さすがに午前中からずぶ濡れで歩いていたら、何事かと思われるだろう。だから私は近所の人にすれ違わないよう、出来る限り足早で自宅へと戻ってきた。――近界民を連れて。
家を出る時には、まさか自宅に人を招くなんて考えてもいなかったし、それが近界民だなんて予想の上のそのまた上を行く事態だ。あげく近界民も、平然と私の隣をついて歩き堂々と家に招かれたのだから。
何はともあれ無事に自宅へと戻ってきた。もう、とにかく寒い。真冬なのにも関わらず、消火のためとは言え川に飛び込んでずぶ濡れなのだから当然だ。とは言え客人がいる今、果たしてこれからどうするべきかと隣の近界民を伺う。
「……あ、あの」
「うん?」
「お風呂、入りますか?」
「あぁ、おれは平気だから、入るなら入っていいよ」
「で、でも」
「着替えだけくれ」
「は、はい」
さすがに、自分が先に風呂に入るということはしないらしい。そりゃあその間に私が逃げ出さないとも限らないだろうし、その可能性を見逃すほど甘くもないのだろう。震えている私とは違い、平然として顔色も変わらない近界民は、やはり寒さも感じないようなバケモノなのだろうか。
私はとりあえず、差し出す服を探すべく二階にある自室へと向かった。目を離さないようにか近界民もすぐ後ろについてくるので、階段を登るひたひたという足音が恐怖心を煽る。私も寒いし、とにかく急いで適当なものを見繕わなければ。背丈は少年といった雰囲気だし、私の女物の洋服であっても難なく着れるだろう。かといってスカートなどを差し出すわけにもいかないし、なるべく無難なものを手早く複数枚選ぶ。
「あの、どれでもいいので着れそうなものを着てください」
「うん。ありがとう」
「じゃ、じゃあ、あの」
「とりあえず、おまえは風呂に入ってきていいぞ。おれもその間に着替えておくから」
「は、はい」
さすがに服を差し出しただけで解放してくれる、というわけではなさそうだ。指示には従っておこうと私は素直に脱衣所へと向かう。やっと、濡れた服を脱げた。冷えすぎたからかぬるいハズのお湯でも熱く感じてしまって、少しずつ慣らすようにぬるま湯から浴びつつ身体を温める。
本当ならきちんとお湯を溜めて浸かった方がいいのだろうけど、部屋に近界民を待たせているのにのんびりとお風呂で温まるなんて到底無理だ。いくらなんでも気が休まらないし、とにかく事態を進展させるには近界民と改めて会話を試みるしかない。
私は手早くシャワーを済ませ、着替えも済ませて自室へと戻る。部屋の中には、こちらも着替えを済ませたらしい近界民が待っていた。
「お、あがったか」
「は、はい」
「じゃあ、まぁ座ってくれ」
もしかしたらいなくなっているかも。なんて、淡い期待を呆気なく打ち砕いた近界民は、まるで自分の家かのように寛いでいる。あげく、私に座れと声をかけるくらいには余裕があるらしい。自室にも関わらず近界民に促されて大人しく腰を下ろせば、近界民は少しだけ姿勢を正してさて、と呟いた。
「とりあえず聞きたいんだが」
「……はい」
「ここはニホンだよな?」
「はい、そうです」
唐突に始まった会話だが、どちらかというと尋問と言うべきなのだろうか。近界民は現状を確認するかのように一つずつ私へと質問をし、答えた私を確かめつつ会話を続ける。
「ボーダーって知ってるか?」
「はい」
「どんなところだ?」
「えっと……近界民の侵攻を食い止めて、私たち市民を守ってくれる組織、です」
「……ほう」
近界民はどうやらボーダーを知っているようだったので、認識を共有すべく私も組織の存在意義を解答する。近界民としてはやはり、ボーダーは目障りな組織なのだろうか。それにしては妙な反応に言葉を間違えたかと思うが、切り替えたのか近界民は尋問を続ける。
「そのボーダーはどこにある?」
「三門市の……いえ、見た方が早いと思います」
「ここから見えるのか?」
「はい」
「どこ?」
近界民が教えてほしそうに首を傾げるので、私はおずおずと立ち上がる。そのまま窓際へと寄り、カーテンを開ければ、遠目にもそびえたつボーダー本部がその存在感を主張している。
「あの一番大きな建物がそうです」
「うぉ、でかいな」
