さなそれは、彼が零した独り言だった。残念ながらここには、それに相槌を打ってくれる者も、意図を汲んでくれる者もいない。けれど彼は満足気な表情のまま鏡から離れて、再びベッドへと戻ろうとする。少し冷えたのだろう。温かいベッドが恋しかったのかもしれない。
だが、唐突に訪問を告げるノックが二回鳴ったため、彼はその足を止めざるを得なかった。小さく彼が「はい。」と声を出せば、扉を開けたのは見慣れた看護士の女性だ。
「ごめんなさいね、遅くなっちゃった」
「いいですよ。落ち着きましたか?」
「そうねぇ。大分退院していかれたわ」
看護士はあっけらかんとそう返す。彼はこの看護士のこういう所が好きだった。なかなか退院できない彼に対して、気を回す看護士も中にはいるからだ。気遣いなのだろうと彼はわかっていたけれど、退院の言葉を禁句扱いされてしまうと居心地が悪い。だからこうして事実を淡々と告げるこの看護士は、彼のお気に入りだ。
「さ、検査に行きましょうか」
そう促されて、看護士と共に検査室へと向かう彼。すれ違う人達は私服姿が多く、よほど見舞いに来る人が多いのだろうと彼は思った。病衣を纏う彼に道を譲るような仕草をする人は、大抵が鮮やかな色を纏った人達。やはりまだ、大規模侵攻の爪跡がひどく残っているらしいと、彼は結論付ける。
「はい。じゃあいつも通り、よろしくね」
「わかりました」
彼は看護士の笑顔に愛らしい笑顔を返してから、検査室へと足を踏み入れた。
彼は、後天的な色素欠乏症だった。そう告げると大抵の人は首を傾げる。いわゆるアルビノというのは先天性色素欠乏症のことを指し、これは遺伝子情報の欠陥によるものだと現代医学で解明されているからだ。
だけど彼は本当に、後天的に色素欠乏症になった。彼は四年前、近界民と呼ばれる怪物達がここ三門市に侵攻してきたあの日に、色素欠乏症になったのだ。だから彼は今もこの病院に入院している。検査を受けて、体調を管理される為に。
彼は自分がそうなった原因に心当たりがあまりなかった。あまり、というのは、彼の持つ当時の記憶が酷く曖昧だからだ。周りも――特に彼の両親はその日のことを語るのを嫌がった。そして彼を病室に押し込めると、維持するために働きに出てしまったのだ。
彼の母親は今も世界中を飛び回っているはずだし、父親は今も世界で商売をしているはずだ。母親からくる絵葉書は色んな国の写真が使われていたし、父親からはそれなりのお金が振り込まれているから。
彼はそんな両親に深く聞く事を止めた。どちらにせよ両親が彼を心配していることもわかっていたし、彼の生活を維持することがどれだけ大変かも、わからないわけではなかったから。
「はい、お疲れ様」
「ありがとうございます」
「ごめんね、部屋には自分で帰れるかしら」
茶目っ気たっぷりな看護士の笑顔に、彼は少しだけ眉を寄せながらも笑う。彼が呆れているのがわかったのだろう。それでも両手を合わせてごめんなさい、と告げる看護士。咎めるつもりもなかった彼は、笑みを崩さないままに首を左右に振った。
「大丈夫ですよ。患者さん多くて忙しそうですもんね」
彼はそう言って看護士の提案を受け入れた。そもそも彼は四年間もここにいるのだから、今更気にするようなことでもない。今の状況を思えば、彼はそんな些細なことで看護士を咎める気にはなれなかったのだ。
三門市には、四年前を皮切りに細々と近界民がこちらへ侵攻してくるようになった。
小規模なそれは界境防衛機関――通称ボーダーによって対応されていた。
しかし数日前、空一面が異世界と繋がる門で埋め尽くされる、大規模な侵攻があった。人的被害は四年前に比べて格段に少なかったが、それでも怪我人は多かった。だからこそ、ここ三門市立病院もその怪我人の対処に追われている。そう思えば、慣れた自分が看護士の手を煩わせるのは嫌だと、彼は思ったのだろう。別れを告げてから、そう遠くない自分の病室への道をゆったりと歩き始めた。
だがこの時の彼は、一つ失態をおかしていた。
彼は四年前をきっかけにひどく視力を落としていたのだ。だから彼は、普段何かを見る時には眼鏡をかけている。眼鏡がないと世界は殆ど見えないし、無理に見ようとすれば疲れてしまうから。
けど今は、眼鏡をかけずにここまで来てしまっていた。それでも問題ないと彼は考えていたのだ。通いなれた道のりであったから。忘れていたのだろう。大規模侵攻の影響で、多くの人がその道のりを行き交っていることを。
