朝日に向かって立ち止まる
 ――かくりと、意識が落ちた。同時に、ふわりと浮いた感覚。

 ぱちりと目が開いて、飛び込んできた部屋はすっかり明るくなっていた。もう朝だ。夢と現実が地続きになっているような感覚にしばし混乱しつつ、重い身体をどうにか起こして一息。眩しさに目元をこすれば、微かに肌が引きつるような感触に溜息をつく。

「……こっちでも泣いちゃってたのかな」

 私はベッドサイドに置いたブラックトリガーによく似た指輪を手に取った。こんな夢を見たのは、昨日たまたま指輪を外して寝たからだろうか。寝る前に保湿クリームを塗った後、べたつきが収まったらと思っていたら嵌め直すのを忘れてしまったらしい。
改めて眺めれば、何年もずっとつけていたからだろう、あの頃とは違って小さな傷が増えている。だから輝きは少しだけくすんでしまっているが、それでもお店に預けて手入れを頼もうという気にもなれないからそのままだ。

 あの日からの年数を数えることが嫌になるくらい、時間は過ぎた。私も二十代半ば。S級隊員ではあるものの、同時に本部運営側に勤める社会人だ。今日もこれから仕事。そんな、ずいぶんと変わってしまった日常を日常として生きている。
 相変わらずゲートは開くし、ネイバーの侵攻も途切れることはない。それでもボーダーは着実に力をつけている。隊員数も増えたし、遠征部隊も繰り返しネイバーフットへと赴いては新しいトリガーを探し出し、ボーダーの技術向上に貢献している。

 とは言っても。私にしてみればあの日忽然と遊真がいなくなってしまったことに比べたら、どれもが些細な変化だ。
 遊真が帰ってこなかったことに対して色んな人がいた。トリガー反応がロストしても、生きているかもしれないと言う人。ネイバーフットは遊真の故郷でもあるのだから、過去を思えば生き延びているかもしれないと希望を抱く人がいた。
 逆に、私に対してははっきりと言葉にしなくとも諦めている人だってたくさんいた。ネイバーに単身残るということがどういうことか、知っている人は特に。こちらから派遣された人間だとわかれば、おそらくただでは済まないだろうとも。
 迅さんは何も言わなかった。私も聞くことはできず、お互いに遊真の話はしなかった。三雲君は酷く憔悴して、それでも私に深々と頭を下げた。搾り出すような謝罪は今でも耳に残っている。自分だって辛いだろうに。遊真の身体の事情を知っているからこそ余計に、簡単なことは言えなかったのだろう。生きているかもしれない。けれど、戻ってくるまで、生きていられるかはわからない。
 だから私は、謝らせてごめんなさいと、ありがとうと言って頭を下げるしかできなかった。三雲君がいよいよ漏らした嗚咽に、私も涙を零すことしか、できなかった。
 私を心配してくれる人もいた。同じように悲しんでいる人もいっぱいいた。皆が皆、それぞれの形で遊真との別れを惜しんだ。それでも確かに過ぎていく時間の中で、それぞれが傷を治して、抱えて、日常を送っている。

 私もそうあるべきだったし、そうであるように振舞っていたつもりだ。いなくなってしまった事実はもう覆せないとわかっていたから。そもそも初めから、そんな時がくることをわかっていて一緒にいたいと望んだのだ。だから私も前を向かないと。
 それでも、少しだけ未練がましい出来心が首をもたげて。
 きっと昔の夢を見たからだろうと、誰にするでもない言い訳を胸の内で零す。私は遊真の形見をそっと左手の――いつもは人差し指に嵌めていたのだけど――薬指へと宛てがった。私の一瞬の躊躇いも吹き飛ばしてしまうくらい、呆気なく肌を滑る指輪。第二関節すらも簡単に越えて、根元にしっかりと収まってしまう。

「……もう、いいかなぁ」

 窓辺のカーテン越しに差し込む朝日。左手をかざせば少しだけ、輝きを取り戻したようにすら見えた。ばかみたいだ。ここにあったら、この指輪が意味するものは。

「……いいんじゃないかなぁ、もう」

 わかっていても、自分を咎める気力はもうどこにも残っていなかった。ダメだと言われようと、未練がましいと思われようと、情けないと怒られてしまおうとどうでもいい。私はあの日確かに、遊真の背中を見送った。だけど、私は今日までずっと私の中の遊真を見届けることができないままでいるのだから。

「あぁ、もういいや、遅刻しちゃう」

 私は独り言を零して、無理矢理に思考を振り捨てた。考えてしまえばきっと今日は仕事にならないだろう。大丈夫、今日行けば明日は休みだ。そうしたらまた考える時間も悲しむ時間もある。
 自分の正直な気持ちを押し込めたところで、咎める人はもういないのだから。
 ベッドから降りて、いよいよ私はルーティンへと意識を移した。指に感じる違和感はもうすっかりとなくなって、指輪がいつも通り私の指に収まっているのだと錯覚する。私はそのまま支度を済ませて、玄関の扉を開けた。

「いってきます」

 誰も残っていない部屋に声をかける。少しだけ、あと一日でいいから。昔のことは部屋にこもっていてくれないだろうか。
 そう願いを込めて、私は玄関の鍵を閉めたのだった。

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サヨナラの引力

 

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