近界民はまじまじとボーダーの建物を眺めて観察している。敵陣視察、だろうか。しばらく眺めた後にありがとう、と言った近界民は元通りにカーテンを閉めると、また私を座るように誘導する。
「おねーさんは、ボーダー関係者?」
「いえ、一般人です」
「……そうか。それはすまないことをした」
近界民はなんだか申し訳なさそうに頭を垂れる。どうしたのかと思えば近界民は「申し訳ない」とすら告げたのだ。
「ど、どうしてあなたが謝るんですか」
「戦いに一般人を巻き込まないのは、軍人として最低限のマナーだよ。一応な」
目の前の近界民が話す言葉は、本当に、私たちと同じ言語だろうか。近界民の口からマナーの言葉が出てきたことも、さらには戦争倫理が掲げられたことにも驚きだ。近界民とは私が想像しているほど無秩序な軍団というわけでもないのだろうか。けれど、一応というからには建前なのだろうか。
「……あなたはマナーを守っている、ということですか」
「うん。まぁ、信じるか信じないかは任せるけど」
「なら、さっきはどうして」
「さすがに、状況もわからず騒ぎになったらおれが困るからな」
近界民にも自分を守る必要がある。だから、無用な騒ぎになる前に私を取り押さえたというのなら近界民の言い分は理解できるものだった。少なくとも近界民はこれまで、私に必要以上の害を与えようとはしていない。むしろ、騒ぎにならないようにと立ち回った結果私を助けてさえくれたのだ。近界民の言うマナーとやらを信じつつあった私は、今度は自分から質問をしてみることにする。
「あなたは私たちを殺しにきたわけでも、連れ去りにきたわけでもないんですか」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、どうしてここにきたんですか」
「人探しだ」
「……はい?」
「だから、人探し」と繰り返す近界民に私はまた呆けてしまう。どうして近界民が、日本に人探しになんてやってくるんだろうか。困惑していると近界民は唐突にうむ、と唸る。
「悪いがそれ以上は言えない。あんまり知られると、おまえも巻き込むことになるからな」
「……わかりました」
どうやら近界民は、本当に戦争倫理を遵守するつもりがあるらしい。一般人の私を巻き込まないように、という配慮をするくらいだ。私は危機感こそ拭えないものの、少しずつ目の前の近界民への警戒を解きつつあった。
けれど近界民は、呆気なく私へ残酷な事実を告げる。
「とは言え、今のままだとおまえを見逃すってわけにもいかない」
ぞくりと悪寒が走った。少なくとも害する意志はないものの、放っておけば近界民が最初に懸念していたような騒ぎになる可能性がある。だから近界民としては私をみすみす開放するというわけにはいかない、というのは当然の帰結だろう。
「そう怖い顔しなくても大丈夫だ。かくまってくれるなら何もしない」
「……匿う、って」
「とりあえず、ボーダーにおれを突き出そうとするなよ。ちょっと様子を見た方がよさそうだし」
それから、と近界民は淡々と条件を付け足す。お金は渡すから、衣食住の確保を手伝ってくれ。基本的に近界民のやることを邪魔したり、詮索したりしなければ危害は加えない。私が近界民を匿う限り、私の安全は近界民が保障する、と。
「……お金って、あなた、近界民なのに」
「うん。でも、ニホンのお金は持ってるよ」
そう言ってべろんと懐から取り出したのは間違いなく一万円札で……ちょっと、ぞっとするくらいの枚数だ。私はあまりに不審な取引に思わず、差し出されたお金を拒絶してしまう。
「あ、後でで、いいです」
「なんで?」
「だって、こんな、」
「受け取らないってことは、交渉決裂か?」
――近界民の鋭い眼差しに、私はようやく自身に選択肢が残されていないことを悟る。
私は自分の手がみっともなく震えるのを自覚しながらも、どうにか近界民から差し出されたお金を受け取った。その意味するところは、交渉成立だ。私はこれから近界民を自宅へと匿わなければいけない。
「よし。じゃあよろしくな、おねーさん」
にっこりと悪意なく笑顔を見せる近界民はやはり、バケモノなんじゃないだろうか。そんな成り行きで、私と近界民との奇妙な同居生活はスタートしたのだった。