今日の私は災難続きだった。きっと今朝、あんな夢を見たからだ。そんなことを考えていたので、開発局ロビーに人がいたなんて気づいてなかったのだ。背後からあの! と聞きなれた声で呼び止められて慌てて足を止めて。振り返れば予想通り、私を呼びとめた三雲君がいる。
「あれ、三雲く――」
――嘘、だ。そんなわけない。だけど否定するにはあまりにも面影を持っている人が、三雲君のすぐ傍、ベンチに腰掛けている。
真っ先に私の目を奪ったのは紅い瞳だった。驚いた様子もなく、私を真っ直ぐに射抜く眼差し。覚えのある、何かが見透かされそうな感覚に心臓がどくりと唸る。ふわふわとした髪型もどことなく見覚えがあって、けれど見慣れない黒髪に、安堵とも落胆ともとれぬ複雑な感情が胸に落ちた。なのに違うと思えないことが、怖い。
その人は私から視線を逸らさない。何を言うでもなく黙って見つめられて、本当なら何か用かとでも聞きたいのだけど、気後れして声が出せないまま。
だって、優しく細められた瞳が記憶と重なる。重なってしまう。
「……どうしたの? 三雲君の知り合い?」
どうにか、笑顔を浮かべられたと思う。一瞬の内に浮かんだまさか、をどうにか振り払って三雲君へと尋ねてみれば、眉をひそめながらもあの、だとかその、だとかしどろもどろ。私とその人の間で視線を彷徨わせる三雲君に縋るように視線を縫いつける。
けれど視界の端で、いよいよその青年が動いた。
「おねーさん」
低い、聞き慣れない男性の声。けれど覚えのある響きにどぐりと心臓が飛び跳ねる。
残念ながらこの場に女性は私しかいない。ので、私に声をかけているのだろうとおずおず青年へと向き直った。一歩、二歩。自然な足取りで歩み寄られて私は、後ずさりたくなる気持ちを鞄の肩紐を握りしめてどうにか堪える。
向かい合えば、視線が絡まった。見上げて身動きが取れないままでいると、青年は緩慢な動作で私へと手を差し出す。思わず肩が跳ねたけど耐えて待てば、手を伸ばした先は私の左手で。掬われて促されるままに指先をその人の手に重ねて――しまった、と気づく。青年の手が今朝、私の出来心で嵌めなおしてしまった指輪を撫でたから。
「……ひとりか?」
ぽそりと落とされた質問の意図が、目の前の穏やかな青年の表情からは汲み取ることができない。今一人かどうかは見ればわかるだろうし、かといって初対面の女性に独り身かどうかを尋ねる男性もそうそういないだろう。
仮に後者だったとしても、だ。ここに指輪がある意味を知らない人なんてほとんどいないだろう。そう、例えば。よほど文化に馴染みがない、とかでない限りは。
「……そうだよ」
どちらの意味であっても私の答えは同じだ。だから震える声で肯定すれば、なぜか青年の笑みが少しだけ深まった。この人はどちらの答えだと思ったのだろうか。何を知っているんだろうか――違う、そんなわけがないんだと。何度でも自分に言い聞かせる。
「あなたは、どうしてここに?」
迷ってしまわないように、間髪いれず青年へと質問を返した。どちらにせよ三雲君が連れてきたのなら用事があったのではないか。開発局への用事だとして、内線を使わずに直接連れてくるなんて急いでいるのかもしれない。呼び止められたのはきっと、タイミングよくここを通りがかったのが私だっただけなのだと、必死で抜け道を探す。
「散歩、かな」
告げられた答えはまるで、そんな私を追い込むような一言だった。
違うのだ、これは偶然。冗談を言って私をからかっているんだろう。肝が据わっているじゃないか。ボーダー本部の中は散歩なんかで気軽に来られる場所じゃないのに。
おねーさんと呼んだからには、年下なのか。ならば年上として小言の一つくらい言っても許されるだろうか。からかうのもいい加減にしなさいと。もう夜なのだし、用事があるのなら早めに済ませて帰った方がいい、と。
けれど私には、そう浮かんだ返事を飲み込むしかできなかった。だって、重なってしまいそうだったから。思い出してきっと、泣いてしまうだろうと思ったから。
もうこれ以上会話を続けていることすらも怖くて。必死で絞り出したそう、なんてそっけない相槌に、けれど青年は穏やかに微笑むだけ。違うと思いたいのに、思わなくちゃいけないのに、目が眩みそうになる。そんな私に、青年はまるで追い打ちをかけるように尋ねるのだ。
「……“今日は”会わなかったことにしなくていいのか?」
ぶわりと、フラッシュバックする記憶。耳に残る声のリフレイン。男性の低い声が、記憶にある恋人の声に重なってしまう。
「今ならまだ、放してやれると思うけど」
今なら、ってどうして。放してやれるって、どうして私のためみたいに言うの。
頭がおかしくなりそうだった。嬉しいのか悲しいのか怒っているのかすらわからなくて、ぐるぐると回る思考が私をさらに混乱させる。どうしてそんなことを言うの。あなたは何を知っているの、思っているの、考えているの。わかるわけないのに。
「……そうして、ほしいの?」
だから、馬鹿みたいに聞くしかできなかったのだ。まだ、そうだと決まったわけではない。まだ、引き返せる。こんな偶然もあるのだと、誤魔化すことができる。
「恋人がいるなら、大切にした方がいいだろ」
返答に胸がぎゅうと締め付けられた。どうして目の前の青年がそんなに悲しそうな顔をしているのだろう。細められた瞳はそのままなのに、僅かに眉根が寄ったのは自分で気づいているのだろうか。なぜ青年が、私が恋人を大切にしたいと思う心に苦しまなければいけないのだろう。
「……それは、あなたもでしょう?」
答えれば、指先がきゅうと強く握られた。それだけで期待が背筋を駆け上がり、体がぞくりと震える。触れたい。その手のひらに触れて、指先を絡めて今すぐにでも胸元に飛び込みたい。そう湧き上がる衝動に必死に耐えれば、青年は穏やかに微笑む。
「……だから、こうして恋人に会いにきたんだが」
そう告げた青年の紅い眼差しは私だけを見ている。耳に届いた言葉を疑うより先に身体は動き出していて、勢いも加減できずに目の前の体に飛び込んだ。まるでわかっていたかのように平然と受け止められて、確信する。逞しい胸板、熱、嗅ぎ慣れない香り。縋りついた背中はこんなにも広くなって、青年の逞しい両腕は優しく、それでも力強く私の体を抱きしめる。
「……ゆ、……ま……っ」
名前を呼びたい、おかえりって言いたい。だけど言葉にするより先に涙が溢れだして、音にならない。熱くて、苦しくて、こんな幸せな夢なら覚めないでほしいと強く願う。
「……和音」
耳元で囁かれた言葉は、何よりも幸せな、ただいまだった。