休日出勤を終えて、長かった今週がようやく終わる土曜日の夜。私はとても疲れていた。四年ほど前の大規模侵攻で家族を失って、残されたのは小さいとは言え戸建ての我が家。一人で住むには広すぎたけれど、失うことなんて考えられなくて、高校を卒業してすぐに就職した。働いて、働いて、稼いだお金は生きているだけで消えていく。ねぇ私、なんのために働いているんだろう。
そんな疲弊しきった脳みそだったけれど、空腹を感じていることはわかったので疲れた身体を引きずってコンビニへ。自炊の方が安上がりだなんて嘘だ。一人分のご飯を作るくらいならコンビニの方が安上がりだろうに。すべてに文句を付けたくなるようなイライラした調子の中でどうしてだか――通りがかった商品棚に陳列されていた、ライターが目に留まる。
「……燃やしたら、スッキリするかな」
そんな物騒な発想が浮かんでしまったのはきっと疲れていたからだろう。さすがに家を燃やすわけにはいかないけれど、アルバムやら思い出の品の一つくらい燃やしてみたらどうだろう。一つでも無くしてしまえれば、あの家への執着もなくなるだろうか。そうしたら今よりはずっと、楽になれるだろうか。
ライターなんてたかだが百円程度だ。安いし、もし明日正気に戻ったとしてそう痛くない出費。いざって時に明かりにも使える。うん、別に損はないし買ってしまおう。一つ適当な色のものを手に取って、今日の夕飯と一緒にレジへと広げる。
「お願いします」
「いらっしゃいませ」
ぴ、ぴ、と店員が順番にバーコードを読み上げていくが、おにぎりやペットボトル飲料に紛れてライターを買うのって不審に思われるんだろうか。とは言え店員もわざわざ、何に使うんですか? なんて聞いてくるはずもなく、普通に会計額を告げるので私も普通に支払いを済ませる。こうして、帰路につく私が提げたレジ袋には、普段ならあるはずもないライターが混ざり込んだのだ。
*
次の日の朝は、休みだと言うのに普段の起床時刻より数分早くに目覚めてしまった。本当なら二度寝でもしたいところだけど、妙に落ち着かなくて寝付けず、諦めて早々にベッドから降りる。朝食は何にしようかと居間に下りれば、机の上にはゴミ袋。昨日ご飯を食べた後にゴミをまとめて縛ったレジ袋がそのまま残っていて、隣にはライターがポツリと置かれている。
「…………」
迷って、ライターをそっと手に取った。そうだ、昨日の疲れ切った私はわざわざこのゴミをゴミ箱に捨てず取っておいたのだ。燃やす予行練習にはちょうどいいだろう、なんて考えて。
「……朝の方が、いいかな」
日曜日と言えば大抵の人の休日だろう。サービス業はさておき、休日ならば、あまり早くに出かけたりはしないだろうし、家でのんびりと過ごす人も多いはず。つまり、今くらいの時間ってもしかして、人の目があまりないのでは?
そう考えてからは行動が早かった。とっとと適当に朝食を済ませ、レジ袋を片手に家を出る。庭で燃やして万が一の事態は避けたいし、下手したらボヤ騒ぎで通報されてしまうかもしれない。いざという時に消火できて、人気がなくて――思い当たったのが、近所の小川だ。
「……誰もいない、よね?」
ばくばくと心臓が今にも胸を突き破りそうだ。いくら住宅街の合間を流れる小川とは言え、住宅街だからこそうっかり人が通りかかったりするかもしれないし。不審者として通報されないだろうか。いざという時は――昨日死にもの狂いで虫を退治してこのゴミ袋に収めたけれど、このままゴミ箱に入れて燃えるゴミの日まで待つのは気持ち悪くて耐えられなくて、ついつい出来心で――よし、これで行こう。怒られるだろうけど、もういいや。
「予行練習は大事、だしね」
頭からネジが一本外れてしまったように、その穴から忍び込んだ何者かに憑りつかれてしまったかのように私は行動を進めていく。小川脇の砂利で適当に囲いを作って、間違っても延焼しないよう土台をつくる。中央には昨日食べたコンビニご飯のゴミ。風もないし、すぐそこに水があるから大丈夫と言い聞かせて、私はライターを持つ手に力を込める。
見よう見まねでライターを擦るも指先が痛むだけだった。マッチにすればよかったかな。そう手間取ったものの、数回の後にようやく火が灯ってすぐ消える。これ、擦ったあとそのまま指を抑えてなきゃいけないんだ。要領を得た私は再度ライターを擦り、火が灯ったのを確認していよいよ――火を、そっとゴミ袋へと近づける。
点いた、瞬間ぐにゃりとレジ袋が歪んだ。透き通った炎がするすると表面を走っていき、レジ袋は跡形もなく消えていく。生き物のようにぐねぐねと踊り続ける様はどこか気持ち悪くて、けれど興味深い。私はぼうっと燃えていく様を眺める。すごい、こうやって燃えていくんだ。こうして跡形もなく――消えて、いくんだ。
ビニール袋だけでない、中に入っていたゴミも燃え始めた頃だった。パチ、と静電気が走ったかのような音。上から聞こえてきたようなと視線を上げると、頭上にはぽっかりと黒い穴が口を開けていた。嫌な予感がしつつも動けないでいると、穴からずるりと何かが這い出てくる。
「――あ、しまった」
黒い穴とは対照的な、真白な髪。紅い瞳と目があった瞬間、少年はそんなことを呟いた。あれ? と思っている内に穴から出てきた少年は、マントのようなコートを翻しながら私の目の前――火の上へと危なげなく着地する。
