巻き戻した時計が語るもの
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 私にとって、家族と呼べる人は母親だけだった。物心ついた頃から父親はいなくて、一度だけ所在を聞いたときには「遠くへいってしまったの」とそれだけ。幼心に『もう会えないのだ』とわかってからは、なおのこと唯一の家族であるお母さんっ子に育っていった。
 だからこそ、お母さんの言葉は私の胸の奥底にしっかりと根づいている。

 ――傷を受け入れられる、大きな子になりなさい。

 お母さんに叱られることはあっても、怒られることはほとんどなかった。悲しんだ理由を探し、辛い気持ちを受け止めてくれる人だった。けれど幼い私に真似ることは難しく、どうして怒ってはいけないんだ、と泣きわめけばお母さんは重ねて諭す。

 ――傷ついたからとやり返せば、相手も真似をするでしょう。そうしたら、また傷つくことになるのよ。

 幼かった私には理解が難しいことだった。堪えようとすることが、ただただ、つらい。そう泣き続ける私を呼んで、そっと抱きしめてくれるお母さんは呟くように言い聞かせる。

 ――もっと素直に、悲しんでいいのよ。怒って誤魔化してしまわないで。

 お母さんはそう言って、私の根源にある悲しみの理由を探っては受け止めてくれた。繰り返し抱きとめてくれるお母さんに、私は次第に怒りを体現することは少なくなっていったと思う。
 だからだろうか、近所の人にも「ずいぶんと素直な子だねぇ」なんて笑いかけてもらうことも多かった。朗らかであることで、笑顔を返してもらえる。それがお母さんの伝えたいことなのだろうと、ぼんやり理解していった。
 そして、四年前。大規模侵攻のあの日、私の運命は動いたのだと思う。

「和音、よく聞いて」

 突如現れた大量の化け物――今なら、近界民とわかるのだけど――による侵略行為。すっかりと荒れ果てた街並みを人々が逃げ惑い、辺りは惨憺たる有様だ。
 けれど、それよりも私は、いつも穏やかな笑みを浮かべているお母さんが真剣な表情をしているのが怖かった。両肩に置かれたお母さんの手に力がこもるのも、険しい表情で私を見据えるのも、全部が恐ろしい。だからこそ、必死でお母さんを見つめ返す。

「お母さんはね、向こう側から逃げてきたの。たぶん、もう隠しきれない」

 ドォン、ドォンと重ねて響く爆音と、なにかが崩壊していく音。それら全部がどこか遠くに聞こえて、それでも緊迫感だけはあった。どうして、と聞けるほど猶予がないこともわかったので、お母さんの真剣な声だけに集中して耳を傾ける。

「あなたを絶対に守りとおす。そのために……やっぱり、これが必要なのね」

 お母さんは自分の胸元を憎らしげにぎゅうと握りしめた。指先が白くなるほど強く握ったそれを放して、今度は優しい強さで私をその胸に抱きこむ。
 私はわずかな安心感を覚えるも、腹の底が冷えるような恐怖心は拭えないまま。抱きしめかえすこともできず、耳元で呟かれる最期のお母さんの言葉を聞き届けた。

「私のすべてを託すわ。お母さんが、あなたを守る力になるから」

 気づけば私の目の前には光が溢れだし、眩しさにこらえきれず瞼を閉じる。次第に、私を抱きしめていたお母さんの腕の力が弱くなっていった。
 瞼越しでもわかるほどの輝きが消えた頃、おそるおそる目を開ける。身じろぎした私に呼応するように、目の前でお母さんを象った塊が砂となって崩れ落ちていく。

「……おかあ、さ」

 あっという間に目の前から消えた姿に、喉がひゅっと鳴って、それ以上言葉にできなかった。けれど応えるように、どくりと心臓が音を立てる。思わず手を当てるも、変わらずどくん、どくんと訴えかける動悸。
 今、なにが起こったんだろう。理解したくなくて、それでも涙が滲むくらい、わかってもいて―― 

「……今のトリガーは、お前が使ったのか?」

 突如、背後から伸びる人影が私を覆った。こわごわ振り返るも、ぼやけた視界と逆光では姿も表情もよくわからない。だけど、どく、どく、どくと打ち鳴らされる心臓が、危険だと私に告げていた。

