涙が落ち着いた頃、遊真は「そろそろ送ってく」と声を上げた。名残惜しい気持ちはあれど、あまり遅くなると遊真の帰り道も心配で、素直に「そうだね」と頷く。
手を繋いで歩く帰り道。私達が進むのに合わせて、繋いだ手が優しくゆらゆらと揺れている。二人分の足音だけがよく響き、互いに口数は少ない。けれど気まずい沈黙というわけでもなく、あられもない本心を晒してしまったがゆえの静かな時間だった。
――かすかに端末の通知音が聞こえてくるまでは。
「……遊真?」
「んー、うん。ちょっとスマン」
自分のものでないそれは間違いなく遊真だろう。そう思って声をかければ、遊真は歯切れ悪く頷いたかと思うと、ひと言断って足を止める。道の隅に寄って端末を取り出した遊真は眉根に皺を寄せたままで、少ししてたぷたぷと返事を打ちはじめた。
「大丈夫? 用事とか……」
「へーき。こなみ先輩からだから」
「え? でも……小南も心配してるってこと、なら……」
――早く帰らないと、という言葉を口にしようとして、けれど喉に詰まったように言えなくなる。
おかしいな、この前はあんなに普通に言えたのに。今だって気持ちの整理ができてないわけじゃないはずなのに、すっかりと欲張りになった私は"まだ一緒にいたい"と気づいているから、思うような言葉が出てこない。
いっぽうの遊真も思うところがあったのだろう。浮かない表情のまま「和音は」と声を上げる。
「こなみ先輩が心配してるって意味、わかってるのか?」
「……えっと? 遊真が夜遅くまで出歩くと危ない、ってこと……でしょ?」
「そうじゃない……とまでは言わんが、こなみ先輩が心配してるのは和音だと思うぞ」
間をおいて「……私?」と思わず首を傾げてしまう。小南が私を心配して、どうして遊真に連絡をするのか。私が不思議そうにしていたからか、遊真もまた小首をかしげて口を開く。
「こなみ先輩は、おれたちが付き合ってるってこと知ってるだろ?」
「うん。話したけど……」
「ちょっとまえに、和音に手を出すなんて十年早いと言われた」
「……え?」
「最近は、夜に家に上がるなんて、変なことしてないだろうなと釘を刺された」
「…………うん……なんか、ごめん……」
小南ってば、まさか師匠権限を使って遊真のほうから根回ししているとは。遊真は「こなみ先輩、やけに勘がいいんだよな……」なんてぼやいている。もしかして、この前も小南から連絡が入ったのって同じ理由だったんだろうか。なんだか申し訳なくて、私はしどろもどろになりながらも声を上げる。
「えーと、あの……。小南にはちゃんと、嫌だったら嫌って言うよ、とは言ってあるんだけど……」
「和音は気にしなくていいよ。こなみ先輩の心配もわからんでもないし」
最後に画面をスワイプしたと思えば、遊真は端末をポケットにしまいなおした。特に気を悪くした様子もなく、遊真はなにも言わず私の手を取り――指先を絡めて、恋人繋ぎをしたあとで――ゆるりと引いて歩き出す。私もまた、引かれるままに歩き出した。
「和音、押しに弱いもんな」
「……え?」
「付き合ってもない男に手を握られたら怒っていいんだぞ。心配されてるからって、下心がないわけじゃないって警戒するくらいがちょうどいい」
「…………えぇ……?」
遊真は私の手を引いたまま、そんなことを言ってのける。こちらを見ずに話しきるのは、下心があった疚しさからか。様子を伺っていると遊真は「ま、おれとしてはラッキーだったけど」とまで言うので驚きだ。
……本当に、遊真にも少なからず下心があったのだろうか。だとしたら……と、私はおそるおそる口を開く。
「……遊真だって、気をつけたほうがいいよ」
「ん?」
思い当たりがなかったのだろう、遊真はきょとんとした顔をこちらに向ける。まっすぐな眼差しにちょっとだけ罪悪感が滲んだもので、視線をそっと逸らしつつ。
「女にだって、下心がないわけじゃないんだからさ」
それ以上は言葉が見つからなくて口をつぐむが、遊真もまた「……ほう」と神妙な相槌を打って黙ってしまう。
静かな帰り道、響くのは二人分の足音くらい。お互いに、どことなく後ろめたさを感じているからだろう。すっかりと会話の糸口も見つからず、砂利が立てる音を聞きながら黙々と二人、歩き続ける。
ふと、互いの足音が重なっていることに気づいた。視線を落とすと、紐で縛ってもいないのに二人三脚をしているかのように揃った足取り。思わずふふ、と笑ってしまうと、気づいたのか遊真が「どうした?」と声を上げる。
「え? っと、……なんか、歩調がぴったり揃ってて、すごいなって」
「普通だろ? 一緒に歩いてると、自然とそうなる」