滲んだ世界の中で、境界の曖昧なシルエットがいくつも通り過ぎては消えていく。大抵の人々は鮮やかな色を持っていたから、彼は遠くてもその存在を認識することができた。そうして彼がゆっくりと色を避けながら歩んだその先。唐突にとん、と何かが彼の右半身にぶつかる。
「おお、ごめんなさい。避けられなかった」
少年の声に、彼は思わず目の前を凝視した。しばらくしてようやく、彼はその存在を視覚で捉える。白い髪を携えた、少し背の低い少年の姿を。避けられなかったことに驚いていた彼を、それ以上に驚かせたのは、少年の持つ鮮やかな赤だった。
「大丈夫か?」
ぱちぱち。瞬く赤はまるで、鏡の向こうの自分を見ているようだと彼は思う。さっき鏡に映っていた自分が目の前に現れたような、そんな錯覚に目をくらませる彼。しかし心配そうな少年の声で我にかえった彼は、ゆっくりと首を横に振って返事をした。
「大丈夫だよ。ごめんね、ボクも避けられなかった」
遠くを意識するあまり、彼は少年の服の色にまで意識が及ばなかった。挙句、少年の白い髪の毛は病院の壁に程よく溶け込んで、見え辛かったのだろう。しかし彼はそう言い訳をすることもせず、僅かに頭を下げて謝罪する。少年は仰々しく「いえいえこちらこそ」と言うと再び赤い双眸を煌かせた。
「凄いな。おれ以外で白髪に赤い目なんて初めて見た」
大抵の人間は、病衣を来た彼の髪色と瞳の色に事情があると考える。だからこそ何の躊躇いもなくその違いを指摘する少年に、彼は少しだけ面食らう。
けれど彼には、少年のその声がどこか喜びを感じているように聞こえていた。だから少しだけ迷ってから、彼は笑顔でそれに答える。
「ボクもおそろいの人は初めてだよ」
彼は心の内でひっそりと、まるでドッペルゲンガーみたいだと零した。ラジオで聞いた話題が印象に残っていたのだろう。彼は目の前の少年をもう一度よく見る。ぼやけた少年のシルエットだけでは、彼にとってまるで自分の幼くなった姿と向きあっているように感じたのだ。そう思ったから彼は少しだけ、悪戯な笑みを浮かべてから少年に声をかける。
「どうしよう、ボク死んじゃうのかな」
「む?おまえ、病気悪いのか?」
「キミは知らない?ドッペルゲンガーっていうの」
どっぺるげんがー、と舌足らずな少年の発音に、それを知らないのだと彼は悟る。病院において死ぬなんて言葉を放つことは、冗談にしてもマナー違反ではあるだろう。そんなことも気にならないくらいには、彼はこの邂逅に興奮していたらしい。だから何の躊躇いもなく彼は、ドッペルゲンガーという概念を少年へと話す。
「自分の分身に出会ってしまったら、死んじゃうって言われてるんだ」
そういって、彼は話に似合わない満面の笑顔を浮かべた。それに対して少年は何を思ったのか少しだけ考える様子を見せて、結論が出たらしい少年が、目の前の彼を眺めて口を開く。
「おれはおれだけど、おまえがそう言うならおれが確かめてやるよ」
「何を?」
「おまえが本当に死んじゃうかどうか」
あっけらかんとそう言い放つ少年に、彼はさらに面食らう。彼が放った言葉に、少年がなんと返事をするか考えていたわけではない。だがしかし、それにしても少年が答えたものは、彼の常識では想像することの出来なかった言葉だったのだ。
大抵の人間は死ぬ、という言葉を縁起でもないといって嫌うというのに、目の前の少年はいとも簡単にその言葉を――常人ならともかく病衣を纏った自分に――告げたのだ。その事実が彼を驚かせ、同時に目の前の少年に興味を抱かせる。
「どうやって確かめるの?」
「うむ、とりあえず明日も会いにくる」
「平日だよ?忙しくないの?」
「知り合いが入院してるんだ。明日も見舞いに来るからお前にも会いにくるよ」
曖昧なシルエットのなかで、紅の双眸までもいよいよぼやけてしまった。それはただ少年が眼差しを細めたからなのだけれど、彼にとってはまるで、世界が涙で滲んだようにも見えた。自分に会いに来る、そう言ってくれる目の前の少年がただ、優しいと思ったから。
「おまえの病室は?」
「406号室だよ」
「うむ。じゃあまた明日な」
少年はそう言った。目の前にひらひらと踊った薄い肌色は、きっと手を振られているのだろうと彼は解釈する。だから彼も手を振り返せば、少年は今度こそ、上手に彼を避けて廊下の向こうへと歩いていった。しばらくその色を見送ってから彼もまた、ゆったりと通いなれた道を歩いて病室へと帰る。
スライドしたドアの向こう。広がるのはいつも通りの殺風景な病室だ。だというのに、彼にとってはそこが酷く綺麗な場所のように思えた。