「それはわが国の至宝だ。返していただこう」

 あっという間の出来事で、あとの記憶は曖昧だ。覚えているのは、ひと際大きく心臓が跳ねたことと、ぐるりと身体が抉られたような感覚だけ。
 もはや現実だったかどうかもわからなくて、次に覚えているのは瓦礫の上で目覚めたことだ。それから、隣に赤を滲ませた見知らぬ男が倒れていたこと。さらには――

「……これは、もしや……」

 驚きとも戦慄ともとれる男性の声が聞こえて、私は朦朧とした意識の中で彼の顔をうかがう。さっきと違うのは、心臓がとくり、とくりとゆっくり震えていることだ。警戒心を緩めることはできないが、先ほどのような危機感はない。

「安心してくれ、危害を加えるつもりはない」

 男性――現忍田本部長――は私を刺激しないようにか、ゆっくりと腰を落とした。片膝を地面につけて、なお腰を屈める格好で、私に寄り添うように静かな声を響かせる。

「君はトリガーを持っているのか。まだ戦うつもりか?」

 わけもわからず、それでも戦うつもりなんてなかった私は必死の思いで首を横に振った。忍田さんは目尻を緩め、立てるかと手を差し出してくれる。おそるおそる手を伸ばして、重ねた手の温かさに気が緩んだと同時に意識が途切れた。

 のちに大規模侵攻と呼ばれるそれは界境防衛機関、ボーダーによって収拾された。怪我をしているからと、治療を受けさせてもらった病院で流れていたニュースは今も印象的だ。
 そして本部基地が建てられて間もなく、私はボーダーの人に呼び出された。なにやら検査を行うからと様々な機器をつけられ、ベッドへと寝かされ、規則的な電子音が鳴り響くなかで次第に意識がぼうっとしていって――
 
「――駄目ですな。このままでは外せない」

 夢を見ているような感覚だった。ぼんやりと覚えているのは、鬼怒田さんが落胆した声色で城戸司令へと進言していたこと。ブラックトリガーとやらが私の心臓付近を包むようにして存在し、それを取り出そうとしているようだった。

「生身の時であってもスリープ状態なんでしょうな。本人の意識外でも、なにかのはずみでトリオン反応が出るとなると、なにが起こるやら……取り出すどころか、解析すらも危うい」
「……ふむ」

 朦朧とする意識の中では、なにも考えることができない。ただ最後、視界にふっと城戸司令が入りこんできて、仏頂面のまま私に問うた。
 
「お前は、このトリガーをどこで手に入れた」
「……おかあ、さん……」

 どくん、と心臓が呼応する。意識が薄れていく中で、城戸司令が「そうか」と答えたような気がした。

§

「……和音ちゃんも近界民だったのか」

 空閑君が思わずとでもいうように呟くので、過去へと沈んでいた意識が現実へと戻ってきた。
 私を見る空閑君の眼差しに驚きはあれど、それだけ。空閑君自身が近界民だから抵抗もないのだろう。とはいえ、事実と言い切れるものでもないので私はゆるく首を振る。

「……私は向こうの世界を知らないから、なんとも」
「ふむ……でも、和音ちゃんの母さんは近界民なんだな」
「そうだったみたい」

 ここでは近界民といえば侵略者とイメージが直結してしまう。三門市を一時壊滅状態にまで追い込んだ敵であり、たくさんの犠牲者を出した、倒さねばならない存在。
 でもお母さんは違う。もちろん、目の前にいる空閑君だってそうだ。向こうの世界の人間というだけで、イコール侵略者とはならないはず。それでも、なかなか普通の人に話せることではないので、空閑君が受け入れてくれたことにホッとする。
 けれど今度は疑問が浮かんだようで、空閑君が「ううん?」と不思議そうな表情で首をかしげる。

「大きな侵攻があったの、だいぶ前だって聞いた気がするけど」
「四年くらい前かな」
「和音ちゃんがボーダーに入ったのは?」
「一年くらい前だね」
「じゃあ、すぐにボーダーに入ったわけじゃないのか」

 ――本題はここからだ。私がブラックトリガーのことを、できる限り知られたくなかった理由でもある。
 けれど空閑君の紅い瞳は透き通っていて、今浮かんだばかりの疑問を純粋に私に問うているだけだ。それなら私も、ありのままを告白すればいい。だから――意を決して、話を続けることにした。


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サヨナラの引力

 

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