もし、たとえば、その時は。
「おれが浮気したらどうする?」

 唐突な質問は、食後の団欒の間に落とされた。習慣化しつつある共同での夕食作り。その後で一休みしようと甘いココアを差し出したらこんな言葉が返ってきたのだ。なんとも、脈絡がなくて驚く。何が発端だろう。

「まぁ、別れるんじゃないの?」
「そうだよな」

 答えに満足したかはわからないけど、マグカップを手にとってずす、とすする遊真。私もココアを飲みながらも、改めてもう少し考えてみる。

 遊真が、浮気。なんとも似合わない言葉だとは思う。だって浮気をするということは、嘘をつくことだから。私を切ってから次に行くんであれば浮気にならないし。浮気と言うからには、私と付き合いながらも別の人と付き合うという状況のはずだ。
 と、少しだけ考えが甘いことに気づく。別に、どっちも好きなんだったら、嘘にはならないんだろうか。

「あー、っと、さ」
「うん?」
「……いや、もうちょっと待って」

 違う2人を同時に好きになる。そういうことがないとも言い切れないだろう。いずれは1人に収束するのかもしれないけど、気持ちが重なってしまうことはあるのかもしれない。
 浮気はよくないことだと思う。それは多分、されたら傷つくことだから。けど、心が浮つくことをを責めていいのかと思うと少し悩む。

 交際している相手に対して無責任だし、不誠実だとは思う。ただ、そこまで人の気持ちは、感情は制御できるものなのか。いや、人間には理性というものがあるのだから、行動は自重するべきだろう。けど心は難しい。他の人を好きになるな、なんてことは言えない。そうして心を決められない以上は、いずれ行動も――

「なぁ」
「へ、あ、えっ?」
「そこまで真剣に考えられるのもフクザツなんだけど」

 そう言いながらジト目で私を睨む遊真は、いつの間にかすぐ脇にいた。私からはもう遊真の顔しか見えなくて、吐息すら頬にかかるほどに、近い。

「別にしたわけでもないし、する予定もないぞ」
「う、うん。そうだとは、思ってるけど……」
「じゃあなんでそんなに考えこむんだ」

 自分で振った話題なのに、考えられるのが嫌だったらしい。というかこの場合は、私が考え込むのが遊真を疑っているように見えたのかも。どうにかフォローをしたいとは思うものの、思考を突然に中断させられたものだから考えはまとまってなくて。しかも遊真からの眼差しというプレッシャーに、答えがすぐには出てこない。

「それとも、逆か?」
「……ぎゃく?」

 何が、と聞こうとした言葉はそのまま遊真の唇にのみこまれた。突然のことに目も瞑むれないままでびっくりしていると、薄らと開かれた紅とかち合って。次の瞬間には頬を滑った遊真の手のひら。驚いて反射的に目を瞑る。首も竦んでしまったけど、逃さないとばかりに追いかけてきてもう一度、念入りに合わさった唇。なんで、急に。心の準備もなくされたキスに心臓が破裂しそうで、身体が震える。

 少ししてから、遊真はゆっくりと身体を離した。けれど一言も喋らず、私の反応を伺うかのような視線が向けられて。何か喋った方がと思うけど、パニックの連続で言葉一欠片も浮かばない。互いに黙り込んでしまうと落ちる沈黙。居心地が悪い。
 しかしその静けさが、ようやく遊真の意図するところを考えつくまでの時間をくれた。

「……もしかして逆って、私が浮気してるかって話?」
「うむ」
「してないよ?」
「だろうな」
「……じゃあ、なんだったの……」

 してないって言葉を間髪入れずに信じるなら、なんで急にキスなんてしたんだ。まだ心臓ドキドキしてるし、もうなんていうか、色々といっぱいいっぱいなのに。

「傍にいったら、キスしたくなった」
「……そう、ですか」

 弄ばれたような気がしないでもないけど、なんだかもう色んなことがどうでもよくなってしまう。少なくとも、一緒にいられる今考える必要があるわけではない。暇つぶしにはいいかもしれないけど、それならば今は不適切だろう。

「けど、なんだかなぁ」
「なんだ?」
「最初に言い出したのは遊真じゃない。ちょっと考えてみただけなのに」
「少なくとも、おれは怒るぞ」

 ん、と何かが噛み合わなかった感じがして口を閉ざす。考えごとをして怒る、ってわけではないだろうなと思って遊真を見れば、いつもによく似た――けれど少しだけ寂しそうな笑顔で口を開いて。

「他のやつ好きになっても良いけど、おれに嘘は通じないってわかってるだろ」
「……うん」
「だから、嘘ついてまでおれに付き合うのは怒るぞ。ちゃんと次のやつのトコに行け」

 ――あぁ、もう。

「……どうせなら、行くなって言ってよ」
「うん?」
「約束はちゃんと守れって言って、引き止めてよ」
「……一緒にいないなら約束の意味はない。必要ないだろ」
「……ねぇ、遊真にとっては違ったの?」
「ん?」
「遊真は、私が見届けなくても、構わないの?」

 紅が少しだけ揺れて、瞬く。例え話になんでこんな思いをしなきゃいけないんだ。
 けど、でも嫌だった。たとえもしもの話でも、遊真は平気なんだってことが寂しい。
 いつかくるかも、わからないさいご。その時を見届けて欲しいと願ったのは遊真で、それはきっと私のためで。いつかの先を生きる私のためだってことも、わかってるけど。

「……遊真からは見届けるものに見えるんだろうけど、私からは、見送るものに見えるんだよ」

 それはきっと私と遊真の絶対的な違い。どうしても埋まらない溝で、手を伸ばしてやっと繋がるこの距離は一向に縮まる気配を見せない。

「……そうだな」

 小さく落ちた声が何よりも、埋まらない切なさを孕んでいた。まるで、初めて気づいたかのような声色。きっと認識の違いはどこまでいっても私達を区別する。

「……でもそれ、おれに言ってよかったのか?」
「遊真に言わずに誰に言うの」
「聞いたからには、おれ、その通りにするぞ」

 床に付いていた私の手。その上に重なる遊真の手。

「嫌だって言われても、逃してやれないからな」

 ――どうせなら。私の終わるそのさいごまで、逃がさないでくれたらいいのに。

「私に言ってよかったの?」
「なんでだ」
「手、離さないのは遊真だけじゃないかもよ」

 満足気な笑顔。そう、たとえ話だもの。遊真が他の人のこと見ても、手を離してあげるつもりはないよって。

 だから、お願い気づかないで。
 もしかしたらいつかのその先に、私はいつまでもありもしない手を握っているかも、なんて。そんな私の小さな不安と寂しさは、どうか。

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サヨナラの引力

 

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