少しだけ軽い足取りで戻ってきた彼は、ベッドへとそっと潜りこむ。消し損ねていたラジオの雑音も気にせずに、彼はもう一度さっきの女性パーソナリティの声を思い出していた。投稿者が怖がっていないと笑っていたけども、今の彼ならその投稿者の気持ちがよくわかる。
「ドッペルゲンガーに会いましたって、ボクも投稿しようかな」
彼の独り言には、あの時のように笑い声が滲んでいた。だって少年は確かに彼にぶつかって、喋っていたのだ。そもそも全く自分と同じというわけでもない。背は違うし多分年も違う。だけど、あんなにも自分にそっくりな少年に彼の心は高鳴ったのだ。しかもあの少年は明日彼に会いにくると宣言したのだから、落ち着いてはいられない。
明日もし会いに来てくれたのなら、何を話そうか。
そもそも少年の名前を聞いていないし、彼自身も名乗ってすらいない。ならば最初は自己紹介をするべきだろうか。そうしてよろしくと挨拶をしても、いいだろうか。だってドッペルゲンガーに出会ってからいつまでに死ぬかということを、彼は知らなかったから。いつまで死ななければドッペルゲンガーじゃないと証明出来るのか、彼にはわからなかったのだ。少年が本当に確かめてくれるのなら、それはいつまで有効なのだろう。
どんどんと広がる思考の中、彼は緩んだ表情のままベッドに横たわり目を閉じた。時刻としては、まだ夜には程遠い時間だったけれど、昼寝だったら許されるかもしれない。彼は、そうして少しでも眠れれば、待っていると感じる時間が短くて済むと思ったのだ。
「あぁそうだ。明日は絶対に、眼鏡をかけていよう」
忘れないように、声にして記憶する。あまり長くかけていることも、彼は好きじゃないのだけれど。でもこの箱庭に少年が足を踏み入れる、その景色をきちんと見たいと彼は思ったのだ。新しい色がこの箱庭を彩る、そんな明日を夢見たまま、彼はゆっくりと眠りに落ちていった。
――………………………
そうして、彼が夢見た明日がやってきた。
時計の針は刻一刻と回っていき、そろそろ夕方へとさしかかりつつある時間。すっかり待ち呆けていた彼は変わらずベッドに座りながら、日課であるラジオに耳を傾けていた。昨日と同じ番組だけれど、今日のパーソナリティーは昨日と違って男性だ。扱うテーマは心に残る物語、らしい。次々と男性が作品名と著者を読みあげている。それに付随して投稿者のコメントが流れている最中、唐突に彼の耳へ届いた音。
こん、こん、こん。
礼儀正しい三回のノックの音がこの病室に鳴り響くのは、きわめて珍しいことだった。だから部屋の主である彼は、瞬時に背筋を伸ばして扉を見つめる。そっと手を持ち上げて、指先で眼鏡をかけていることを確認してから、彼は「どうぞ」と扉に向かって声をかけた。すると滑るように開いたドアの向こう。白い髪に赤い瞳の少年がそこに立っていた。
「こんにちは。よかった、死んでなかったな」
あっけらかんとそう告げる少年が、昨日の少年と同一人物だと彼は確信した。昨日より鮮明に見えるその姿は残念な事に、白髪と赤目であることをのぞけば彼とはあまり似ていない。けれど純粋に訪問者が嬉しかった彼は笑顔を返して、いらっしゃいと入室するよう手招きする。
「凄いね。本当に来てくれたんだ」
「なんでだ?おれ、昨日来るってちゃんと言ったろ?」
「だって、キミと会ったのは昨日が初めてなのに」
そうは言いながらも、彼は期待していた通りの現実が訪れたことに酷く安堵していた。思いの外たっぷりと昼寝をしてしまった彼は案の定、夜になってもすぐに寝付くことが出来なかった。まるで遠足前の子供みたいにわくわくとしていたものの、暇を持て余した彼は一つの可能性を思いついてしまったのだ。もしかしてあの少年の言葉は社交辞令だったのかもしれない、と。しかしその不安をそのまま告げれば、少年は不思議そうに首を傾げる。
「初めてだと何か問題があるのか?」
「え?うーん、来るの、怖くなかった?」
「別に」
そう告げる彼は本当に、何の気兼ねもなく彼の病室へと訪れたらしい。特別見舞いらしい品を持っているわけでもなく、だけど当然のように少年はベッド脇の椅子へと腰を下ろす。裏表のない素直さと言うべきか、ともすれば危うくもある雰囲気がどこか、不思議だ。そう思って、少年を見つめる彼を少年も同じように見つめ返す。しばらく無言の間があってから、彼はようやくずっと温めていた言葉を告げた。
「ボクの名前は――……」
はじめまして、の挨拶を交わして。少しだけ不思議で優しい物語が、始まりを告げた。