「……えーと、コンニチワ。アヤシイモノではありません」
しゃがみ込んだ私と視線を合わせるように、着地した体勢のままそう挨拶するのは――近界民だ。
そうだ、あの見覚えのある黒い穴はゲートと呼ばれるもの。一面びっしりと空を覆った姿が印象深かったために、一つ間近で見ただけではすぐにそうと結びつかなかった。けれどそうあの時も、こんな黒い穴からたくさんの――怪物が、現れたのだ。
「うぉ、なんだこれ、なに燃やしてるんだ」
近界民はようやく足元の火に気づいたらしい。あげく、妙な焦げ臭いにおいがするからもしかして、近界民の身体を覆うコートに燃え移ったのでは。
チャンスだ、と思った。この際火の後始末なんて気にしていられない。殺される。ダメだ、今しかない。私はとにかく近界民から逃げようと、弾けるように走り出す。
「あ、おい」
遠ざかっていく近界民の呼び止めるような声に、焦りは感じられない。どうでもいい、逃げようが関係ない、とか。そういう感じだったらありがたいのだけど。
――当然、現実はそうまで優しくない。
「待てって」
今度の声は耳元で聞こえた。これまでのどれよりも身近で響いた声に、驚く間すらなかった。世界がぐるりと回って、次にくる痛みを想定したものの何かが私の頭を包んで、気づいた時には痛みも衝撃もなくただ仰向けに寝転がっていたのだ。
「悪いな、さすがにこのままは逃がしてやれない」
化け物なんだ、本当に。まるでワープでもしたかのように呆気なく私に追いついて、いとも簡単に私を……痛みすら与えることなく抑え込んでみせた近界民は。
「……殺す、の?」
あまりに現実味のない状況に、我ながら間抜けな問いかけをしてしまった。実感はないけれど、私、もしかしてもう走馬灯を見ているのだろうか。
どうして近界民は私たちを殺すんだろう。連れ去っていくんだろう。これからどんな仕打ちが待っているというのだろうか。とうとうと思考が巡っている間に、予想に反して近界民は首を横に振る。
「さすがに、イキナリ殺すのはマズイだろ」
近界民が抑揚なく告げる言葉は、だからこそ恐ろしかった。近界民にとって私を殺すことなど容易いこと。そうか、さっき逃げる私を見てもなんの驚きも見せなかったのは、それが近界民にとって取るに足らないことだったからなのか。
「……どうすれば……」
逃がしてもらえるのか。そう訊ねようとしたのに、私の身体は意志に反して飛び起きようと体を弾ませる。なんだ、何があったんだ。私は、どうして。
「――あ、まずい」
痛い、痛い。熱い。熱い? あぁまさか、火が、消えていなかったのか。もしかして、私にも――。
状況を理解するのと、唐突に息ができなくなったのは同時だった。パニックを起こしかけた頭ごと全身が急激に冷えて、感覚の落差にまた混乱する。息、息できてる? 溺れる、え、どうして? 今度は唐突に腕をぐいと引き上げられて、目の前の紅い双眸にまた命の危機を察して思考が停止する。
「おい、大丈夫か?」
けれど、かけられた言葉は私を案ずるようなものだった。私の目の前にいるのって誰? 近界民だよね。なら、どうして近界民は私を……助、けた?
「……今、なにが……」
「火がおまえにも燃えうつったから、川に入った」
淡々と告げる近界民に呆けるばかりだ。川に入ったって、火を消すため?
順を追って状況を振り返ろう。私はただ、近所の小川でちょっとした火遊びをしていた。そこへなぜだか知らないが、近界民が現れた。火が近界民に燃え移った隙に逃げようと思ったけど、近界民は火なんておかまいなしに私を取り押さえた。けれど私にまで火が燃え移って、近界民はやむを得ず私と共に川へ飛び込んで――今、というわけか。
「……どうして?」
「焼け死にたかったのか? おまえ、今もだけど混乱してるだろ。こんな浅い川で溺れそうになってるくらいだし」
川底に座りこんでいる私の腰より、少し高いくらいにある水面。おそらく水深なんて三十センチ程度だろう。立ち上がればきっと膝くらいまでしかない。それなのにも関わらず、次から次への怒涛の展開に混乱しっぱなしだった私は溺れそうになり、命を狙っていると思っていた近界民に助けられた、と。
「……ありがとう、ございました?」
「うむ? どういたしまして」
私は近界民と何をしているんだろうか。怪物だと思っていた近界民だが、意外とコミュニケーションはとれるらしい。しかも、思ったより礼儀正しい。混乱したままだった私は近界民に対して――命の恩人なのではないかと――少しだけ、気を許してしまった。
「あの、とりあえず」
「うん?」
「……寒い、ので。自宅に帰って着替えたいです」
「ふむ」
「それで、あの、古着でもよければ服を差し上げますので」
「ほう?」
「……とりあえず、命だけは助けていただけ、ませんか」
「いいよ。別に、もともと殺すつもりなんてないから、少しは落ち着いてくれ」
恐る恐るの提案は、近界民にあっけなく受け入れられてしまった。いい、のか。とりあえずはまだ首の皮一枚繋がっているらしい。少しだけ冷静さを取り戻した私は火の後始末だけ確認し、近界民を見やる。
白い髪、紅い瞳、端が少し焦げたコートはぐっしょりと濡れていて、手には何やらリュックサックのような荷物を持った近界民は準備万端らしい。私たちは言葉少なにその場を後にし、自宅への道を歩きはじめた。