なんでもないことのように言うけれど、遊真はどうして私達の歩調が揃うか、わかってるんだろうか。
だって遊真は早足の人だ。自分の目指すべきものに向かって、淡々と歩いていける人。だから、私みたいなのろまな足取りで遊真に追いつけるわけがない。それでもこうして足並みが揃うのは、遊真が少しだけ歩調を緩めてくれているからで――
「……そうやって、遊真が普通に隣を歩いてくれるのは、恋人の特権だよね」
かつては手を握るだけの繋がりだったのが、今は指を絡めた恋人繋ぎであることも当たり前になりつつある。そうして一緒に歩けることって、どれほど幸せなことなんだろう。
惚けていると、遊真が不意に足を止めた。つられて足を止め、遊真を見やる――と、唇が重ねられて。
「……こういうのは違うのか?」
「…………どちらかというと、贅沢かな……」
意地の悪い笑顔を浮かべる遊真が見ていられなくて、ほんのわずか顔を逸らしてしまう。そんなことは構わないと言わんばかりの遊真は、私の頬へ、ちゅ、と柔らかく吸いついた。ちらりと見れば甘ったるい眼差しが私を見ていて、おずおずと瞼を下ろせばもう一度、唇が重なる。
これから先、遊真にこうしてキスをしてもらえるのは私だけなのだろう。贅沢だと思う反面、離れがたくて、もっとと思ってしまう自分もいる。そんなワガママを言うわけには……と思うと、耳の奥で遊真の甘い声が蘇る。
――ちょっとくらいわがままでもいいだろ。彼女なんだから。
「……遊真」
「ん?」
「その、困らせたいわけじゃないんだけど……できれば、もうちょっと一緒にいたい、から……」
本当に言ってもいいのかな。でも、ここまで話してしまったのだから後戻りはできない。遊真に隠しごとなんてできないのだから、怖くても、素直に言うことしかできないのだ。
「……家、寄ってかない?」
言ってしまった、と思ったのも束の間だった。眼前の遊真が目を細めて、とろんとした笑顔を浮かべる。また、きゅうと胸が締めつけられて、恋しさが募る。
「和音から誘われて、おれが断るわけないよな」
「……私から小南に連絡しとくね」
「おう、よろしく」
さて、どんな言い訳をすればいいだろう。遊真の帰りが遅くなるとなれば、玉狛の人々が心配することもわかっている。とはいえ、一緒にいたい気持ちの方が容易に勝つもので、せめて小南には遊真を引き留めてしまったことを連絡しておかなければ。
いっぽうの遊真は、さっそくと言わんばかりに私の手を緩く引いて歩き出した。少しだけ早くなった歩調は、まるで家に着くのが待ちきれないとでも言うかのよう。あたふたと後を追うと、遊真はなぜか楽しそうに笑っている。
「やっぱりいいな」
「……なにが?」
「和音にねだられるのは悪い気がしない」
どことなく嬉しそうにも見える遊真に、あぁ、これが恋人だから許されるワガママなのかと納得する。なにより、遊真が困っていないのなら、もう少し一緒にいたいと思ったのが私だけじゃないといいな……なんて。
ふわふわと浮足立っていたら、ふいに遊真がどこか遠くを見やる横顔が目に留まった。
「……おいていかないでくれってのは、聞いてやれないと思うからな」
聞こえてしまった言葉に、思わず繋ぐ手に力がこもる。この手がいつか、離れてしまうときがくるのだと考えてしまったから。
気づいたのだろうか、遊真はくるりと振り返り――柔らかく細めた目で私を優しく捉える。
「かわりに、ほかのはなるべく聞いてやる。だから、ちゃんと言うんだぞ」
悲しませる未来があるとわかって、それでも一緒にいてくれると決めた遊真だから、私のワガママをこんなに嬉しそうに聞こうとしてくれる。私だけが、こんな遊真を独り占めしているのだ。
だから私は約束通り、いつか、遊真を見送らなければならない。そのためにできることは気持ちを隠してしまうことじゃなくて……きっと、ただ素直になること。
「……家、ついたら……抱きしめて、ほしい」
今すぐにでも遊真に抱き縋りたい気持ちを堪えてねだれば、遊真はきょとんと目を丸くした。けれど、すぐに甘くとろけそうな笑顔を見せてくれる。
「それはそれは、急がないとな」
二人、足並みを揃えて帰路を急ぐ。絡んだ指先もそのまま並んで歩く様子はきっと、どこからどうみても恋人のそれだろう。それでいて、今の私たちは名実ともに恋人で、なんだか誇らしくもある。
だって私は知っているのだ。遊真と繋ぐ手の温かさ、遊真の楽しそうに笑う声、遊真が私を甘く呼ぶ声、優しく私を抱きしめる遊真の腕の感触。遊真がふわりと重ねてくれる唇の柔らかさも、全部。
だから私は遊真と並んでいられるように、この足を止めず歩いていく。いつか来るお別れの日――この手が離れてしまうときまで、ずっと。
好きだよ、遊真。