明日、ちょっとだけ遅刻できないかな?
そんなことを言われたのは金曜日の夜のことだった。夜、いつものように玉狛支部の屋上で暇をつぶしていたおれの端末が急に光って、そこに浮かび上がった名前の一言。
最初に思ったのは、どこに、遅刻するのかということだ。明日は土曜日で学校もない。それは同じ学校に通う名前だってそうで、だから、どこに遅刻しようと誘われているのか。
おれは少し考えて、わからなかったから通話ボタンを押す。ほとんど間をおかずに通話中と表示された画面を耳に当てて。
『……もしもし?』
「うん。なぁ、どこに?」
そのままを訊けば、名前は困った様に『えぇ……?』と言葉を詰まらせる。だから、どこに遅刻するのかと繰り返せば、名前は納得したように頷いてから答えた。
『ボーダーに、さ』
「……ほう?」
『あ、でも合同訓練には間に合うようにするから』
「いいけど、どうしたんだ?」
珍しい提案だな、と思ったんだ。名前はいつだっておれの応援をしてくれていて、B級二位になった時だってすごく喜んでくれたくらいだ。そんな名前がわざわざボーダーに遅刻できないか、なんて誘うのはなんだか変で、理由が知りたかった。
だけど名前は、おれの言葉にすぐに返事をせず小さく呟く。
『……いいや、ごめん。やっぱやめとく』
静かな謝罪は聞き取るのがやっとだった。おれが聞き返したことを、責められたようにでも感じたのだろうか。
「なんで? 別にいいよ、遅刻しても」
『大丈夫だって。ちょっと、出来心というか、そんな感じだから』
じわり、と違和感。珍しいな。嘘までつくのも、それが名前自身も無意識であるだろうことも。
けれど、だからこそわかる。大丈夫じゃなくて、出来心でおれに遅刻を持ちかけるくらいには、たぶん。
「じゃあ、明日は朝の五時に家の前に行く」
『……え?』
「もう寝ないと起きれないんじゃないか?」
『遊真、あの、』
「じゃ、おやすみ」
端末を耳から離して、通話終了のボタンを押した。そうすればプツリと音が途切れて、画面には再び明日、ちょっとだけ遅刻できないかな?≠フ文字。
さて、と画面を消そうと思ったのだが、それよりも早くぽん、と音が鳴った。なにかと思えばおやすみ≠フ一言。きっともうこの文字は名前に既読≠ニして伝わるんだろう。それならいいかと、おれはそのまま画面を消す。
「……まったく、困ったもんだ」
いつになったら素直に、さみしい、と言ってくれるんだろうか。おれじゃなかったら、さみしがっているんだろうことにも気づけないかもしれないのに。
そう思うと、おれでよかったとも思えてしまって。だから、さみしいと言われたい気持ちはあるのに、こうして甘やかしてしまうんだろうな。
「さて」
おれも、明日はいつもより早く玉狛を出る必要がある。気をつけなければいけないなと考えつつ、おれはまた日課を続けることにした。
*
そうして名前の家の前。空の端はまだ少し金色で、眩しい朝だ。
そんな空をぼんやりと眺めながら立ちつくして待つ。けれど、それほど長い時間ではなく、気づけばどこかの扉が開く音。足音が近づいてきたので、おれもそっと視線を傍へと落とす。
照れたような、困ったような、けれど嬉しそうな顔をした名前がほのかに笑って口を開いた。
「……おはよう」
「うん、おはよう」
おれも笑って答えれば、名前はほっとしたように息を吐く。見ていたおれまで不思議と落ち着くような感覚。今頃になって、おれもさみしかったのかもな、なんて気づく。
「さて、じゃあ行くか」
「どこに?」
「名前は? どこか行きたいところあるのか?」
「いや、この時間じゃボーダーくらいしか開いてないしね……」
「じゃあ寄り道していくか。途中の公園でいいか?」
「うん」
どちらからともなく指を絡めて、いわゆる恋人つなぎ。先に踏み出したのはおれのほうで、名前も逆らうことなくついてくる。
「……あのさ、遊真」
「先に言っておくが、ごめんはなしだぞ」
「う……」
どうやらおれの予想どおりだったようで、途端に口を噤んでしまった名前。困ったようにしているが、きっと名前のことだ、次に続く言葉はきっと――
「……好きだよ」
――ありがとう、だと、思っていたんだが。
「……おう」
「……どうかした?」
「いや、不意をつかれた」
「遊真が?」
驚いたように目を丸くしているが、不意打ちだったものだから、おれもすぐには返事ができなくて。もごもごと口の中で言葉を転がしていれば、名前はちょっとだけ困った様に眉を下げて、それでも嬉しそうに笑う。
「どうしても会いたくなってさ。でも、用があるわけじゃないから今度にしようって思ったんだけど……」
「そうか。悪かったな、早起きさせて」
「ううん、大丈夫。今日は昼から防衛任務があるだけだし」
だから遅刻だったのか、と納得する。昼から防衛任務となると、終わるのは夜だ。おれも訓練が終わってあれこれとしていれば夜にはもう玉狛に戻ってしまうだろう。今日会えるとしたら朝だと当たりをつけて――出来心で――誘ってみたということか。
「でも、遊真は大丈夫だったの? 玉狛で朝ごはんもあるだろうから、朝早いのも……って、思ったんだけど」
「大丈夫だよ、それくらい。いらないって伝言は残してきた」
「……朝ごはん食べた?」
「まだ。だから、途中でコンビニ寄ろう」
提案すれば、名前はまた快く頷く。おれの誘いはこうして簡単に受け入れるのに、自分でおれを誘うのはためらうのだから困ったものだ。
「名前は?」
「うん?」
「会って、したいこととかあったんじゃないのか?」
訊けば、名前はふいと視線を逸らした。これはあるっていうことだろう。けれど、やはり自分で提案するのは気が引けるのか、しばらく黙っていて。
「……引かない?」
「んん? うん、たぶん」
「えーっと、ね」
名前は辺りをきょろきょろ見回したと思えば、おれの耳元へと顔を寄せる。そう、内緒話するように。
「……あの、ね」
「うん」
「うまく言えないけど、いちゃいちゃしたい、というか」
段々と声が萎んでいって、止まる。恥ずかしくなったんだろうな。そんなところも含めてかわいらしくて、おれは名前の顔が傍にあることをいいことに手を伸ばす。頬に添えて、逃がさないようにして、そのままキスをして。
「……こんな感じか?」
「…………まぁ、そんな、感じ」
これはどうやら、相当にさみしがっていたのかもしれない。でなければ、こんな道端でと怒られそうなものなのに。
それとも今は朝早くて、近くに人の気配がないからだろうか。どちらにせよせっかくのチャンスだからともう一度だけキスをしてから、「とりあえず、行くか」と声をかけた。頷いた名前を見届けて、名残は惜しいがもう一度歩き出す。
これからの二人の時間を満喫しておかないと、おれまでつられて、さみしいままに訓練に出向くことになりそうだ。そんなことを気取られないように、けれど、少しだけ足早に。朝日が照らす道、先を急ぐことにする。
まだ一日が始まらないでほしいだなんて、そんなことを思ったのは初めてかもしれないな。
そんな、とある七月十八日の朝
誕生日おめでとう空閑遊真! 2020.7.18